上司の三途と部下子ちゃん

 ちらりと時計を見ると、もう21時を回っていた。余裕で定時を過ぎている。3ヶ月分の経費精算をやっとけ、などと当たり前のように三途さんから命じられて、私は死にものぐるいでパソコンとにらめっこしていた。あと少し……あと3枚の領収書入力が終われば帰れる……。目がちょっとかすんでるけど、目薬をさす時間すら惜しい。一心不乱にキーをたたいていると、
「痛っった!!」
 いきなり髪の毛を引っ張られ、ブチブチと音を立てて引き抜かれた。たまらず振り返ると、上司の三途さんがいる。
「あー悪ぃ悪ぃ。オマエのそのクソ長ェ髪にでっけー埃がついてたから」
「そんなん自分で取れますよ!」
「無理だろ」
「はぁ!?」
「オマエ鈍臭ぇし」
「いやそれとこれとは関係ないでしょう!」
 ていうか、埃を取るのと髪を引き抜くのとではだいぶ動きが変わるんじゃないか。もしやわざとか? 私がよほど気に食わないのか??
「これもやっとけよ」
「え」
 どさり、と何かの写真の束が私の目の前に置かれた。おまけ程度にメモ用紙が2枚乗っかっている。
「その写真スキャンして取り込んで、メモの内容も報告書に書いとけよ。オレは先上がるから。下手な文書いたら処刑な」
「あっちょっ……」
 帰りやがったあのクソ上司。よりによって一番めんどくさい報告書作成押し付けて。一生恨むぞ。
 でも悲しいかな、私には社畜根性が染み付いてしまっている。
 なので写真をすべてPDF化して、報告書をきっちり書いた。さらにそれをメールで万次郎さんのアドレスに送ってから退社した。偉い。今日は頑張ったしちょっといいビールでも買って帰ろう。
 そんなことを考えながら社内の廊下を歩いていると、会社のフロアで三途さんを見かけた。まだ帰ってなかったの? 人にめんどくさい業務押し付けといて?
 ……というか、もう22時半なのに何してんだ? 
 私は興味本位でこっそり近づいた。すぐに後悔した。
 なぜかといえば、彼は私からむしった髪の毛を、その場で自分から引き抜いた髪の毛とまとめて結びつけていたから。
 なるべく音を立てずにその場を離れた。あんな呪いをかけるなんて、私は相当嫌われているに違いない。近いうちに異動願いを出そう。通るかどうかわからないけど。

 異動願いを出して2週間後。
 上司とうまいこと離れられるかもしれないチャンスが、思いのほか早く巡ってきた。
 相談役である明司さんと、一対一で話す機会が設けられたからである。
 社員の不満や要望を聞いて、裏切りを未然と防ぐ……もとい、今いる人材をより大切にしようとかなんとか。
「あんたがナマエだっけ。三途の部下の」
「はい」
「じゃ率直に聞くけど、この組織において不満はあるか?」
「あります!」
 明司さんの眉がピクリと動く。
「三途……さんの下で働くのはもうイヤです!!」
「……ほお。なんでまた」
「その理由を今から説明していきますね!」
 私は滔々と話し始めた。
 誰と話していても常に睨まれていること。
 一人でやれと言われた業務なのに、なぜかずっと監視されていたこと。
 少しでも遅刻しようものなら、すぐさま電話がかかり急かされること。
 そしてこの前、髪の毛をむしられ三途が私に呪いをかけていた所を目撃した事実……。
 はじめは訝しげに聞いていた明司さんも、私の話を聞くうち何とも言えない顔になっていく。
「髪の毛同士をまとめて結ぶ……あいつそんなことやってんの?」
「はい! 証拠としてLINEのスクリーンショットも、会話を録音したデータもあります。確認しますか?」
「いやいい。不平不満はよーくわかった」
「でしたら私の異動をご検討いただけますね! できれば鶴蝶さんのところで働きたいです」
「……ま、掛け合ってみるわ」
 うーん。ちょっと歯切れが悪い答えだけど、きっと何とかしてくれるだろう。私は部屋を出て業務に戻った。

 翌日。始業時間5分前に着いて、デスクでパソコンを起動していると、三途さんがスッと近づいてきた。またなんか朝一であれやれこれやれって指示かな、と思っていたら。
「おい……ナマエ……さん」
 思わず振り返った。
 聞き間違いでなければ、あのクソ上司が私のことをさん付けで呼んだよね? 幻聴か?
「……ンだよ」
「いえ……おはようございます」
「おう……」
 なんだ、いったい何があったんだ。あ、もしかして。
「三途さん。二日酔いですか」
「は?」
「あれ、違いましたか? いつもと違って言動にキレがないので、お酒の飲みすぎかなーって。どっちにしろ私は普段通り仕事してますんで、奥で休んでたらいいんじゃないでしょうか」
 その方が落ち着くし、と喉まで出かかってこらえた。でも、彼は今の言葉で機嫌が悪くなったらしい。そこらへんのゴミ箱やコピー機に、八つ当たりがてら蹴り入れて去っていった。なんなんだ本当に。

next

back
top