― 香りの奥、ほどける白 ―

20250615オフイベ無配/6月らしい話を

 喰らいかけた鋭い爪をかわし、脇腹へ一閃。私の刃が鬼の首を断ち切ったのは、ほんの数息前のこと。
 鬼の気配が消えた瞬間、喉の奥でやっと息が通る。
 小粒の雨が降る中で刀を血振りすれば、赤に混じって水も一緒に跳ねた。
 刀を鞘に納めたところで視界の端に映った白に赤い炎を模した羽織。私の斬撃のあとを静かに見届けていた煉獄さんは、今降っている雨のように静かな調子で口を開く。
「見事だ」
 そのひと言だけ。
 でもそれだけで、戦闘後で喉元まで熱くなっていた感情が少しずつ落ち着いていくのが分かった。
 雨が降り続ける中、土が水を含んでぬかるみ、足に重さが加わっていく。どこかに雨宿りできる場所はないかと考えていると煉獄さんが私に向いた。
「確か藤の花の家紋の屋敷が近くにある。今夜はそこを借りよう」
 私は異論を挟まず、隠に事後処理の場所を伝えるよう自分の鴉に伝言を託す。鴉が飛び去るのを見届けたそのとき、不意に頬に触れた手に驚いて肩が跳ねた。
「煉󠄁獄さん?」
「……深いな」
 鬼との戦闘で負ったと思われる切り傷には触れず、その周囲にそっと触れて、傷の深さを確かめているみたい。
「藤の家紋の家に着いたらしっかり手当てしよう」
「これぐらいの傷ならそんなに気に――」
「駄目だ」
 短い一言で言葉が遮られた私に、煉󠄁獄さんが一歩近付いた。
「鬼殺隊である以上傷は避けられんが、ナマエに懸想する俺としては……」
 煉󠄁獄さんは、雨で濡れた私の髪を耳にかけながら、顔をそっと寄せてくる。口元が耳に触れそうなほどの近さで、雨に混ざって漂う煉󠄁獄さんの香りや、直接かかる息は雨の冷たさを忘れてしまいそうなくらい熱い。
「ナマエには少しの傷を残したくない」
「煉󠄁獄さ……」
 熱が伝わったように私の口からも思わず息が漏れ、隊服の胸元をぎゅっと握る。
「さあ! 急ぐぞ!」
 いつの間にか私から離れた煉󠄁獄さんは笑顔でそう言うから毒気なんて抜かれてしまい、私たちは少しだけ小走りで藤の花の家紋の家へ向かった。

* * *

 煉獄さんの鴉が先回りしていてくれたようで、藤の花の家紋の家に着くなり風呂へ案内される。
 風呂に置かれていた石鹸は柑橘系のいい匂いがして、沸いている湯船に入るとあっという間に体の芯まで温まった。あとで屋敷の人に石鹸をどこで買ったか聞いてみようかな。
 今度は風呂で温まりすぎた熱を冷ますために、濡れた髪を大して拭きもせずにふらりと縁側へ出る。
 湯上がりの空気は降り続ける雨のせいもあってほんの少し冷たく、心地よい。
 任務の報告書の段取りを頭の中で考えていると、ひと足先に湯を済ませた煉獄さんが既に縁側の一角に座っていた。
 濡れた髪をざっと拭いただけらしく、頭には白い手拭いがかけられていて、羽織は脱いで浴衣姿。いつもより少しだけ柔らかい印象なのに、姿勢はいつも通り凛としている。
 少し離れたところから観察していると煉獄さんは私に顔を向けて、ゆるりと笑った。
「そんなところで立っていないで、こちらにおいで」
「あ、はい……。それは?」
 促されるように歩み寄って、彼の隣に腰を下ろす。煉󠄁獄さんの手がなにか小さな容器を持っていた。
「屋敷の人に聞いたらよく効く塗り薬をくれたぞ」
 小さな入れ物の蓋を開けた煉獄さんを手元を覗くと白い軟膏。それを自分の指で掬おうとしたら、それより先に煉󠄁獄さんの指が軟膏の白に埋まる。
「俺に塗らせてくれ」
 軟膏を取っていない手が私の顎を上に向かせた。真剣な眼差しで私の頰の傷口に塗る手付きは優しい。
「よし、できたぞ!」
「ありがとうございます」
 あっという間に塗り終えてくれた煉󠄁獄さんにお礼を言って、ずっと気になっていたことを口にした。
「珍しいですね。手拭いをそんな風に被ってるの」
「拭くつもりだったが、先に風を通したくなってな」
 煉獄さんの指先が手拭いを少しだけめくると、ふわりと石鹸の香りが鼻をかすめる。
「あ、煉獄さんもあの石鹸使いました?」
「うむ。あれは柑橘系というのか? 香りがよく立っていたな」
「いい匂いですよね。私も使ったんですけど……」
 言いながらふと気になって、気がつけば無意識に煉獄さんへ身を寄せていた。肩の近くでそっと息を吸い込んだ瞬間、煉獄さんの体がピクリと跳ねる。そこで自分がいま何をしているのかに気づいた私は慌てて身を引いた。
「すみません! 急に近付いたりして!」
「いや、大丈夫だ。俺のほうこそ過剰に驚いてすまん」
 同じ匂いに釣られて身を寄せるだなんて場所も考えず恥ずかしい。風呂のときより火照る頬を押さえていると煉獄さんがとりなすように小さく咳ばらいをした。
「急にどうしたのか聞いてもいいだろうか?」
「……なんか煉獄さんのほうがその……いい匂いがして……。使った石鹸は同じはずなのに……」
「……ふむ」
 言い訳なんてなにも思いつかない。正直に告白すると煉獄さんが私の髪に鼻先を寄せてきた。
「れ!? 煉獄さんっ!?」
 これはとても恥ずかしい。そんな思いを煉獄さんにさせてしまったのかと思うと本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 ここで「やめてください」とも言えず、恥ずかしさに耐えていると煉獄さんがふと笑った。
「ナマエが隣に座ったとき俺もそう思った。ナマエの香りは俺の記憶よりやわらかく、甘い」
「っ……」
 恥ずかしさに視線を逸らしながら、やわらかく甘いのはどっちなんだろうと思う。煉獄さんの真似をするように自分の毛先をつまんで鼻を寄せてみるけど、煉獄さんが言うような香りはしない。
「甘い匂いなんてしないですよ……」
「香りなんて誰がまとうかで変わるものだ。俺にとって特別であるナマエの肌を通して香る匂いは格別だ」
「あっ、ありがとうござい……ます。だから私も……煉獄さんの匂いがいいって感じたんですね」
「ナマエもそう感じたなら僥倖だ」
 まっすぐ見つめられたまま、言われたその言葉と煉獄さんの匂いを風が運んでくるからまた顔が火照る。
「風が出てきたな。濡れた髪のままだと風邪をひいてしまう」
 そう言いながら煉獄さんは私の肩にかかる手拭いに手をかける。煉獄さんの手が私の額に優しく触れて、そのまま手拭いをそっとかぶせられた。布が目の上までふんわりとかかって、世界がすこし白くなる。
 手拭いを私にそっとかぶせたあと、しばらく私を見ていた煉獄さんがぽつりと呟いた。
「はは……、角隠しみたいだな」
「……角って……私、鬼に見えました? 今日の任務のとき、ちょっと気迫出しすぎました?」
 心臓が持たない距離でそんなこと言われた私が冗談めかして返すと煉獄さんは首を振った。
「違う。角隠しというのは花嫁が被る白布のことだ」
「えっ、あの……」
 知っていますよ、なんて言う機会を逸してしまう。だって布の隙間から見える煉獄さんの瞳が今度は視線を逸らすことを許してくれない。
「ナマエがそれを身に纏っていたら……。その隣には俺が立っているだろうな」
「っ!」
 私に被せたままの布の端が煉獄さんのほうへ引っ張られて、香りも温度も、雨の音すら聞こえなくなるくらいにすべてが目の前の人からしか届かなくなる。
 近付く顔にそっと目を閉じて、お互いの香りを分け合った。

2025/06/17:Twitter初出
2025/06/29:サイト用に修正