捌
「やっぱり紫かしらね。でも、こっちも素敵」
小蘭は蘭丸の着物を選んでいた。
「蘭さんは何でも似合うから迷っちゃうわ。何枚でも構図が浮かぶの」
小蘭は子供のように表情が豊かでころころ顔が変わるのが面白い。
「小蘭殿、楽しそうですね」
「そりゃあ、楽しいわよ。だって、史上最高の題材を目の前にしているんですもの。これはどう?」
小蘭は鮮やかな赤紫の生地を蘭丸に見せた。大輪の花が描かれている。
「綺麗だと思います」
「そうね、でも…」
小蘭はまた首を傾げて悩んでいる。さっきから、このやりとりを何度となく繰り返している。
「小蘭、飯、出来たぜ」
「いいわよ、食事何ていらないわ」
呼びに来た小龍に顔を向けずに小蘭は答えた。小龍は溜め息をつく。
「そう言って、一日飲まず食わずになるじゃないか。昼にはこの子だって休むんだ。あまり根詰めるな」
「なら、この子と一緒に昼だけ食べるわ」
小龍は呆れ顔で返事をせずにいた。蘭丸は口を挟む。
「せっかく小龍殿が作って下さったんですから、召し上がっていらしてください」
「でも、時間が勿体ないわ」
「私なら、幾らでも付き合いますから」
「本当に?ゆっくりしてたら一日じゃ終わらないわよ?」
「構いませんよ。明日でも明後日でもまた伺いますから」
「…なら、食べて来るわ」
「顔洗って着替えて来いよ」
「分かってるわよ」
「食ったら、薬膳、飲んどけよ」
「はあい」
小蘭は時間が惜しいとばかりに急ぎ足で部屋から出て行った。
「あんたも食うか?」
「いいえ。済ませてきましたので。小龍殿は、随分面倒見が良いのですね」
「あんな姉だからね、世話焼かなきゃすぐ壊れちまう」
「まるで、小龍殿が兄様のようです。仲がよろしいのですね」
「まあな、あんたはいないのかい、兄弟」
「いえ、今は…」
「今?」
兄と末の弟はまだ生きているはずだが、こんな物言いでは誤解されてしまう。また作り笑いをしそうになって、踏みとどまった。きっとぎこちない顔をしていることだろう。
「もう関わりはありませんが、きっと元気に暮らしていると思います」
「そっか。そうだといいな」
察した小龍は、並べた衣装を眺めながら話題を変えた。
「服は決まったか?」
「いいえ」
「気に入らない?」
「違います。どれも素敵だと思います。けれど私は女性の服はよく分からないです」
「じゃあ、着たいと思うのは?」
「どれも華やか過ぎて」
「着飾ることに興味がないんだな。年頃のお嬢さんにしては珍しい」
小龍は桐の箱を開け、着物の包みを出した。
「これはどうだ?まだ仕立てたばかりなんだ」
包みを開ける。濃紺の生地に、金や銀の糸で細かい刺繍が大小点々と施されて、きらきらしていた。
「これ、星空ですか?」
「良く分かったな」
「凄い…、本物みたいに、瞬いています」
「これなら、遠目からなら派手じゃないしいいんじゃないか?」
「そうですね…」
「うん、似合うよ」
小龍は着物を持って、蘭丸に当てながら言った。確かに、これなら多少派手ではあるが、男の姿で着てもさほど不自然ではない。
「こんな柄、初めて見ました。小蘭殿の案ですか?」
「ああ。ここにある、半分くらいはそうかな」
衣装や道具を仕舞うこの部屋は、色んなものがあった。その分かかる費用も相当なものなのだろう。百姓が精一杯働いた半年分の給料を軽々と支払える人気絵師でありながら、広いばかりで質素なこの家に住んでいるのはそのせいなのかも知れない。住まいだけで、この姉弟が絵に掛ける情熱が窺えた。
結局、衣装を決めて、着付けが終わった頃には昼を回っていた。若干着苦しいが、そのままの格好で食事をすることになった。
小龍は、日中は売りに出ているらしく、小蘭と二人きり、土間の台で、向かい合って座った。小蘭は花の香りのする茶を淹れてくれた。
「源太郎さんて、いい人ね」
弁当の包みを差し出しながら小蘭は言った。
「はい」
「あたしは絵描きだからさ、観察眼はあるのよ。その人のこと、見ただけでだいたい分かる。源太郎さんは優しくてあったかい人だね。人の痛みも分かるし、包容力もある」
蘭丸は、手を合わせて包みを開けた。大きな握り飯が二つのっていた。
「美味しそうね」
「お一ついかがですか?」
小蘭は、朝餉が遅かった為食べる様子はなかったが、蘭丸の言葉に礼をいいながら握り飯を口に運んだ。
「美味しい」
ねぎ味噌の焼き飯だった。自分が寝ている間に作ってくれたのだろう。明日は早く起きて、自分が弁当を作らなければ。
「これね、小龍が作ったの。冷めちゃったけど、美味しいから」
小蘭は布を被せた皿を出した。布を取ると、大きな饅頭が数個載っていた。
「有難うございます」
蘭丸は礼を言いながら、固い飯を頬張る。
「きっと、蘭さんは源太郎さんの暖かさに救われているのね」
小蘭の独り言に近い呟きは、蘭丸の動きを止めるくらい的確だった。
「ええ」
蘭丸の不思議そうな顔を見つめながら、小蘭は穏やかに笑った。綺麗で、心を見透かすような目だった。
こんな眼差しを送る人を、蘭丸は知っていた。以前の主である信長は、よくこんな風に深い目で人の本質を見透かしていた。しかし、小蘭は天下を統べる野望など持っている訳ではない。若い絵描きの女性だ。
「あ、あまり、見ないで下さい」
「眼福、眼福」
小蘭は、茶化しながら笑った。
もしも、小蘭が本当に蘭丸を見透かしているとしたなら、何故、絵にしたいと思ったのだろう。こんなに臆病で弱い自分を。蘭丸は聞けなかった。彼女の口から本質を知らされるのは怖い。
「ねえ、こっちも食べてよ。」
小蘭は饅頭を指した。
「では、いただきます」
蘭丸は一つ取って饅頭を囓った。生地はもっちりとして、中は不思議な食感と味がした。細かい肉と筍の餡がぎっしり詰まっている。
「どうかしら?」
「美味しいです」
「そう?蒸かしたてはもっと美味しいの」
「いえ、十分このままでも美味しいです」
「きっと、小龍が喜ぶわ」
「小龍殿は、料理も上手なのですね」
「源太郎さんもね?」
小蘭は少し意味ありに微笑んで、無邪気に最後の一口を口に放った。
食事が終わり、少し休んでから制作に取りかかる。
食事で少し落ちた紅を唇に再度塗られた。
「うん、綺麗。じゃあここに座ってみて」
蘭丸は何をしていいのか分からず、ひとまず従った。
「あと、これを持ってみて。両手で、こう膝元に手を載せる感じで」
造花を渡され、小蘭の真似をしてみる。小蘭は離れた場所で、蘭丸を眺めた。
「いいわね。力、抜いて。足袋は脱いじゃいましょう」
小蘭は高さのある大きな台に、分厚い布のような紙を置いた。これに描くのだろうか。ずれないように角に文鎮を載せ、床に道具箱を開く。
「向こうの窓の景色を眺める感じで。そう」
窓に顔を向けたら、小蘭の作業は見えない。少し残念だ。
「退屈でしょうけど、しばらくそのままでいてね。表情は楽にしてていいから」
「はい」
小蘭は、その後、一言も喋らなかった。たまに道具の音がするくらいで、室内は極めて静かだ。
蘭丸は、あまり変わらない小さな景色を眺めていた。なるべく、表情を変えないよう、余計なことを考えないように。座禅を組む心構えでいればいい。穏やかな時間は刻々と過ぎていった。
空が赤くなり始め、夕の鐘が鳴ると、蘭丸の心が動いた。恐らく表情も。いつも、蘭丸はこの鐘を合図に源太郎を待っていた。気持ちを抑えようとしても、少し経つと些細な物音で反応しそうになった。
小蘭が、一息ついて立ち上がった。蘭丸の視界に小蘭が写り込む。
「今日はこれくらいにしましょ。お疲れ様」
小蘭は蘭丸に見せないように絵描きの台を壁に押し付けて、屏風で隠してしまった。どうやら、完成するまでは見られないようだ。
蘭丸は体の力を抜いて、首を回し、大きく伸びをした。
「ごめんなさい。本当は半刻ぐらいで休憩を取るようにしてるのよ。でも、蘭さんが辛抱強いから延々と描き続けちゃった」
乱れた前髪をかきあげる小蘭の指は、墨で汚れていた。
「大丈夫ですよ、体力はある方ですから」
「じゃあ、階下でゆっくりしましょうか。お茶淹れてあげる」
「有難うございます。着替えたら、行きますから」
「着替えちゃ駄目よ。せっかく綺麗なんだもの。源太郎さんに見せてあげなきゃ」
「ええ?」
「ね?」
小蘭はいそいそと階段を降りて行った。蘭丸は続こうとしても、丈の長い着物は足元がおぼつかず、裾を持ってゆっくり降りて行った。
小蘭は茶を淹れていた。癖の強い不思議な匂いがする。少し肉桂の匂いとも似ていて、それに花の香りが混ざったような、人工的な芳香だった。
「はい。飲みにくいけど、血の巡りが良くなるの。同じ格好ばかりしていると、肩や腰が痛くなるからね」
小蘭は蘭丸の目の前に置いて、自分も同じ容器で同じ色の茶を飲んでいた。
「有難うございます、いただきます」
一口啜ると、確かに苦く、つんとした刺激がある。
「不思議な味ですね」
「漢方って言ってね、明の歴史ある医術の一つで、そのお茶にも使われてるの」
蘭丸は飲み干して、湯飲みの縁に付着した紅を指先で拭った。
変な感じだ。確かに自分のものなのだが、この唇の跡も、先が赤く染まった細い指も、自分だという実感がない。
「これ、使って」
小蘭は手拭きを手渡し、席を立った。
「私は夕食の支度をするから、あなたはゆっくりしていて」
「私も手伝います」
「いいわよ。すぐ終わるし、それに着物が汚れちゃうわ」
「では、小蘭殿の衣装部屋、見ていても良いですか?」
「どうぞ」
小蘭の了承を得て、二階へ戻る。この部屋には色んなものがあって、蘭丸の好奇心を刺激した。
見たこともない奇抜な柄の着物、それから外国の民族衣装まであった。煌びやかな髪飾りや耳飾りなどの装飾品、扇子や色とりどりの造花などの小道具。
「わあ…」
本の挿し絵でしか見たことがない、皇帝陛下の冠がある。蘭丸は手に取って目の前で眺める。実物はこんな造りなのか。勿論、軽さからして表面にだけ金があしらわれているのは分かるが、それでも精巧で、細かい装飾がなされている。その隣には玉座まである。これは、完成途中なのか予算がないのか判断しかねるが、肘おきはただの木だった。蘭丸は、そこに腰掛けて背もたれに寄りかかった。随分大きい。大柄な男性でも問題なく座れそうだ。
改めて部屋を眺める。信長も見たことがないものもきっとある。信長がこの部屋を見たら、どんな顔をするだろうか。目新しいものが大好きな信長のことだから、きっと喜ぶだろう。
(信長様…)
今はもう、信長はいないのに。
信長の思い出は辛く哀しい記憶と共に引き出される。信長と過ごした毎日が満たされていた分、失った時の虚無感はとてつもなかった。
そして、その感情は源太郎に対しての罪悪感を抱かせていた。蘭丸は、部屋の隅の作り物の玉座の上で、小さく震えていた。
「蘭」
暗い部屋で、男に顔を覗き込まれた。蘭丸は、恐怖心から手で自分を庇うように振り上げると、その手を掴まれた。
「蘭?どうした」
小龍が灯りで顔を照らした。心配そうな顔をしている。
「怖い夢でも見たか?」
掴んでいた手を解放し、小龍は蘭丸の目元の雫を指で掬い取った。
「それとも、どこか痛いのか?」
「いいえ…。大丈夫です」
「そうか。源さん、帰ってきた。降りて来いよ」
小龍は、手持ちの小さな照明を手渡して、先に部屋を出ていった。蘭丸も、小龍の後に続いて部屋を出、階段を降りる。
「お蘭!」
階下には源太郎が立っていた。蘭丸の姿を見て、瞳を輝かせている。
「源太郎様」
蘭丸は転ばないようにしながら、足早に階段を降りた。
「綺麗だ。どこの国行っても、こんな綺麗な姫さんいないだよ」
源太郎は人目を気にすることなく賞賛するものだから、気恥ずかしい。けれど、この笑顔はついさっきまで抱いてた不安を一瞬で消してくれた。
源太郎に差し出された手を握って、引き寄せられながら同じ高さにたどり着くと、源太郎は蘭丸の頬に手を当てた。
「あの…」
今は二人きりではない。こんな所でその気になられても。
竃の前に立っていた小蘭が声を張った。
「源太郎さん、そんな汚れた格好でくっついたら駄目よ」
「すまね、お蘭があんまり綺麗なもんだから、つい」
「ふふ。着替えないで待ってて正解だったわね?」
小蘭の無邪気な問い掛けに、つい蘭丸は顔を赤らめてしまう。
「それじゃあ、着替えましょう?源さんも、手を洗って。ご飯にしましょう」
「え?おらたちも?」
「勿論。沢山作ったから、遠慮しないで」
小蘭は蘭丸の手から灯りを取って、階段を登った。蘭丸がついて行く時、後ろを振り返ると、源太郎は蘭丸の後ろ姿をにこにこと見上げていた。
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