妄想、愉悦。





   


 旅に出てから一番休んだ筈なのに、一番体が重い朝だった。

「んー…」

 蘭丸は布団からのそりと起き上がり、自分の体を調べてみた。痣だらけで乳首は腫れて熱を持っているが、肌は清潔で体内の痕跡もなかった。体の下に敷いていた皺だらけの浴衣を着て、傍らで寝入る源太郎に布団を掛け直す。
 昨夜も途中で意識を失って、また源太郎に面倒をかけてしまった。体を綺麗にして部屋へ運ぶのはどれだけ手間だったか。蘭丸は心の中で謝ってから、立ち上がる。一歩踏み込むと、爪先に何かが当たり、それが転がった。小さな貝の容器だった。拾うと仄かに甘い香りがふわりと鼻に近付いた。

「……」

 源太郎は、この匂いを好んでくれた。指先に掬って耳の下と膝の裏に伸ばした。塗ってから、何かしらを期待をしているみたいで気恥ずかしくなってしまう。蘭丸は気持ちを切り替えようと窓を開けた。空はまだ薄暗い。

「ん?」

 ちょうど、商人の若夫婦が出てくるところが見えた。二人とも大きな荷物を抱えていた。もう宿を出てしまうのか。

「あの!」

 思わず声を上げてしまった。二人は気付いて蘭丸を見上げた。目が合うと、にこりと笑って手を振る。蘭丸は、源太郎を起こさないように部屋を出た。階段を下りると、二人は框で蘭丸を待っていてくれていた。

「お引き留めして、申し訳ありません」

 蘭丸は謝りながら駆け寄った。

「そんなに血相変えて、買い忘れかい?」

 忠松が言う。

「いえ、お世話になったのでご挨拶を」

「それはご丁寧に」

「随分早いですけれど、もう発つのですね」

「ああ。昨夜のうちに源さんとも話せたし、これはさっさと売り払って、また開発しようって話し合ったんだ」

「開発?」

「通和散。まだまだ改善の余地はある」

 ちかが、不意に蘭丸に鼻先を近付けた。

「うん。やっぱりこの匂い、貴方に似合ってる」

 彼女からもまた、違った艶やかな匂いがする。昨夜選んだ練香の中に同じものはなかった。彼女の肌に溶けて、形を変えたのかも知れない。

「あの、本当に有難うございました。大切にしますから」

「大切に?特別な夜に遣うってこと?」

「え!?」

「通和散。まだ残ってるでしょう?貴方からは感想をまだ聞いてないわ」

 蘭丸はどう返したらいいか分からなくなる。

「ええと…。甘かったです…」

「それだけ?」

「それから、べたべたしてるけれど、感触は良いと…」

 やはり、恥ずかしくて上手く誉められない。しかし、夫婦は蘭丸の言葉を聞いて嬉しそうに顔を見合わせた。

「じゃあね、これをあげる」

 ちかは荷物の中から包みを出した。

「いえ、これ以上頂く訳には」

「ただじゃないわ」

「え?」

 ちかは蘭丸に包みを手渡すと、蘭丸の頬に短く口付けた。呆気に取られていると、次は忠松が蘭丸の前髪に一瞬だけ唇を押し当てた。

「じゃあね」

「またな」

 もう会えないかも知れないのに、近所の友人のような気軽さと気安さで告げて、二人は宿を出て行った。市に寄ればまた会えるだろうか。

 二人を見送り、部屋へ戻る。部屋の窓からも二人の姿は見えない。

「ん…」

 眩しいのか、源太郎が寝返りを打って、顔を背けた。眠りながら傍らを探るように腕を動かしている。

「ん?」

 蘭丸が隣に居ないことに気付き、源太郎は顔を上げた。蘭丸は、さ迷う手を握った。

「ここにおりますよ」

 源太郎は微笑んで、仰向けに寝転んだ。

「おはよ、お蘭」

「お早うございます。昨夜はごめんなさい。また気を失ってしまって」

「いや、おらこそすまね」

 源太郎は、何かに気付いて蘭丸の頬へ手を伸ばした。

「血…じゃねえよな」

 蘭丸の頬をなぞった源太郎の指先には赤い塗料が付着していた。

「それは紅です。先程、商人のご夫妻が出立していたので、ご挨拶をした時に」

「紅がなして頬に付くだ?」

「ちか殿に…口付けされました」

「ふうん…」

 源太郎は手拭いで蘭丸の頬を擦った。あまり面白くなさそうな顔をしている。

「お代だと言っておりました」

 言い訳したものの、もし彼女が源太郎に同じことをしたら、蘭丸だって心情穏やかではいられないだろう。忠松にもされたことは黙っておくことにした。

「あの、これを」

 蘭丸は受け取った包みを差し出した。

「貰ったんか?」

「はい。お礼を伝えたかったのに、これを手渡したら直ぐに行ってしまって」

「きっと、お蘭に使って欲しかっただな。お蘭がいい子だから」

「子供みたいな言い方ですね」

「否…」

 源太郎は包みを開いていた。

「子供にはこんなん使わないだよ」

 中には通和散の瓶が三本あった。蘭丸は、変鉄のない小さな瓶を直視してしまった。源太郎は一本取り、栓を抜いて鼻先を近付ける。

「違う匂いのやつだ。選ぶ時、昨夜のと迷っただよ。覚えててくれただな」

 源太郎は瓶を逆さにしようとした。蘭丸は、零れないうちに源太郎の手から小瓶を奪った。

「ちょっと試すだけだよ?」

「蘭で試すおつもりでしょう?」

「うん」

 源太郎は素直に頷いた。こんなところが愛おしい。しかし、ここは理性を優先しなくてはならない。

「ちょっとで終わらないではないですか。昨日だって、二回も気絶してしまいました」

「確かに、一回じゃすまないかもな。おらも流石に疲れたし、今は止めとくだ」

 源太郎は蘭丸の胸に寄り掛かってきた。

「旅疲れですか?」

「いや、それ以上にし過ぎただ。野宿の時よりもかったるい。旅の前日から出来なかった分、取り戻したかっただよ」

「宿に泊まって、布団で休めるのに、体力を消耗してしまうなんて…。程々になさらないから」

「程々か、難しいだ」

「はい」

「一度だけでじゃ足りなくて、余計にお蘭が欲しくなっちまって、自分を抑えられなくて…」

「源太郎様…」

 ついほだされそうになるが、堪えた。このまま突き進めば出立にも遅れが生じてしまうかも知れない。

「朝餉までまだ少しありますから、もう少し眠りましょう」

「ん、そうだな」

 源太郎は横になり、蘭丸の手を引いた。蘭丸も源太郎の隣に体を倒した。源太郎に体を抱き寄せられる。
 源太郎の胸が呼吸をする度動いて、心地いい律動を刻んだ。
 この旅もあと少し。旅を終えたら、きっとまたこんな風に夜を過ごし、朝を迎えるのだろう。繰り返し繰り返し。

「お蘭…」

「はい?」

「あれは神賀井に着いて、暮らしが落ち着いたら使おうな?」

「…分かりました」

 返事をすると、源太郎は蘭丸の額に唇を押し当ててから、目を閉じた。少し経つと、源太郎の寝息が蘭丸の前髪に当たる。
 あと一刻程で、朝の支度が始まるが、眠れるだろうか。源太郎の腕の中で、蘭丸は胸を高鳴らせていた。








-了- 




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