肆
瞼の向こう側が明るいのは朝の訪れ。前日まで迎えていた朝とは違うものだった。愛しさを彷彿させる、懐かしい匂い。
(…信長様…)
蘭丸が目を開けると、ありふれた天井が見えた。視線を左右へ泳がす。そこはありふれた、それでいて見覚えのない部屋だった。いつの間にか眠り、その間に移動していたらしい。そして、布団の上には、蘭丸だけが横たわっていた。信長の気配は錯覚だったのだろうか。
影が入り込む。夜叉丸が上から覗き込んだ。
「お早う、蘭殿」
「…お早う御座います」
「吃驚したぞ、急に倒れるから。まあ、急に走り出したから無理もないが」
昨夜は、石段の上の信長の姿を見たところで、記憶が途切れている。
蘭丸はゆっくり起き上がる。
「起きても平気か?」
「はい…」
夜叉丸が背を支えてくれた。救出された時、外套を巻き付けただけの姿で布団を被って眠っていたようだ。信長を感じたのはこの外套のせいだったのかと一人で納得した。
「着替えさせようとしたのだがな、蘭殿が離そうとせず、このまま寝かせてしまった」
外套を見つめる蘭丸に、夜叉丸は言った。
「も、申し訳ありません。あの、此処は…?」
「京にある宿屋だ。本能寺で逃れた後も、ここの主人が匿ってくれたそうだ」
「本能寺…」
拐われる直前の記憶を呼び戻す。蘭丸は、殆ど騒動に関わっておらず、信長が生き残った以外の情報はない。あの百姓は、逆らう蘭丸にみんな死んだと言い張ったが、信長は生きていた。
「聞きたいことが沢山あるようだな」
夜叉丸は、蘭丸の表情で察していた。しかし、蘭丸は真実を知るのが怖くて、先に身近な質問を投げかけてしまった。
「信長様は、どちらへ?」
「別室で休まれている。先刻まで此処にいたのだがな。蘭殿が深く眠っていたから一先ず休んで頂いた。蘭殿が目覚めたら起こすように言われたが…」
「いえ、起こされては駄目です」
「そうだな、私ももう少し、休まれた方がいいと思う」
回答が終わり、蘭丸は拳を握った。
「信長様の他に、ご無事だった方は…」
「蘭殿が逃がした、年少の小姓二人と、女性の殆どは見逃して貰えたようだ」
蘭丸は夜叉丸の唇の動きをじっと見つめた。続きを待っても、夜叉丸のその後の言葉はなかった。沈黙の最中、拳に雫がぽたぽた落ちてゆく。真実を確かめなければ。
「では、弟達は…」
「…ああ」
「けれど、信長様は逃げ切ることが出来た。きっと、お役に…」
「そうだ、蘭殿。坊丸殿が戦ったから、本堂の襲撃が遅れた。力丸殿が囮になったから、お館様は先へ進めた。皆で、お館様を守り抜いたのだ」
夜叉丸が蘭丸を抱きしめる。華奢な夜叉丸の肩は、弟らと交わした最後の抱擁を思い出させた。あの時、別れの覚悟は出来ていたはずなのに。蘭丸は夜叉丸の胸で泣き続けた。
涙が枯れるまで、嗚咽が収まるまで、夜叉丸は胸を貸してくれた。蘭丸が顔を上げると、夜叉丸は顔を拭ってくれた。
「残酷なことだが、蘭殿が知っておかなければならないことはまだある」
信長が生きている今、弟らの死以上残酷な事実などない。蘭丸は自分でも目を擦って頷いた。
「別邸も襲撃され、信忠様は自刃なさった」
「信忠様まで…?」
「ああ、そちらは数名、生存者がいてな、立派な最期だったと。それから、先に女性は無事だったと言ったが、奥方様は行方知らずとなってしまった」
受け入れ難い事実にめまいがした。信長の嫡男の信忠も、信長の妻の濃姫も、蘭丸が敬愛する大切な人だ。
本能寺の襲撃から昨晩まで、蘭丸にとっての現実は残酷なものでしかなかった。しかし、離れたところに待っていたのはこんなにも残酷な事実。
「蘭殿、辛いだろうが、ここで絶望に呑まれては駄目だ。蘭殿はお館様の希望であることを、忘れてはならない」
希望。信長にとって、自分はそんなにも大それた存在なのだろうか。愛する家族を失った信長に、こんなちっぽけな自分が。
「けれど、蘭は…」
「ん?」
「汚されてしまいました…」
「それでも、生きてお館様のもとへ戻ることが出来た」
「こんな体になってしまったら…」
一端収まった涙が、また堰を切って溢れた。今度は、夜叉丸は抱きしめることはしなかった。立ち上がって、強引に蘭丸の体を担ぎ上げ、乱暴に戸を開ける。
「何を!?」
「風呂の準備は出来ているな?」
部屋の外にいた付き人の青年は、慌てて立ち上がる。
「はい!」
「よし。この分からず屋の体を清めて来る」
「手伝いましょうか?」
「いらぬ。食事の手配を頼む」
夜叉丸はそう言い捨てると、ずかずかと廊下を歩き、階段を降りた。脱衣所に着き、夜叉丸は蘭丸を下ろした。服を脱ぎ始める。
「夜叉丸殿、私、体くらい、自分で洗えますから」
「それを脱いで、洗い場に行くんだ」
夜叉丸は蘭丸の言葉を無視したまま、着物を脱いでいく。無言でいたが、下帯だけの姿になった頃、流石に気恥ずかしくなったのか夜叉丸が脱衣の手を止めた。
「どうした、人の体をじいっと見て」
「夜叉丸殿、綺麗ですね…」
蘭丸は呟くように答えた。
「蘭殿だって綺麗だ」
「…蘭は汚いです」
「だから、風呂に入って清めるのだぞ。まあ、私も入浴は久方ぶりだが」
夜叉丸ははぐらかす。蘭丸は余計に惨めになった。
「汚された事実は消えません」
「だからと言って、何日も垢を落とさないつもりか?」
夜叉丸の手が伸びる。蘭丸は襟を強く握った。
「嫌です!夜叉丸殿!」
「貸せ!」
「離して下さい!」
信長の外套を引っ張り合う。夜叉丸は容赦なく、蘭丸から外套を奪った。夜叉丸は、勢いに転びそうになる蘭丸の体を引き寄せ、そのまま抱き上げて浴室まで運んだ。
「大人しくしているのだぞ?」
夜叉丸は蘭丸の体を洗い場の椅子に座らせ、浴槽の蓋を開けた。手を洗い、湯船に手を入れかき回す。
「良い温度だ」
夜叉丸は、桶で湯を掬って蘭丸の頭に掛けた。蘭丸の体を濡らしてから、石鹸を泡立てて丁寧に全身を洗っていく。優しい指使いだった。
「よし、綺麗になったぞ」
夜叉丸は蘭丸の濡れ髪を纏めると、蘭丸を浴槽へ促した。
「有難うございました」
脂も埃も体液も洗い流した。しかし、辱めの痕跡が消えた訳ではない。至る所の鬱血や、擦り傷が消えるのも時間が掛かる。湯船に浸かり、惨めな体を温める。水面が揺らぎ、雫がぽたぽた落ちてゆく。
蘭丸のすすり泣きを、大きな水音がかき消した。夜叉丸が自分の体を洗っている。本当に久し振りの入浴だったらしく、纏った泡が灰色になっていた。その泡を流すと、より白い肌が浮き上がる。華奢な骨格ながら、薄い筋肉が均整の取れた形で乗っている。
夜叉丸は髪を結いながら浴槽の縁に腰掛けた。ゆっくり足先から湯船に浸かる。
「もう蘭殿の体は綺麗になった。傷だって、じきに治る」
「…治っても、事実が消える訳ではありません」
「蘭殿にとって、綺麗とはどういうことだ?」
「夜叉丸殿は、お綺麗だと思います」
「そうか。ならば私が、蘭殿と同じ目に遭えば、私を汚いと思うか?」
「同じ目に……?」
昨夜の出来事を思い出す。代わる代わる自分の中に男が入ってきて、強制的に快楽を促された。
「夜叉丸殿が…、そんなこと、考えたくないです」
体が震える。夜叉丸は深いため息を吐いた。
「すまなかった。しかし蘭殿、敢えて言うが、私は度量の狭い小さな人間だ。姑息で欲深く、蘭殿のように純粋でもない。今だって、蘭殿に嫉妬している」
「こんな、蘭に…?」
「そうだ。私は、お館様が蘭殿をどれだけ案じ、求めていたか共に行動している間、散々見せ付けられた」
「けれど、蘭はこんなになってしまいました」
「そうだな。蘭殿にとっては、一生の傷かも知れない。お館様もそれを背負うかも知れない。しかし、私にとっては、些細でつまらないことだ」
夜叉丸らしくない物言いだった。蘭丸は唇を噛んだ。
「夜叉丸殿は知らないのです、どれだけ、飢えた男共が乱暴で、残虐か!」
「ああ、知らない。蘭殿がどんなに酷い目に遭おうが、汚れたと思い込もうが、お館様に求められていることは変わらない」
夜叉丸は立ち上がり、浴槽の縁に座った。桃色に染まった肌に弾かれた水滴が流れ落ちる。組まれたすらりとした脚が蘭丸の目の前にある。
「どうした蘭殿、またじいっと見て。私はそんなに美しいか?」
夜叉丸が、繊細な足指で蘭丸の肩を小突く。
「美しくはないか?」
「美しいです、とても」
「有難う。私は汚い男共の慰み者にされたことはないからな。羨ましいだろう?」
夜叉丸は器用に足先で蘭丸の鎖骨にある鬱血をつついた。
「……」
「だがな、蘭殿のように私はお館様に求められてはいない。蘭殿が失ってしまったと言い張るこんな美しさとやらも意味がない」
夜叉丸はつい、と蘭丸の肩を押した。
「苛立ってしまうんだよ。必死で探して下さったお館様に、応えようとしない蘭殿が」
夜叉丸が脚を落とすと、湯が蘭丸の顔に跳ねた。
「蘭殿は、お館様よりも自分自身が可愛いのだな」
夜叉丸は立ち上がって、そのまま浴槽を出た。振り返らず浴室を出て行ってしまった。
「……」
夜叉丸の棄て科白を否定出来なかった。結局、自分自身でも認めてしまっているのだろうか。今だって、色んなことが頭を巡って、混乱したままでいる。もう会えない尊い人、半日前まで立て続けに受けた辱しめ、救い出してくれた信長。痛み、苦しみ、喪失、希望…。
絶望の中にいた昨夜まで、ほんの小さな可能性を頼りに踏ん張っていた。その時よりも信長は近くに居るにも関わらず、前へ踏み出せずにいる。
何もする気になれず、ぬるま湯に浸かったままでいると、脱衣所の戸が開いた。他の客だろうか。随分長いこと独占してしまっていた。しかし、その人は服を脱ぐことなく、浴室前までやってきて、足を止めた。
「蘭丸様、梅岡にございます。開けても宜しいでしょうか?」
知っている青年の声。夜叉丸の付き人だ。
「どうぞ」
「失礼致します」
青年は戸を開け、立ち上がると、足袋を脱いで浴室に足を踏み入れた。
「やはりご入浴中でしたか。のぼせてしまいますよ」
「すみません」
蘭丸は立ち上がる。くらりとよろけてしまい、青年が駆け寄り、蘭丸の体を受け止めた。
「申し訳ありません、光郎殿…」
「名前を覚えておいででしたか」
光郎は蘭丸の火照った体を大きな布で包むと、抱き上げた。脱衣所まで移動すると、丁寧な動作で体を拭いてくれた。
「先程は、長興様が、貴方を傷つけるようなことを」
「いえ…。夜叉丸殿が怒るのも、無理ありません」
「気付いておられるかも知れませんが、あんな態度を取ってしまったのも、本意ではありません。今、後悔の念でのたうち回っております」
「のたうち…?」
「はい。かようなお姿、とても蘭丸様にはお見せ出来ません」
光郎の言い回しに、蘭丸は笑ってしまった。夜叉丸のそんな姿は、ちっとも想像出来ない。光郎は優しく微笑み返し、蘭丸に浴衣を掛ける。
「夜叉丸殿、とても優しくして下さいました」
「はい。長興様は貴方様を見付けて、どれ程喜んだことか」
夜叉丸の言動、昨夜から今までを思い出す。
「私は、夜叉丸殿の優しさに応えることが出来ず、失望させてしまいました」
「お気になさらず。あれは、長興様が悪いのです」
「いいえ、私が…!」
「何故、蘭丸様が悪いのですか?」
「自分のことだけしか考えられませんでした」
「かような目に遭って、他の人のことを考えられる人がいるでしょうか」
「私は、信長様の小姓です。私情よりも、努めを全うしなくては」
蘭丸は浴衣に腕を通した。光郎が前を合わせ、帯を結んでくれた。
「流石ですね」
「いいえ。夜叉丸殿がいて下さったからです。私、謝りに行って参ります」
「それはなりません。蘭丸様には、すべきことがあるでしょう?まず、食事を召し上がって下さい。お部屋にご用意してあります故」
「有難う御座います」
光郎に促され、蘭丸は一人、眠っていた部屋へ戻った。布団は片付けられ、ぽつんと膳と座布団だけが置かれている。座布団に座って、手を合わせる。
「いただきます」
碗の蓋を開けた。殆ど汁状になっている重湯だった。匙で掬って流し込む。擂り潰された具材の優しい味がした。久しく口にするまともな食事も、蘭丸への気遣いが窺えた。泣きそうになるのを堪えながら、碗を手に持ち、中身を啜った。
食事を終えたら歯を磨いて、信長のもとへ行こう。昨夜は届かなかったけれど、今度はこの手に届くように。
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