夜鷹が目を醒ましたのは、仄かに潮風が香る涼しい夏の朝だった。
鼻腔を擽る柔らかな潮の匂い。穏やかに頬を撫ぜる心地よい風。いやにリアルな夢だと身じろぎした時、身体の奥から走った確かな鈍痛に、幻の一時と決め込んで意識を再び手放そうとした夜鷹は今度こそ凍り付いた。
動かない足を引き摺ってベッドから這い出て、部屋の隅で身体を縮こまらせて恐慌の声を上げていると、閉まっていた扉の先から駆け足気味の物音がした。
入って来た男は極度の混乱から過呼吸を起こしかけている夜鷹に駆け寄って何度も「大丈夫だ」と声をかけ続けた。暫くして何とか呼吸が治まり、それでも収まらない混乱の中で男は安心させるように背中を摩って来た。
バイラやファウスト、ゲノムとは違う誰か。10年の間に一度も見た事のない顔だった。確かな怯えを滲ませる夜鷹に、彼は端正な顔を苦し気ながらも微笑みに形作った。
「ここに、もうお前を傷つけるものはいない」
信じる事をやめて久しい思考が、その言葉の意味を呑み込む邪魔をしていた。
それでも、10年間夜鷹に触れた体温全てが等しく夜鷹の肉体と精神を甚振ったのに対して、彼の体温は寧ろ壊れ物を扱うかのように優しかった。
いつその体温が自分の肌を刺すのだろうと、その怯えはいつまでも消えない。
穏やかな表情の男は、背中を摩っていた手を額に持ってきて、そのまま頬に滑らせた。かさついた、ほんの少し冷たい掌はいつまでも夜鷹を傷つける兆候を見せない。
「よく…生きていてくれた。本当に……よく、頑張った」
その優しすぎる言葉に、脳内で少しの引っ掛かりを覚えた。
痛切な程の感情を内包したそれは、もう記憶に微々たるものすら残っていないあの声によく似ていた気がした。
唯一自分を傷つけなかった言葉。ただずっとその言葉だけにしがみ付いて生きて来た。
どうして、そんなに辛そうな顔をしているんだろう。まるで迷子のような、痛みに耐える子供のような顔をして。
此の男は自分を傷つけない。ほんの、本当に少しだけそれを信じたくて、夜鷹は彼の顔に手を伸ばした。細かい傷が残って痛々しい程に細い腕だった。手を伸ばされた男が驚いたように目を見開く。
「………、」
「夜鷹…?」
彼の瞳は乾き切っていて少したりとも兆しを見せていないのに、まるで泣き縋る子供のような面影を見てしまう。
言葉が出ない。まだ怯えに喉が引き攣って満足に声も出せない。
それでも、湿り気すらない目元に指をやって、涙を拭う真似事をしてしまう。
それで一生分の勇気を使い果たしたのか、彼が身動ぎをした瞬間何かされるのではないかと即座に手を引っ込めた夜鷹に、男は穏やかに微笑んだ。
「…肩が冷えている。…ベッドに戻って休んだほうがいい」
「ぁ、……!」
彼は夜鷹を怯えさせないように、極めて細やかな動作で夜鷹を抱き上げると静かにベッドに降ろした。
ブランケットをかけられると、柔らかな温もりが冷えた身体にゆっくりと染みた。
瞼がゆっくりと降りていく。髪を撫でられる感触がした。恐ろしくはあったけれど、彼は徹底的に夜鷹を怯えさせないように配慮しているようだった。
瞼が降り切る前、男を見上げた。彼は穏やかに微笑んでいて、朝の光が端正な顔を柔らかく照らしていた。
それだけで何故か泣きそうになって、それと同時に、久しぶりにゆっくりとした感覚で夜鷹の意識は眠りへと落ちて行った。
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