カードキーと網膜認証を済ませ、了見は部屋に足を踏み入れた。
人が入って来ぬよう内側からパスワードをかけ、扉をロックする。目に痛い程白く無機質な部屋の真ん中で、パイプベッドに寝かされた姿を捉えるなり、足早に駆け寄った。

「…夜鷹」

呼びかけた声に、眠る少年は微々たりとも反応を示さなかった。
つい数時間前まで体内を電流で散々嬲られ、実験が終わった頃には過呼吸さえ起こしていた様子だったが、今は死んだように眠っているだけだった。
ずっと実験の様子を、了見はモニターで見ていた。恐怖し、拒絶の言葉を諦念さえ滲ませた声色でぼそぼそと吐き出していた彼の姿を。
殆ど整えられていない無造作に伸びた髪を掻き分けて青白い頬に触れる。決して健康的とは言えないかさついた感触には仄かなぬくもりがあった。
10年ぶりに触れた彼だった。あの白い部屋に閉じ込められるまでの彼の穏やかな笑顔を、もう了見は10年も見ていない。
10年前名すら知らず、数年前父のデスクの資料を盗み見て彼の名前が既に失われたものであり、新たに与えられた戸籍に記された『夜鷹』という名を知った。
幼く、きっとまだ純粋だった了見のささやかな初恋を奪った、可愛らしい初恋泥棒の笑顔は見る影もない。

「…すまない」

震える声でそう絞り出した了見の声を正しく聞き留める者はいない。
ずっと見ていた。聞いていた。…ただ見ていただけだった、聞いていただけだった。10年もの間。
実験が始まる数か月前突如父が連れて来た夜鷹は正真正銘無知で無垢な子供だった。何も知らなかった彼に、了見は色々な事を教えた。
一つを知る度、理解する度花が咲くように笑ったあの無垢な笑みは、幼い了見の確かな初恋だった。ずっと女の子だと思っていた彼が実は男だと知って、早くも初恋が終わった苦い思い出も。
だが10年前、了見は突如夜鷹から引き離され、夜鷹はあの白い部屋に隔離されてしまった。了見と二人で育んだ情緒や感情をそのままに、記憶の全てを消去されて。
了見の父である鴻上博士の実験の中核を担っていた夜鷹への実験の過酷さは、他に6人いた被験者の子供達の群を抜くものだった。
壮絶を極める実験に元から悪かった足が完全に破壊され、身も心も壊れていく夜鷹に、了見は触れる事すら許されなかった。

「すまなかった……」

毎日を彼らの悲鳴の中で過ごしながら指一本触れる事すら許されなかった了見は、耐えきれず何度も端末へと手を伸ばした。
それでも、父は言っていた。滅びゆく人類を救う希望の為にこの実験は必要不可欠で、その為に夜鷹の存在はなくてはならないものなのだと。
その言葉と父を信じたいという気持ちが了見に判断するのを踏みとどまらせた。
第三者へ通報をすれば、被検体の子供達も、それ以上に彼をこれ以上傷つけずに済んだ。了見との日々は記憶から消されているから、もう彼が了見を思い出す事はない。それどころかきっと彼は了見を憎むだろう。それでも彼は傷つかずに済むはずだった。
―――その結末が、今了見の前で横たわっている少年の数時間前の姿だった。あの日通話ボタンを押せなかった事を悔いるには、あまりにもすべてが遅すぎた。

次々と力尽きていく被検体達を前に、彼を『終わらせて』やる事もできた。
事実、それは彼にとって唯一の解放であったはずなのだ。死ぬまで続く地獄からの解放は、決して彼を救うものではないけれど。
だが、必死の了見の呼びかけが一度だけ、夜鷹に届いた事があった。ずっと昔の一度きり、まだ幼くて苦しむ彼らを前に涙を滲ませていた了見は、彼を終わらせる考えを到底持っていなかった時期だった。
了見は彼に「生きろ」と言ってしまった。あの状況の夜鷹にとってその投げかけが如何に残酷か。了見は今までずっと己を苛んできた。
そしてあの地獄を、夜鷹は了見の残酷な言葉一つに縋って、10年を耐え抜いた。耐え抜いてしまった。
父は、彼の掛けがえのない10年を奪ってしまった。
そして、これから了見は彼の未来を奪う事になる。

「……君を、迎えに来た」

シーツごと、力の抜けた彼の身体を抱き上げる。
きちんとした成長過程を経ていれば、きっと了見と同程度の身長になったであろう身体は予想していた以上に軽かった。最早彼には無用の長物となってしまった足も白骨のように細く、もうどれ程血の滲むようなリハビリをしようと、それが彼の身体を支える事は二度とない。
父の実験は最終段階を迎え、データを採集し切った夜鷹で実験をする必要はもう無い。真っ新な被検体を使うのだと言っていた。
しかし彼の身体には、この実験に必要だったあらゆるデータの根幹が詰められている。彼は処分される事はないが、その代わり地獄が終わるわけでもなかった。
だからこそ、彼の待遇の話の際に了見は父に彼の『管理』を申し出た。
彼がこの実験から解放されるまで、了見は待ちに待ち続けた。ゲノムに協力を申し出て、この過酷な環境で生存し続けた彼のDNAの研究の継続を目的とした被検体の管理を名目として、夜鷹を引き取るつもりだ。
そして今回の実験を最後に、いくつかの条件付きではあるが、夜鷹は了見に保護される。

「…よく頑張った。…ほんとうに、頑張ったな」

ずっと言ってやりたかった、ここから出ていけるんだ、もう帰れるんだ、という言葉は言えなくなった。そしてこれからもその言葉が投げかけられる事はない。
了見には、もう夜鷹を外の世界に逃がしてやることはできなくなった。
その命と人生と引き換えに、自分と同じ父の呪縛の下で生きて行く道に引きずり込む。
幼い頃の優しくも苦かった気持ちは、もう罪悪感とも執着ともとれぬ醜いものに変貌してしまった。
ただ彼を喜ばせる為に歌った歌を、もう一度彼に歌ってやる資格を、了見はもう持っていない。あれだけの優しい感情を二度と彼に抱くことは出来なかった。
彼に仄かな恋心を抱いていた遠い自分も、最期までそれに気づくこともなかった無垢な彼も、了見が殺した。

帰ろう、私達の家に。
10年前に数ヶ月だけ共に過ごした我が家、そして彼を縛り付ける新たな檻。
もし彼が目覚めて、その瞬間に了見の喉笛に彼が手を掛けたとしても、了見はそれを受け入れるつもりだった。



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