妄想、愉悦。





   


 翌朝、診察と朝食を終え、康太郎と康は同じ敷地内にある離れの養生所に出向いた。
 源太郎は用を足し離れの厠から出て、養生所に入って行く患者の姿を眺めた。外まで列が出来て、随分忙しそうだ。
 手を洗い、部屋へ戻る。健吾が、未だに眠っている蘭丸の頬を指でつついていた。

「駄目だよ、起こしたら」

 健吾は手を止め、冊子を源太郎に差し出した。

「何だ?写本か?」

 頷く健吾の手から冊子を受け取り中を捲ると、綺麗な文字の羅列が現れた。

「健吾が書いただか?」

 健吾はまた頷き、新しい方の紙を指差した。いびつではあるが、心を込めて丁寧に書かれている文字だった。

「凄いだな。おら、字は読めんから…」

 言いかけて、源太郎は認識出来る文字が幾つかあることに気付く。

「は…?さらなり、ただ…」

 口にしてみると、健吾ははっと目を開いて、蘭丸の肩を揺すり始めた。

「おい、起こしたら…」

 源太郎が止めようとすると、蘭丸はぱちりと目を開けて、焦点を合わせる。

「ん?健吾殿?」

 蘭丸が緩慢な動きで起き上がると、健吾は顔を近付けて耳打ちしていた。蘭丸のぼんやりとした表情が一瞬で切り替わり、寝起きとは思えない強い視線で源太郎を射抜く。

「源太郎様、字が読めるのですか?」

「え?ああ、何でか、少しだけな」

 蘭丸は布団から飛び出すと、源太郎の隣に座り、文字を指差した。

「ここ、読めますか?」

「ええと……こそ?れつきたらめ…」

「読めるのですね!」

 蘭丸が表情を輝かせた。健吾も蘭丸の肩にしがみつきながら、可愛く笑っていた。

「ん、そうみたいだな」

「文字は此方に来てから私がお教えしました。記憶はなくても、知識は残っているのですね…」

 そんなに喜ばしいことなのだろうか。表情の変化に源太郎は戸惑う。全く知らない人達が、自分のことを大切に想っている。

「私、随分と眠っていたみたいですね」

 蘭丸は自分の服が皺だらけなのに気付き、気恥ずかしそうに自分の体を見下ろした。

「ああ。でも、四日も寝てなかったんだろ?もうちっと休んだらどうだ?」

「いえ、すっかり覚めてしまいました。顔を洗って来ます」

「ああ」

 蘭丸がてきぱきと布団を畳んでから部屋を出ると、健吾が冊子を持ったままその後を付いて行く。相当蘭丸になついているようだ。
 源太郎は部屋の隅に重ねられた古めかしい本を手に取った。訳の分からない挿し絵が描かれていて、文字も殆ど読み取ることが出来ず、別の本を開いた。植物や生き物の挿し絵があるが、難しい字ばかりでこちらも読めず、諦めて本を戻した。

「源太郎様」

 戸の外で顔を洗い戻って来た蘭丸が声を掛けた。

「どうした?」

「康殿が朝食を用意して下さって…、此方で戴いても宜しいですか?」

「良いよ」

 戸を開き、蘭丸が膳を持って入って来る。健吾の姿はない。

「あれ?健吾は?」

「養生所のお手伝いに呼ばれていました。薬の受け渡しをするんですよ」

「へえ、小さいのに立派だな」

「ええ、尤も、今は先生が私達が二人でゆっくり話せるよう、気を遣って下さったのですけれど」

 蘭丸は膳を置き、座って手を合わせ、いただきますと言って箸に手を伸ばす。随分と行儀が良いと感心したが、自分も昨夜と朝、同じことをしていたことを思い出す。記憶に残った十五歳の源太郎にはそんな習慣はなかった。抜け落ちた九年のうちに身に付いたのだろうか。

「……」

 源太郎は無意識に食事中の蘭丸を見つめていた。箸を持つ指や、食べ物を受け取る唇、咀嚼の度に動く頬に、嚥下で膨らむ喉。所作と元の容姿も相まって、とてつもなく美しく映った。

「何か?」

 蘭丸が視線に気付き、箸を止めた。

「いや、旨そうだなって」

 つい見とれていたことを、源太郎は誤魔化した。

「源太郎様は朝食はお粥でしたか?」

「うん。でも、体調も良いし、昼からは普通に食えるって」

「でしたら」

 蘭丸は源太郎の好きな芋煮を箸で挟み、小皿を添えて源太郎の口許に差し出した。

「どうぞ」

 芋越しの蘭丸は嬉しそうに頬を少しだけ染めながら、源太郎の開いた口に芋を入れた。胸がどくりと高鳴って、味がよく分からないが、「旨い」と当たり障りのない感想を言ってみた。

「先生が作ったんですよ。こちらの煮浸しは康殿が。皆様料理上手です」

「そうだな」

「けれど、源太郎様の料理が一番美味しいと思います」

「おら、米も録に炊けなかったけど、料理が出来るようになっているだか?」

「はい。蘭よりもずっと手際良く、美味しく作れます」

 蘭丸が満面の笑みで答える。

「お前、可愛いな」

「え?」

「可愛いと思うのは、見た目のせいだと思ってただ。でも、そうじゃない。おら、好いた女はお志津しかいなかったけど、今、胸が詰まるみたいな、ぎゅーってなった。おら、忘れる前はお前のこと好きだったんか?」

 蘭丸は箸を置いて、湯呑みに手を伸ばし、一口啜った。

「はい。源太郎様は、蘭を愛して下さいました」

「そうだか。でも、今、おらんなかにはお志津がいる」

「源太郎様が一途なのは存じております。けれど、器用ではありません」

「どういう意味だ?」

「世の中には、複数の人を愛せる方もいらっしゃいます。けれど、蘭も貴方も、特定の人で一杯になってしまいます」

「なら…」

 源太郎は言葉を飲み込んだ。こんなことを口にしたら、深く傷付けてしまう。

「分かっています。源太郎様が十五歳ならば、蘭が入る隙はないでしょう」

 そう言うと、蘭丸は食事を続けた。美しい姿がもの悲しく映り、源太郎は視線を外す。かちゃかちゃと箸が食器に触れる音だけが小さく響く。

「源太郎様」

 沈黙を切ったのは蘭丸だった。源太郎が顔を上げると、蘭丸は箸を置いた。

「私は、志津殿を大切に想っている源太郎様が大好きです」

「え?」

「洗って参りますね。すぐ戻りますから」

 蘭丸は源太郎が言葉を理解しないまま、膳を持って行ってしまった。
 志津を好きな自分が好きとは、一体どう言った意味だろうか。源太郎は蘭丸の後を追う。台所にはおらず、外に出て探すと、井戸端で屈みながら食器を洗っていた。源太郎の姿に気付き、蘭丸は立ち上がる。

「厠ですか?」

「否、さっき行った」

 蘭丸は不思議そうな顔で源太郎を見上げる。

「なあ、どういった意味だ?志津が好きなおらが好きって」

「そのままの意味ですけれど」

「好きな奴が他の奴好いてたら悲しくないだか?」

「悲しくもありますが、源太郎様らしいと思います」

 蘭丸はにこりと笑った。洗い終わった食器を桶に並べる。

「今日は晴れておりますし、外の方が暖かいですね」

「そうだな」

 蘭丸に促され濡れ縁に並んで座る。蘭丸は襷を外すと、赤くなった指先を頬に当てた。源太郎は蘭丸の両手を取り、息を当てて擦り合わせる。

「温かいです」

「小さい頃、家族にこうやってあっためて貰っただ。お前にも、したことあるかな?」

「いいえ。共に迎えた冬は初めてですから。けれど、寒い時は温めて下さいました」

「どんな風に?」

 蘭丸は頬を染め、長い睫を伏せた。

「肌を合わせたり…」

「えっ」

 源太郎は手を離した。また疑問が頭の中を巡る。やはり、していることはしているのだろうか。

「なあ、おらたちって夫婦ではないけど、恋仲だったんか?」

「はい」

 躊躇わない回答だった。

「そうだか。悪かっただな、酷いこと言って」

「いいえ。源太郎様は想った相手を大切になさいますが、それが蘭から志津殿に変わってしまっただけなのだと分かっています。悲しくない訳ではないですが、源太郎様らしいなと妙に納得してしまって、また好きになりました」

 蘭丸は照れ臭そうに言った。

「変な奴だな」

「きっと、十五の源太郎様が大人の源太郎様を知ったら、今みたいに変な奴って思うかも知れません」

「なして?」

「私は、貴方と出会う前にも大切な方がおりました。それは今も変わりません。源太郎様も、蘭の中にいるその方を受け止めて大切にして下さいました」

 この若さで以前にも懇意の相手が居たことを知らされ、胸がずきりと痛んだ。見知らぬ相手に嫉妬してしまっているのだろうか。

「…おらは嫌だな」

 ぽつりと言葉が零れ、源太郎は咄嗟に顔を手で押さえた。掌が熱く汗ばんでいた。

「初めからと言う訳ではありません。源太郎様を傷付けてしまったこともありました」

「そうなんか…」

「ですから、蘭がこんな風に思えるのは源太郎様のお陰です」

 蘭丸は穏やかに笑った。優しく、何処と無く儚げに見える。また胸が疼き、源太郎は服の上から押さえる。

「痛むのですか?」

 蘭丸が心配そうに顔を近付ける。源太郎は腕を伸ばして蘭丸の体を抱きしめた。

「源太郎様…?」

「お前を見てるとやっぱり胸が苦しいだ。何でだ?」

「では、目を閉じて下さい」

「駄目だ!閉じたって見える!笑顔も、泣き顔も…」

「では、直接見て下さい」

 蘭丸は顔を上げる。鼻先が擦れあった。

「どうですか?」

「可愛いと思う」

「そう言ったことではなく…胸は苦しいですか?」

「うん」

「肌が熱いですが、苦しいだけですか?」

「違う…」

 蘭丸が源太郎の頬に唇を当てた。覚えのある感触だった。

「お蘭も熱い」

「だって、大好きな源太郎様にこうされては…鼓動、分かりますか?」

 どくん、と跳ねる。源太郎は蘭丸の肩を掴み、身を離した。

「すまね、おら、さっきから…」

「いいえ。蘭は受け止めると言いました。それに、あんな風に抱きしめられて嬉しかったです」

 蘭丸は少しだけ残念そうに笑った。不味い。この子の魅力は毒だ。この子と過ごしてきた時間を失っていたにも関わらず、志津への愛を誓った昨日までの自分が、たったこの一時で揺らいでしまった。こんなのは、ちっとも一途ではないではないか。
「なして、お志津とおらは別れただ?人の気持ちって、簡単に変わっちまうものなんか?」

「そんなことはありません」

「だって、おらはあんなにお志津が好きで、お志津だって」

「お二人が別れることになったのは、志津殿が源太郎様を大切に想っていたからです」

「それは…」

「十五歳だったそうです。他に好きな人が出来て、その人に嫁ぐと言われたと。けれど、父上が亡くなって、借金が残り、志津殿はご自身でそれを返さなければならなくなって」

「え?」

「源太郎様を巻き込みたくなかったから、志津殿は別れを決めたのです」

「そげん…」

「お二人は真実の愛を間違いなく育んでおりました。どうか、ご自分も志津殿も疑わないで下さい」

 蘭丸の熱の入れ込みように尻込みしてしまい、源太郎は頷いた。

「分かっただ。でも、なしてお蘭がお志津のことを知ってるだ?」

「偶然、旅先で再会しました。志津殿は、宿屋で働いておりました」

「お志津はどうだった?」

「仕事は辛そうでしたが、逞しく働いておりました」

「そっか。良かっただ」

 これ以上踏み込んでいいものか。源太郎が質問するか悩んでいると、蘭丸から口を開く。

「志津殿は、きっと源太郎様が知っているままの女性だったと思います」

「じゃあ、綺麗で相変わらず気が強いんかな」

「はい。けれど、優しさもあります」

「そうだな」

「お金を返し終えたら、私達が旅立つ前にお世話になった養生所の…先生や康殿のお祖父様の兄に当たる方がいる所ですけれど、そこで薬師としてお手伝いをするそうです」

「そうなんか、良かっただ」

 源太郎は自分の大きな足の爪先を見つめた。きっと、今なら十五の時殆ど変わらなかった志津との体格差も開いていただろうと思う。
 志津が隣にいないのは寂しいが、彼女なりに自分の幸せを見付けて精一杯生きていている。それが分かっただけで十分だ。源太郎は己に言い聞かせて、無理矢理頭を切り替えた。きっと、これから聞く話はより辛い過去となるだろう。源太郎は改めて蘭丸に向き合う。

「お蘭、おらには家族はいなかったか?」

 蘭丸は瞳を揺らした。蘭丸自身が迷っているのか心の準備をしているのか、睫を伏せ小さく呼吸を調えている。

「私が源太郎様と出会った時、既にご家族はおりませんでした」

「そっか。やっぱ…死んじまっただか?」

 蘭丸は小さく頷く。

「十七の春にお祖父様が眠るように息を引き取ったと。十八の冬にお父上が持病の発作で、その翌年に母上が流行り病で…」

「そっか、おっかあもか…、おりんは?」

「りん殿は、十七の齢で、母上と同じように」

「若いな…」

 視界が暗くなる。急にどうしたことだろう。頭に手を添えられ、背中に腕を回されている。

「お蘭?」

「けれど、皆さんを看取ることが出来たと、源太郎様は仰っておりました」

「それは良かっただ。で、なしてお蘭はおらを抱きしめてんだ?」

「泣きそうな顔をなさってたから」

「そげん…」

 まなじりに感じていた熱は気のせいではなかったのか。源太郎は蘭丸の背中に腕を回した。予想より細く、肉付きの薄い体をしている。

「おら、聞くの怖かった。でも、知らない振りもずっとしていられんし…」

 言葉が紡げなくなる。代わりに涙と共に嗚咽が溢れた。蘭丸の腕の力が強くなり、薄い胸に源太郎は顔をうずめる。温かく、懐かしい匂いが余計に涙を押し出した。




 顔を上げると、蘭丸の胸には大きな染みが出来ていた。泣き腫らした瞼が重い。

「すまね、汚しちまった」

「いいえ。蘭はもっと泣きました。けれど、源太郎様はいつも胸を貸して下さいました」

「お前、いいやつだな」

「そんな…。私は源太郎様から沢山貰っていますから」

「それはお前がいいやつだからだよ。おら、記憶なくして不安だったけど、傍にいてくれるのがお前で良かったって思うだ」

「それは…そんな風に言われて、蘭は嬉しくて…」

 蘭丸は頬を染め、瞳を潤ませた。

「大人のおらがお前を好きだってのも納得した。一人きりの時にこげん綺麗で優しいおなごが、おらを慕ってくれたらそりゃ…」

 言葉の途中、蘭丸の表情が消えていった。何か不味いことを言ってしまっただろうか。

「あの、一人きりってのは、あれだよ?多分、家族が居ても、好きになってただろうし…」

 源太郎の取り繕った言葉に、蘭丸は同じように取り繕ったような笑顔で返す。

「いえ、嬉しいです」

 源太郎は納得した振りをした。

「では、そろそろ昼食の時刻ですので、準備して参りますね」

「なら、おらも手伝う」

「いいえ。目覚めたばかりですから、ゆっくりしていて下さい」

「ん、分かっただ」

 源太郎は隣から去って行く蘭丸の顔を見れずにいた。







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