妄想、愉悦。





  


 源太郎が蘭丸と住んでいる家は源太郎の以前の住まいよりもこじんまりとしていた。
 先に掃除や洗濯を済ませてから迎えに来た蘭丸と共にその空間に足を踏み入れ、源太郎は中をじっと見つめた。蘭丸は源太郎を見上げながら訊ねる。

「狭くて驚かれましたか?」

「二人なら十分だよ。この大きいたらいは?」

 さほど広くない土間の三割程を占領する大きさで、一番最初に目に止まった。

「これは、私達のお風呂です」

「風呂?これが?」

「はい。此処には浴槽がないので、ここに湯を貯めて身を清めます。以前のように湯に浸かりたい時は養生所で借りられますが」

 蘭丸は言いながら、はっと顔を上げた。

「大丈夫ですよ。此処に紐を繋げておきましたから、布を掛けて隠せば、板間からは見えませんし」

「え?」

「絶対覗いたり致しません」

「そげん心配してないだよ。それに、心配するなら普通逆だろ?」

 源太郎は、慌てて弁解する蘭丸の額をちょんとつついた。蘭丸は気恥ずかしそうに顔を染める。

「どちらにしろ、おらは傷が良くなるまで風呂には入れないしな」

 源太郎は埃一つない板間に上がり、炉端の座布団の上に腰を落とした。

「いい匂いがするな」

 囲炉裏の鍋の蓋の間から微かに湯気が立っていた。

「はい。掃除の後に仕込んでおきました」

「食いたい。おら、腹が減っただ」

「では、いただきましょう」

 蘭丸は薬の入った巾着を置いて、水桶から水を掬い、手を洗って手拭いを濡らした。絞ってから源太郎に差し出す。

「どうぞ」

「有難う」

 蘭丸は椀と箸を盆に載せて囲炉裏の前に置き、草履を脱いで板間に上がる。蓋を取って椀によそい、源太郎に手渡した。

「上手に出来たか分からないですけれど」

「いただきます」

 手を合わせ、箸で丸い塊を口に運ぶ。

「旨いよ。何だこれ?」

「魚の擂り身です。それから野菜もいっぱい入ってます」

「そっかあ。初めて食べたけど、おら、これ好きだったんかな?」

「はい」

 蘭丸は土間の草履を揃えている。

「お蘭は食べないだか?」

「私は作っている時に何度も味見をしてしまって、まだ空いていないのです」

 味見を繰り返すと言うことはそれほど苦労して作ったのだろうか。源太郎は料理を噛み締めながらゆっくり食べた。

「お蘭はどっかのお姫さんか?」

「え?」

「言葉も仕草も綺麗だから、そうなのかなって」

「かような立場ではないですが、父の代からある大名家に仕えておりました」

「へえ。なして、おらたちは出会っただ?」

「窮地を救って頂いて…」

「おらがそのお殿様の?」

「いえ、その方は…」

 蘭丸が悲しそうに俯く。やはり、蘭丸の生涯も単純なものではないことを察した。

「辛かったら、話さなくていいだよ」

「いえ、大切なことですから。けれど、源太郎様は優しいから、聞いたらまた悲しい思いをしてしまうと…」

「でも、おら達が抱えてる過去だろう?覚悟はもうしてる」

「そうですね」

 蘭丸は源太郎の向かい側に座った。源太郎は空になった椀を置き、水を一杯飲んだ。覚悟は出来ている。今は志津との離別も、家族との死別も感情では片付けきれていていないが、認識は出来ている。

「私はある方に仕えておりました。しかし、家臣である男が大軍を引き連れ謀反を起こし、絶体絶命の状況になりました。京の本能寺と言う所です」

「京か、安馬田に近いな」

「はい。私はその方を逃す為に、本能寺に火を撒きました。しかし、その最中、火事場泥棒の連中に浚われてしまいました」

 蘭丸は淡々と話していた。

「火事場泥棒は安馬田に住む若い百姓の男でした。目覚めると知らない廃寺に居て、数日間其処に閉じ込められていました」

「……」

 源太郎は言葉が出なかった。想像を越える窮地だった。こんな美しい少女が囚われ、無事で済むはずがない。しかし、物語の粗筋のような抑揚のない語り口調のせいで、源太郎はもしかしたらと僅かに希望を抱いていた。

「其処で、蘭を救って下さったのが源太郎です。源太郎様は、蘭がりん殿と似ていると驚かれていました。そして、帰る場所がないなら一緒に暮らさないかと提案して下さいました」

 蘭丸の声色が少しだけ明るくなる。

「仕えていた方は本能寺で果ててしまった。蘭は、穢れた身では家族の元へは帰れず…」

 蘭丸ははっと源太郎を見つめた。すると、立ち上がって歩み寄り、源太郎の隣に腰を下ろした。

「何より、優しい源太郎様の傍にいたかったから」

 蘭丸が源太郎の頬を指で拭った。

「へ?」

 流れ落ちる雫に気付き、源太郎は目を擦った。

「いかんな、覚悟が出来てるって言ったのに」

「源太郎様、蘭は今幸せですし、この通り元気です。源太郎様以外の男性が怖かった時期もありましたが、今は平気です。源太郎様が癒してくれたからです」

「ん…」

 源太郎が顔をあげると、蘭丸は穏やかに微笑んでいた。源太郎はゆっくり手を伸ばして、蘭丸を抱き寄せた。この体は源太郎が知り得ない傷や痛みを受けたのだ。その事実が辛く、悲しかった。

「有難う、おらの傍にいてくれて」

「……そんなことを言われたら、蘭も泣いてしまいそうです」

「いいだよ泣いて。見えねえもん」

 源太郎の涙が蘭丸の髪に落ちて行った。




 薬を飲んで歯を磨くと、蘭丸は布団を炉端に敷いてくれた。体を横たえると、昼に蘭丸が干してくれたお陰で、日向の匂いが源太郎の体を包んでくれた。

「お蘭は寝ないだか?」

 土間に下りた蘭丸に源太郎は訊ねた。

「私は湯浴みをします。うるさいかも知れませんが、お薬のせいでじき眠くなると思いますので」

 そう言うと、蘭丸はたらいの前に通している紐に布を掛けた。予め沸かしておいた湯を移し、汲んだ水を加えて温度を調節している。
 囲炉裏の小さな小さな炎と湯桶の傍らにある行灯で薄布にくっきり影が映し出され、蘭丸の動作がよく分かった。服を脱ぎ、丁寧に畳み、台に置いている。その行程を繰り返し、とうとう肌着を取った。凹凸の少ない細い体をしていて、脚がすらりと長い。足袋を脱ぐ瞬間は思わずごくりと喉を鳴らしてしまった。源太郎は卑しさに気付き、背を向けて布団を頭に被った。
 自分はあの体を知っているのだろうか。掌を見て、先に抱いた肩の丸みを思い出そうとすると、何故か志津の胸が浮かんできてしまった。




(暑い…)

 源太郎は布団を剥いだ。薬の作用ですぐに眠れたものの、部屋の暑さのせいで夜中のうちに目覚めてしまった。源太郎は囲炉裏の火を確認し、寄せ集められた炭を倒した。

「ん?」

 火の向こうで眠る蘭丸の姿が浮かび上がる。蘭丸は座布団の上でどてらにくるまったまま眠っていた。綺麗な脚が赤く染まっている。

「仕方ないだな…」

 源太郎は布団から出て、蘭丸の枕元まで行く。まだ湿り気の残った長い髪からは甘い香りが漂っている。今二人きりなのを自覚して、また少し胸が高鳴った。

「なあ、お蘭」

 源太郎がどてらの上から肩を揺すると、蘭丸は目を開けた。目を擦りながらゆっくり起き上がる。

「どうかなさいましたか?」

「なさいましたじゃないだよ。ちゃんと布団敷かねえと風邪引くど」

「あ…」

「風呂から出て、布団敷かないまま寝ちまっただか?」

「すみません」

「おらが敷いてやるだよ」

 源太郎は足元にあった葛を開けた。しかし、着替えが仕舞われているだけで布団はない。他に収納出来そうな場所はこの狭い空間では見当たらなかった。

「布団、一組だけしかないのです」

「え?」

「……」

 蘭丸は気まずそうに俯く。

「なら、隣に来い。風邪引いちまう」

「けれど…」

「嫌ならおらがどてら着て寝るだよ」

「嫌ではないです!」

「へ?」

「隣で眠らせていただきます」

 蘭丸は布団へ移動して、壁側の端へ横たわった。

「お蘭、おら、暑いから火の方に寄ってくれるか?」

「あ、はい」

 蘭丸は反対側の隅っこに移動し、源太郎に背を向ける体制で横たわった。ここまであからさまだと遠慮してるのか嫌なのか分からない。一組だけしか布団がないのなら、もとは一緒に眠っていたものかと思ったが、別の事情があるのだろうか。源太郎は蘭丸の隣で仰向けになり、布団を被った。すると、蘭丸が半回転して源太郎に布団を掛け直し、はみ出ていた肩を隠した。そしてまた背を向け、横たわる。
 やはり、蘭丸は自分を大切にしてくれている。けれど、この微妙な距離感が掴めない。

(あ…)

 もしかすると、監禁された時に受けた心の傷がまだ癒えず、そういった関係にはなっていないのかも知れない。

「あの、おら、やっぱり…」

 床で寝ると言いかけたとき、蘭丸の反応がないことに気付いた。小さな寝息が聞こえる。源太郎はほっとして瞼を閉じた。






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