陸
信長は、支度を済ませると少数の護衛を連れて、安馬田へ行ってしまった。
蘭丸は見送りの時に信長自身から天守の部屋の掃除と整理を命じられた。伽以外の仕事を与えられたのは初めてだ。
蘭丸は、念入りに畳を掃き、床を拭き、家具を磨いた。さして広い部屋でもないが、慎重にやれば時間もかかる。終わった頃には、日が傾いていた。
「わ…」
窓から見える琵琶湖が真っ赤に染まっていた。水面の光りが風で揺れる。
「蘭丸殿」
蘭丸が美しい景色に視線を奪われていると、背後から夜叉丸が声をかけた。
「夜叉丸殿」
「琵琶湖を眺めていたのか」
「はい」
蘭丸は無邪気に夕日で顔を赤く染めていた。そして、思い出したように夜叉丸に訊ねる。
「夜叉丸殿、お館様は、今日のようなことをよくなさるのですか?」
「情事の最中に人を呼ぶことか?」
「ち、違います。先程、安馬田へ行くと決めて、早々に赴いてしまいました。すぐに戻ると仰っていましたが、急に城を離れても、大丈夫なのでしょうか?」
「ああ。暫くは公務を休むそうだ。安馬田へ行ってしまったから、そうもいかなくなってしまったが…。お館様には、すぐに駆けつけて下さる信頼のおける方が沢山おられる」
「何故、今日急に?あちらから呼ばれたのですか?」
「違う。三日前に、安馬田の領主…、鬼河原一文殿に、書状を送った、その返事だ」
「三日前…?」
「そうだ。安馬田から、急いでも往復するには三日は要する。一文殿は、直ぐにご決断なさったのだろうな。迅速な対応と、良きご返事に、お館様は心打たれたのだ」
蘭丸は書状を読んでいた時の信長を思い出した。とても、心を打たれたと言う風には見えなかった。
「良き領主に恵まれたな…と仰っていましたが」
「ああ。鬼河原も織田家の傘下に加わった。安馬田は領地は狭いが、また一つ、お館様の天下が近付いた」
信長を語る夜叉丸の瞳は輝いていた。いつも冷静沈着な夜叉丸には見られない表情だった。この者も、信長に魅せられた一人なのだと確信する。
「お館様は、鬼河原殿を大切になさる筈だ。きっと、安馬田も栄える」
「夜叉丸殿、とても嬉しそうですね」
蘭丸が微笑んで見つめると、夜叉丸は我に返って一つ咳払いをした。人前で高揚してしまい、照れているようだ。
「蘭丸殿は嬉しくないのか?」
「良きことなのは分かりますが、私はまだ、総てを把握しきっておりませんので、感情が追い付かないのです。ここの方々は、大変お館様を敬っておりますね」
「蘭丸殿は違うのか?」
「…違いませぬ」
何故だろう。信長を思い出すと、どうしても体が熱くなってしまう。尊敬は勿論しているが、他の感情も同様に抱いている。しかし、不純な気がしてそれを誰かに言いたくはなかった。
「私も、お館様を尊敬致しております」
蘭丸は、もっと信長を知りたいと思った。そして、いつか本当の意味で信長の役に立ちたい。勇敢な父のように。
蘭丸は窓辺から離れて、屏風の前へ移動する。
「夜叉丸殿、こちらの屏風、どちらに置きましょうか」
「屏風?」
「ここに置きたいのですけれど、日で焼けてしまっては良くありませんし」
「どうしてここに置きたいのだ?邪魔ではないか」
蘭丸は部屋の中央に屏風を置いていた。夜叉丸の素直な疑問に、蘭丸は言い辛そうに答えた。
「急に何方かがいらした時に…」
蘭丸の真意を察した夜叉丸は含み笑う。
「無駄だよ」
「何故ですか?」
「お館様は、蘭丸殿が困惑するさまを見るのがお好きであられる」
「え…」
「蘭丸殿は素直故な」
「あんなことがあっては、どなただって困ると思います」
「先に言いそびれたが、ここではよくあることだ」
「よく、あるのですか?」
遅い朝餉の最中に、信長に大胆な悪戯をされた時、皆は変わらずに仕事をしていた。夜叉丸の言うとおりなのかも知れない。
「ああ。蘭丸殿も慣れることだ」
「慣れる自信は、ありません」
「その方がお館様も喜ばれるやも知れぬ」
夜叉丸が笑った。綺麗だがそこはかとなく、狡くも見えた。
「や、夜叉丸殿は…恥ずかしくないのですか?」
「さあな。先に行く」
夜叉丸が部屋から出た後、蘭丸はもう一度屏風を眺める。一つため息をついて、屏風を安全な壁に移動させた。
- 6 -
*前次#
ページ: