弐
「……!」
源太郎が目を開くと、眼前には懐かしい面影の少女が涙を湛えて見下ろしている。綺麗な泣き顔だなと、源太郎は働かない頭でぼんやり思った。
「源太郎様、蘭です、分かりますか?」
少女は源太郎の手を握りながら訴えた。蘭とは、この少女の名前だろうか。
「ら…?」
声帯から声を絞り出す。何故、こんなにも喉が渇いているのだろうか。そして、酷く体が怠く、頭がずきずきと痛い。
「今、飲み水をお持ち致します故、先生を呼んで参ります」
少女は源太郎の手を源太郎の腹の位置へ置くと、素早い動作で部屋を出て行った。
何処かで会ったことがある気がするが、誰なのだろう。彼女は自分を知っている風だったが、知り合いに居ただろうか。源太郎は近所の顔見知りのおなごを一人一人思い出す。文太の妹でも、志津の友人でもない。そもそもあれ程の美人ならばそう簡単に忘れるはずがない。
「……」
握られていた手に、まだ彼女の温もりが残っている。源太郎は手をゆっくり上げて、見知らぬ天井に翳した。何処と無く違和感があり、この手が他人のもののように思えた。
「つ…」
手を下ろし、ゆっくり起き上がる。そしてまた違和感を抱き、部屋を見回し、知らない場所であることを確認してから体を見下ろした。綺麗な浴衣に身を包み、所々包帯が巻かれている。ずっと痛いままの頭を触ると、より分厚く布が重ねられていた。どうやら大きな怪我をしたようだ。と言うことは、ここは源太郎は訪れたことはないが、街にある養生所か何かか。あの少女が呼びに行った先生とは医師のことだったのか。
ここまで頭の中で把握すると、先生らしき青年が現れた。青年は親しみと喜びを込めた笑顔を向け、目覚めて良かったと言いながら傍らに腰を下ろした。
「気分は?」
「怠くて、頭が…」
「痛むか。強か打ったようだからな。だが、目覚めたんならもう安心だ。何せ、外傷は少ないのに四日も眠ってたんだからな」
四日。どうしたことだろう。何故、こんなに怪我をしてしまったのか覚えがない。
「水をお持ちしました」
「あ、起きれるだよ」
先程の少女がやってきた。背後に腰を下ろし、源太郎の背を支えながら水飲みを口許に差し出した。源太郎がなすがまま飲み口を含むと、容器を傾け、冷たすぎない温度の水が流し込まれる。ただの水なのだが、夢のように美味しい。そして、目線の先には少女の顔がある。目尻が赤く、真剣な表情をしていた。
「有難う、旨かっただよ」
源太郎が礼を告げると、少女はにこりと可愛く微笑んだ。見覚えのあるような気がするが、この子は一体誰なのだろう。此処で働いている助手か何かか。
「あの、おら、なしてこげん怪我を…」
「覚えていないのか?」
青年は神妙な表情をした。
「はい」
「裏山の崖から落ちたんです。帰りが遅いもので、探しに出向いたら、頭から血を流している源太郎様を見付けて…」
少女は答えながら、再び涙を浮かべ始めた。
「あ、あんたが見付けてくれただか」
源太郎の返事に、少女ははっと顔を上げ、潤んだ目を大きく開いて源太郎を見つめる。
「だが、おら、覚えがない。昨夜は仕事が終わったら、すぐ家に帰っただ」
「すぐに…?」
「いや、お志津と少し会ってたけども…」
「志津殿と?何処でですか?」
「お志津の家の傍でだ。あんた、お志津を知ってるだか?」
少女の表情は強張っている。
「志津って誰だ?」
青年が口を挟んだ。
「お志津はおらの幼馴染みだ」
「本当か?」
青年が疑い深い眼差しを向ける。まさか既に深い関係であることを悟られているのだろうか。
「ほ、本当だ!別に変な関係なんかじゃないだ」
「違う、そうじゃない。本当に志津って女と会ってたか聞いてんだ」
「何言ってるだ、そげんこと嘘つかないだ」
「先生、源太郎様は…」
青年は頭を抱え、少女はすがるように青年に顔を向けた。目覚めてから、違和感が拭えない。この二人にも、自分自身にもだ。
「さっきから何なんだ、目、覚めたら怪我してるし、あんたたちはおらを疑うし…。そもそも、あんたたちは誰だ!」
少女は戸惑いからまた表情を変えた。青年が乱暴に源太郎に掴みかかる。
「誰だとは失敬な。俺は兎も角、こいつはお前にとっちゃ大事な人だろう」
「知らん、おらの大事な人は、とうに決まってるだ。言い掛かりは止めろ」
「先生、お止め下さい、目覚めたばかりの怪我人に」
少女が割って入り、青年の手を取った。少女は青年を落ち着かせてから源太郎の手を優しく取り、微笑みを向けた。
改めて見ると、とてつもない美少女だ。長い黒髪も、きめの細かい白い肌も輝かしい艶を纏い、小作りな輪郭には整った配置で大きな目とすっとした鼻筋、小さく可憐な唇が収まっている。しかし、二度と忘れようのない美貌の少女が、誰なのかが分からない。
「目覚めたばかりでごめんなさい。幾つか質問しても宜しいですか」
「ああ」
少女は源太郎の手の位置を腿の上に直すと、自分の手を膝の上へ置いて座り直す。先は温かかった彼女の手が冷えていた。
「動揺さして悪かった。じゃあ、目覚める前の記憶を教えてくれるか?」
青年が落ち着いた口調で詫びを入れ、訊ねる。
「ええと…」
志津の強烈な媚態ばかりが思い出される。源太郎は下腹部が反応しないようにその後のことを強く思い返した。
「仕事して、お志津と会ってから、家に帰った。妹が出迎えてくれて、家族みんなで焼き飯を食べただ」
「家族がいるんだな?妹以外に誰がいる?」
「おじいとおとうとおかあ」
「住まいと仕事を教えてくれるか?」
「安馬田の外れにある集落だが、おらんちは更に外れにある。仕事は百姓だ。米の他にも野菜を作ってる」
「そうか。なら、今、源太郎は幾つだ?」
「十と五だ」
ここまで告げると、青年は質問を止めた。源太郎はちらりと少女の顔を確認した。何処と無く青白く、そしてあからさまに落胆していた。
「記憶障害だな…」
青年はぽつりと言った。少女は今にも泣き出しそうな顔を上げた。
「頭を強く打ったり、嫌な事に遭遇すると、こう言った現象が起こると聞いたことがある」
「それは、もとに戻るのでしょうか」
少女の声は震えていた。
「戻る場合もあるさ」
「では、戻らないことも…」
「かも知れん。だが、これはましな方だ。中には自分が誰で、言語すら忘れちまう場合もあるらしいからな」
この二人が何を言っているのか、源太郎には理解が出来なかった。
「なあ、おっちゃん」
「あ!?」
呼び名が気に入らないのか、青年は眉間に皺を寄せ、源太郎を睨む。
「おっちゃん?俺のことか?」
「他にいないだよ」
「俺はまだ二十八だ。十五の子供なら兎も角、年の変わらないお前におっちゃん呼ばわりされたくないね」
「え…?」
「先生」
身を乗り出そうとする少女を制し、青年は続けた。
「源太郎、お前は今二十四歳の大人だ」
「…へ?」
青年の言葉は余りに唐突で信じがたいが、冗談を言っているような顔ではない。
「さっきから違和感がないか?」
「ある…」
「それは体が成長したせいだろう。十五のお前の体はこんなに大きかったか?」
源太郎は自分の掌を見詰めた。青年の言う通りだった。しかし、違和感の正体に納得しても、頭はまだ混乱している。すると少女が優しい声で割って入った。
「源太郎様、今は怪我を治すことが第一です」
「え?」
「時間は沢山あります。ゆっくり今の環境に慣れていけば良いのです。焦らずとも大丈夫です」
今まで泣きそうな顔をしていた少女が、源太郎を不安にさせまいと優しい笑みを向けていた。思い遣りに胸が詰まるが、やはりこの子は見覚えがある気がする。源太郎が一点を見つめていると、少女は不思議そうに細めていた目をきょとんと開いた。ああ、この顔は…!青年の言っていた大事な人の意味。
「お前、おりんだな!?」
源太郎は少女の肩を掴んで身を乗り出した。
「こげん別嬪になっちまって、気付かなかっただよ!言葉遣いも違うし、立派になってっし」
妹と似た少女の瞳が戸惑いに揺れ、源太郎の言葉を否定した。
「…すまね、違うだな」
源太郎はもとの位置へ腰を下ろした。そもそも、少女は十代半ば頃にしか見えず、源太郎と三つ違いの妹の年齢だとすると計算が合わない。
「源太郎様、お腹、空いておりませんか?」
「え?まあ、そうだな」
「今お持ちします」
彼女が行ってしまったら、この遠慮のない青年と二人きりになってしまうではないか。源太郎は咄嗟に少女の手を掴んだ。少女は立ち上がろうとしたところで、不安定な体勢から源太郎の方へよろけてしまう。
「わっ」
源太郎は膝の上に腕を伸ばし受け止めた。顔が近くなり、少女は顔を赤く染めた。可愛いと、つい口にしそうになる。
「どうかなさいましたか?」
「否…、腹、減ってねえし…」
口にしたところで豪快に腹の虫が鳴った。その音で、青年は笑いながら立ち上がる。
「仕方ない、俺が用意してきてやるよ」
「けれど…」
「良いよ、源太郎はどうやら俺よりもお前さんに傍にいて欲しいらしい」
部屋を出て行く青年の言葉に、少女の頬がまた少し色付いた。じっと潤んだ目で見上げてくる。源太郎は少女の体制を正してから、布団を捲り上げて自分の体の向きを変えた。
胡座をかくと、裾から下半身が見えた。骨格のしっかりした長い脚に大きな足。改めて腕を眺め、もう一度手の大きさを確認する。本当に、今大人になっている。
「えーと、確か、蘭だったか?」
「はい」
「聞き間違えじゃなかっただな。じゃあ、お蘭でいいか?」
「はい。そう呼んで下さいました」
少女は顔を綻ばせた。名を呼んだだけでこんなにも嬉しそうなのは、先からの反応を見るに、彼女は相当自分を好いているようだ。
「なあ、お蘭はおらの何なんだ?」
「生涯共に居ることを誓い合った伴侶です」
「へっ」
源太郎の頭の中がまた混乱する。記憶だけなら志津と愛を確かめ合ったのは数刻前で、志津に想いを告げたのだって一年前だ。その時、志津は応えてくれて、将来を誓い合った。
「嘘だ」
「嘘ではありません」
源太郎は少女の腕を掴み布団の上に組伏せた。彼女は目を見開き、白い首筋に手を当てると、小さな悲鳴を上げた。
「随分初々しいだな。でも、夫婦ならこんなこともしてただか?」
「夫婦と言うのは語弊がありますね。源太郎様は、私にとって主君です」
「おら、そげん立派な奴になっただか?」
「私にとっては…。けれど、今も農夫として働いております」
「よく分からんな」
「半年程前に、源太郎様は私の窮地を救って下さいました。そこから、私は源太郎様に仕えるようになって」
「仕えるったって、別にすることないだよ?」
「その時も同じことを言われました。事実、源太郎様は自分のことは自分でなさいますし、蘭のすることと言えば家事をしながら帰りを待つことだけでした」
「そげんこと、お前じゃなくても、おっかあやおりんが……」
言葉が途切れる。この先を口にしたら、彼女が源太郎にとって辛い真実を告げてしまうかも知れない。源太郎は起き上がって、少女の体を解放した。
「悪かった。痛かっただな」
「いえ…。力が戻って良かったです」
少女は起き上がり、元の位置にまた座る。
「源太郎様、先も伝えましたが、今は怪我を治すことが大事です。記憶を失って不安でしょうが、源太郎様は一人ではありません」
「知らない人間といたって一人とおなしことだ」
「では、また蘭を知って下さい」
突き放すようなことを言っても彼女は怯まなかった。にこりと微笑んだと思えば、細めた目をそのまま閉じて肩から崩れ落ちていった。
「おいっ」
源太郎は咄嗟に自分の方へ引き寄せ、力の抜けた体を支えた。意識を失っている。
「おい、どうしただ」
さっきから唐突なことばかりだ。源太郎は少女を布団に寝かせ、部屋を飛び出した。盆を持って来た青年と鉢合わせする。
「どうした、そんなに慌てて」
「あ、あの、あの子が、急にふらって倒れて」
青年が盆を源太郎に手渡し素早く部屋へ入って行った。源太郎も後を追い、盆を畳に置いて診察している様を見守る。胸に耳を当て心音を確め、手首を取り脈を計ってから、すとんと腰を下ろす。
「眠ってるだけだ」
「ほんとか?」
「ああ、寝ずに看病してたから、疲れがたまってたんだろうな。安心して緊張の糸が切れたみたいだ」
「寝ずにって、四日もか…?」
「ああ、四日だ。長かったよ」
源太郎は少女の体を持ち上げ、布団を捲り、もう一度横たえてから布団をかけ直した。寝顔を確認すると、うっすらと目の下が窪んでいる。源太郎はそっと少女の赤く湿った目尻に指を当てた。
「この子が言ったことが本当なら、おらは色んなことを覚悟しなきゃならない」
「覚悟?過去を…今を知る為の覚悟か?」
源太郎は頷く。
「きっと、おらの傍には家族もお志津もいないだな」
「ああ。だが、お前はここに来た時、ちっとも寂しそうじゃなかった」
「そうか。なら、良かっただよ」
源太郎は少女の額を撫でた。
「おら、信じるだよ。お蘭も、先生も」
青年は目を見開いてから穏やかな笑みを浮かべた。
「安心した、十五に戻っちまったお前も、二十四のお前も、ちっとも変わってない」
「それは、成長してないってことだか?」
「そう言う意味じゃない。記憶を失う前も今も、真面目で誠実で良い奴ってことだよ」
青年は、手を伸ばし、盆を引き寄せ、源太郎の前に置いた。
「さあ、まずはこれを食べて、力を付けろ」
茶碗の蓋を取ると、湯気を立てた粥が現れた。
「頂きます」
源太郎は目の前で手を合わせた。
食事と診察を終えると、青年は源太郎の置かれている状況を話してくれた。
「俺の名前は康太郎。お前と蘭丸には先生と呼ばれている」
蘭丸と言うのは隣で眠っている少女のことだろうか。変わった呼び名だと思ったが、そのまま康太郎の話を聞いた。
「此処は神賀井ってとこの俺と妹夫婦が切り盛りしている養生所だ。お前と蘭丸は三月程前から神賀井にやって来た」
「こうがい…」
聞いたことがない地名だ。
「ああ。それまで暮らしていた安馬田を離れることになって、知り合いの伝でこの養生所を訪れたんだ」
「なしておらは離れなきゃいけんくなっただ?」
「詳しいことは聞いてないな。嫌なことがあって、大切な人に裏切られたと書いてあった」
「書いてあった?」
「その知り合いは俺の祖父さんの兄に当たる人なんだが、お前らは祖父さんの兄から祖父さん宛の手紙を持ってきたんだ。祖父さんは四年前に死んじまって、代わりに俺が読ませて貰った。頼る宛もないから、どうか世話をしてやってくれって内容だった」
「手紙だけ?なして先生は、そげん簡単におらたちを信用しただ?」
「否、手紙だけじゃない。生前、祖父さんからは兄貴が安馬田で医師をしているのも聞いてはいたし、お前らが手紙と一緒に薬とそれを作る為のえらい数の手順書を持っていたからだ」
「薬って、まさか薬草か?お志津は薬草に詳しかっただ」
「ああ。殆どが植物から作られているものだった。聞いてはいないが志津って薬師のものがあるのかも知れないな。兎も角、この手順書は有難かった。今も役立っている」
あんなに好きあっていたのに、何故志津は傍にいないのだろうか。覚悟をしたはずでも、今を考えると、頭の傷が痛んだ。源太郎は話題を切り替えた。
「で、それからおらたちは三月も厄介になってるだか?」
「否、住居の手配と仕事の斡旋はしたが、お前らはちゃんと独立してる。今養生所で休んでいるのはお前が怪我人だからだよ。まあ、蘭丸は此処を手伝ってくれているし、関わりは深い。俺は、お前らを家族と思っているよ」
青年の温かい笑顔は、源太郎の胸を締め付けた。形は違えど、今も家族が傍にいるのか。
「さっきはすまなかった…。この子にも、酷いこと言っちまった」
「目が覚めたら、謝ればいいさ」
「うん」
「それから…」
康太郎はこうー、と大きく叫んだ。足音が近付き、戸が開くと、康太郎と同年代の女性が顔を覗かせた。
「目、覚めたんだね?具合はどうなの?」
女性と共に子供が足元に隠れながら歩み寄る。女性が近くで腰を下ろしても、少年は背に隠れたまま源太郎を見つめている。
「妹の康と甥の健吾。家族だ」
「家族…」
二人とも康太郎と顔立ちが似ている。
「お康…さん」
「お康で良いよ。前もそう呼んでいたし」
「じゃあ、お康。それから…」
源太郎は康の背に隠れた健吾と視線を合わせた。
「健吾は幾つだ?」
源太郎は笑顔を作った。健吾は、小さな指を両手で七本立てながら口をぱくぱくと開いた。七つにしては随分と小柄に見える。健吾は康の背から離れ、源太郎の耳許まで顔を近付けて、消え入りそうな声で「ななつ」と答えた。
「そうか。おら、色んなこと忘れちまったんだけど、また一から仲良くしてくれるか?」
小さな頭に手を置いて、目の高さが合うように首を傾げた。健吾は真剣な顔で頷くと、源太郎の肩に腕を巻き付けてしがみついた。小さな体が震え、膝が崩れる。
「健吾?」
胸に熱い吐息が届いた。この小さな子供は、源太郎が目覚めたことを嬉しく思っている。
「心配かけちまっただな」
源太郎は同じくらいの力強さで抱き返して、小さな背を撫でた。健吾の後ろで、康太郎は安堵の笑みを浮かべ、康は前掛けで顔を拭いていた。
大丈夫だ。きっと、この優しい人たちとの時間はすぐに取り戻すことが出来る。しかし、失った九年の歳月はどうだろうか。そして、知らずして得たものは何だろう。源太郎はもう一度大きな手で健吾の頭を撫で、背後で眠る蘭丸を窺った。
「ん?」
腕の中の体が重くなった。力が抜け、しがみついていた腕がだらんと垂れ下がる。
「眠いだか?」
健吾は重そうに瞼をしばたかせた。ゆっくり源太郎の体から降りて、源太郎の背後に回り、猫のように蘭丸の布団に潜り込む。
「健吾もお前を待ってたんだ」
「そうか。優しいだな。待っててくれる人がいるのに、応えられなくてすまね」
源太郎の返しに、兄妹は笑った。康が口を開く。
「相変わらず人が良いんだ。そんなこと気にすることじゃないの。私達は、源ちゃんが目覚めてくれたことが嬉しいんだから」
「源ちゃん?」
「そう、源ちゃん。無理せず元気になってね」
康は小さな子供にするように、源太郎の頭を撫でた。
「お康はおっかあみてえだな」
「姉さんと言いなさい」
こつんと額を叩いて、康は立ち上がる。
「お風呂入ってもう寝ましょうか。兄さん、手伝って」
「ああ。布団敷いてやるから、お前ももう寝てろ」
「あ、有難う」
康太郎は蘭丸の隣に布団を敷いた。
「あの…」
「何だ?」
「健吾は、このまま寝かしてても良いだか?」
「ああ。邪魔でなければ」
「邪魔じゃないだよ」
康太郎は源太郎の質問の意味には気付かなかった。やはり、源太郎がこの少女と同じ部屋で眠ることに違和感はないようだ。
「じゃあ、お休み。俺達も隣で休んでるから、何かあったら声かけてくれ」
「分かった。お休み」
康太郎が部屋を出、源太郎は静かな空間に取り残された。何と目まぐるしいことだろう。源太郎は薄暗い中、瞼を閉じる。
(お志津…)
浮かんだ姿は、想い人の志津だった。源太郎ははっと目を開ける。すぐ隣には、蘭丸の綺麗な寝顔があった。源太郎は心の中で謝って、もう一度瞼を閉じる。
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