拾漆
自分の腹の虫で蘭丸は目が覚めた。目の前には月明かりにぼんやりと照らされた天井が見える。部屋は暗く、体はだるく、重く、そして幾つかの箇所が痛む。
「起きたか」
信長の声に顔を上げる。信長は寝間着姿で開いた障子に背を預けたまま、握り飯を頬張っていた。
「食べろ」
起き上がる蘭丸に、握り飯がのった皿を差し出した。
「有難うございます」
蘭丸は皿を受け取り、辺りを見回した。抱き合ったまま、部屋は服や下着が散らかり、布団は乱れ、頭が痛くなるような匂いが残っていた。
「要らぬか?」
皿を持ったままの蘭丸に信長が問うと、蘭丸はすぐに返す。
「いえ、頂きます」
持ってみると握り飯は冷たく、重い。噛んでみると米が餅のように固められているが、味噌が程よくなじんでいて美味しい。思い返せば桃を一切れ食べてから、初めての食事だった。あの桃も、残りは信長が食べてしまった。蘭丸は、渇いた口内にゆっくり握り飯を運んでいった。
「美味しいです」
「腹が空いて、台所に行ってもあるのは冷や飯だけ。どうにも冷や飯は纏まりづらい」
信長が握り飯を食べ終えた指を舐めながら言った。この固く大きな握り飯は信長が作ったものだったのか。それを知ると、少し胸が疼くような気がした。
「して、腹の具合はどうだ?出来るだけ掻き出したが」
「かき…?」
言葉の意味を理解し、蘭丸は咳き込んでしまった。蘭丸が意識を失ってから、信長は体調を考慮して処理をしてくれたらしい。確かに、あんなに出されたのに下から零れていることもない。蘭丸は、噎せながら「大丈夫です」と返した。
「大丈夫ではなさそうだな」
信長が微笑みながら手渡す湯飲みを、蘭丸は受け取り、一気に中身を煽る。冷水がひりつく喉や渇いた体内に染み込むような感覚だった。
「ふう…」
一息つき、握り飯を再び口に運ぶと、信長は妖艶な笑みで蘭丸を見詰めた。黙々と食べながら、裸でいることが恥ずかしくなってしまう。空腹も手伝い、大きな握り飯はすぐ食べ終えてしまった。行儀が悪いと思いつつ信長と同じように指先を舐める。
「食欲が戻ったようだな」
「はい。ご馳走さまでした」
「これのお陰か」
信長は包み紙を持って蘭丸に見せた。蘭丸は先の行為を思い出し、顔を赤くした。俯き、目線を泳がせた先に脱ぎ散らかした服を見つけ、立ち上がり拾いに向かった。体液が付着して固くなった箇所がある。蘭丸はそれに腕を通して前を合わせた。帯は見付からず、上前を抑えたまま信長の前へ戻り、肌が見えないように膝を折り腰を下ろす。
「その通和散には、食欲増進作用もあるのでしょうか?」
「ない」
「ないのですか?」
包み紙を玩ぶ信長が笑い、振り返る。
「うむ。催淫作用もない」
「え!?」
「嘘にのせられてよう乱れておったな」
「だって、信長様も…」
言いながら、信長は以前と同じくらいの活力だったことを思い出し、蘭丸の言葉は途切れた。蘭丸の倍以上の齢にも関わらず、信長は蘭丸の倍以上の力が有り余っているように思えた。
羞恥心で俯く蘭丸の頭を、信長が撫でた。
「あと二刻後に出立だ。疲れているならば、今少し休め」
信長の言葉に、予想より多く休んでしまったことに気付き、蘭丸は首を横に振った。
「十分休みましたから」
「そうか」
信長が蘭丸の手を取り、開いた膝の間に蘭丸を引き寄せた。信長の温かい体が背に当たり、肩に腕を巻き付けられ、蘭丸はそっと腕に手を重ねた。信長が蘭丸の肩に顎を預け、首筋に唇を寄せながら寄り掛かってくる。
「信長様は休まれたのですか?」
「うむ」
返事と共に零れる吐息がくすぐったい。間近で確認する信長の肌は艶も良く、隈もなく、きちんと休んだのが分かった。蘭丸は安心して、首を戻し信長の胸に背を預ける。温かくてまた眠ってしまいそうだ。母親のお腹の中にいる胎児はこんな気分なのかも知れないとふと思う。
「あっ…」
信長が蘭丸の耳を唇で挟み、肩に巻き付けていた腕を下にずらし、蘭丸の胸を薄い服越しに撫でた。
「眠いか?」
熱い吐息が耳を擽る。
「眠くないです。わぁっ」
これは信長の「眠るな」と言う意思表示なのだ。信長の指が弱点に触れそうになり、蘭丸は背筋や腕を伸ばした。その時、傍らの盆にのった水差しが手に当たり、倒れかける。蘭丸は慌ててその取っ手を掴み、元の位置へ戻した。その時、指に当たった何かが、ころんと転がる。信長が腕を伸ばしそれを捕まえ、盆の上で弾いた。
「あ…」
団栗の独楽が、平らな盆の上でくるくる回った。蘭丸は皿と水差しを盆から降ろし、可愛く踊る木の実を見守る。
子供の頃に、弟たちとこんな風に遊んだ。どちらが長く回せるか競ったり、父が作ってくれた出来の良い独楽を取り合ったりした。力丸の泣き顔や、弟を泣かせてしまった坊丸のばつの悪そうな顔を思い出した。あれから十余年の月日が経ち、幼かった弟たちは信長に殉じ、その短い生涯を終えた。
独楽は速度を落とし、傾いてころりと倒れた。
「信長様は独楽回しもお上手なのですね。蘭は、こんなに長くは回せません」
「独楽の仕上がりが良いからな」
「本当ですね。軸がきちんと真ん中に通っています。いつの間に作ったのですか?」
「貰った」
「頂き物ですか?」
「うむ。あの、源太郎と言う男だ」
聞き覚えのある名は、すぐ思い出された。信長を蘭丸のもとまで導いてくれた百姓の若者の一人だ。いつの間に、どんな流れで源太郎から貰ったのだろうか。疑問を抱いていたら、信長は口を開く。
「源太郎の死んだ妹は、汝と似ていたそうだ」
「え?」
見付かった蘭丸へ送る源太郎の眼差し。憐れみと、自分自身が傷つけられてしまったような悲しい目をしていた。そして、助けが遅れたことを謝り、蘭丸が礼を告げると、早く元気になってくれと大きな掌で優しく頭を撫でてくれた。
「だから、あの方は、あんなに…」
「ああ。その独楽は、幼き頃に妹に作ったものだそうだ」
「蘭も、父にせがんだことがあります。坊も力も、実が大きい方を欲しがりましたが、蘭は小振りなのも愛らしくて好きです。ですから、蘭の独楽は小さいものばかりで…」
信長が蘭丸の掌に独楽を載せた。小さくて丸くて可愛い形をしている。手の上の独楽は、子供の頃に持っていたものより更に小さく見える。蘭丸は、盆の上で幼い頃したように人差し指二本で軸を挟み、独楽を弾いた。
「当たり前ですが、不思議です。乱世で色んなことがあるのに、可愛い独楽はまだこうして回り続けます」
信長は何も言わず、蘭丸の肩に顎を預けたままでいる。肩越しから独楽を見つめているのだろう。
「信長様の天下はまた遠退いて、これからまた沢山の人が傷付いたり、尊い命を失うのでしょうけれど」
それは、信長の傷や痛みが増えていくことと同じだ。
「蘭は、その先を信じております。きっと、毎日こんな風に独楽回しをして遊べるようになって…」
蘭丸にとって木の実の独楽は優しさと温かさの象徴ではあるが、毎日独楽で遊ぶ程子供ではない。蘭丸が言葉を探していると、信長の腕が前に戻り、蘭丸の体を力強く抱きしめた。
「有難う」
信長がぽつりと呟いた。それが胸の奥に染み込んで、蘭丸は泣きたい気持ちになった。蘭丸は腕を伸ばし、信長の頭を引き寄せる。
この人はこれからも沢山の傷を背負い、闇を抱えながら、前へ進んで行くのだろう。けれど、絶対に痛みと暗がりの中に閉じ込めたりはさせない。蘭丸が信長の光りになり闇を照らし、膏薬になり傷を塞ぎ、温もりで包んであげるのだ。蘭丸にとって信長がそうであるように。
「星が一つ消えた」
信長が顔を上げ、呟く。蘭丸も同じ方に顔を向け、ゆっくりと白くなっていく空を見つめ、自分の体を包み込み大きな手に自分の手を重ねた。
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