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幼い頃、零仔は父と二人暮らしだった。
零仔が産まれたのと同時に母は亡くなった。父親はそこからおかしくなった。
零仔に泣きながら、暴力を振るうようになった。
母が亡くなったのはお前のせいだ、と。
父は母を愛していた。その母が遺した愛娘である零仔の事も、愛していた。愛そうとしていた。
だが、それ以上に、妻が唯一無二だった。
まるで母の生き写しのような零仔に暴力を振るい続け、それが自身を追い詰め続け。
零仔の父は、自殺した。
あまりに辛い記憶に、病院で零仔は記憶を封印された。
過去自体は覚えているが、その詳細を思い出せぬようにした。彼女の心を守る為だった。
零仔も自分の記憶がいじられている事を知っている。思い出そうとするたびに記憶に靄がかってわからなくなる。
零仔を心配している祖母が轟の事を思い出させたのは、過去を少しでも乗り越えようとする零仔の支えになれるかもしれないという計らいだった。
同じく父に虐げられ続けて来た轟なら、と。
「……正直、まだ、自信はないの」
「……そうか」
「でも、前は向き続ける。貴方見てたら頑張らなきゃって気持ちになった。ありがとう」
「…出来る事があるなら、言ってくれ。力になれるかは分からねえけど」
「……ありがと」
(前を、向かなきゃ。轟君はもう進み始めてるんだから、)
夢に向かって歩き続けている。
轟だけじゃない、みんなそうだ。
(私は、)
ただ怯えから逃げ続けているだけ。
(私のせいで、もう誰かが死ぬところなんて、見たくないだけ)
だから自分の力が、誰かの命を救う事につながれば、この力の恐ろしさから逃げられる気がして。
逃げるように、ヒーローを志した。
目指している間は、恐怖を忘れられるから。
あの父の目を、忘れられるから。
結局自分がしている事は、逃げだ。
「零仔〜?お茶淹れたわよ〜」
「…!」
はっとする。
襖の向こうから祖母の声がした。
返事をすると祖母が襖を開けた。手にはお盆に乗ったお茶があった。
「お話は出来た?」
「うん。色々できた。昔のことも」
「あらそう!よかったわねえ、焦凍くんもありがとうね」
「いや…こっちこそ、…栂野のおかげで前向けたんで、礼を言わねえとって思ってた所です」
「轟君が頑張ったからでしょ」
「それでも背中押したのはお前だ」
「あらあら、やだもう〜」
軽い言い合いになっていたのを祖母が笑う。
すっかり打ち解けた様子なのにご満悦のようだ。
だがそれだけで終わる祖母ではなかった。
「二人とも、なんだか他人行儀ねえ」
「?そう?」
「そうよ〜昔は名前で呼び合ってたじゃない〜今からでも名前で呼び合ったらどうかしら?」
「は!?」
また何を言い出すんだ祖母は。
例え元幼馴染であっても、この歳で名前で呼び合うのは恥ずかしい。
爆豪と緑谷のように、ずっと一緒であったのならば別にいい。
「そういえば、そうだったな…」
「そうでしょ〜?」
「オイツッコミはいねえのかここには」
スーパーでの伏線回収をここで終了した。胃が痛い。
祖母の暴走と轟の天然に振り回されている零仔に、祖母は言う。
「せっかく小さい頃のお友達に会えたんだもの。小さい頃を知っている者同士、あの頃からやり直してみるのも良いんじゃないかしら」
「でも、10年も前よ」
「10年が何よ〜ババアから見たら全然最近よ」
「ええ…」
「それに貴方、轟君が初めてのお友達だったじゃない。それから全然お友達連れてこないし」
「う゛っ」
痛い所を突かれた。
確かにあれ以来一切友達を作らずにここまで来てしまった。
お友達を見たいとずっと言ってきた祖母の言葉をやり過ごしてきたツケがここで来ている。
轟の「そうだったのか…」という目がすごく痛い。
「安心しろ、お前だけじゃない。俺も友達いなかった」
「あらあら、じゃあここで戻っときなさい!」
「急に活き活きしよって……」
収拾がつかねえ。どうすればいいんだ。
はーーーーーーーーと頭を抱えて項垂れる零仔を見て、轟は。
「……零仔」
「…っっっっ」
だ、だめだ。いけない。
意識してそれどころじゃない。
喋らなくなった零仔を怪訝に思った轟は、何を勘違いしたのか。
「いや、チビの頃は呼び捨てじゃなかったから緑谷みてえに零仔ちゃんの方がいいか?」
「お願い止めて、それされるなら呼び捨てでいい」
轟がちゃん付けして人を呼ぶのは凄まじい違和感がある。無論悪い意味でだ。
それをされるなら呼び捨ての方が遥かにいい。慣れればいい話だ。
「…じゃあ、零仔か」
「…もう、それでいいわ………」
「わかった。…ああ、なんかやっぱ俺達昔馴染みだったんだなって思う」
「?」
「お前の名前呼んでて、違和感ねえんだ。…ずっと昔からそんな風に呼んでた気すらする」
そういう轟の表情があまりに穏やかなものだから、もういいか、と思ってしまう。
それに、そう呼ばれると何だか懐かしいのだ。
あの頃だって友達は轟しかいなくて、彼以外に名前を呼ぶ他人なんていなかった。
だから、あの頃の彼に呼ばれていたそれを、今こうしてまた呼ばれるのは、酷く耳に馴染むのだ。
「零仔も呼んであげなさい。折角呼んでくれたんだから」
「うぅう……」
だがそれはそれとして置いといても恥ずかしい。
誰かの名前なんて苗字で以外呼ばない。
それこそ昔の轟以外、誰にもだ。
だがこのままこの空間が続くのも痛い。観念した。
「……………焦凍くん」
慣れないはずのそれは、不思議と馴染んだ。
小さい頃、何度も呼んだ名前だったからか。驚く程にぴたりとはまった気がした。
「…何か、呼び方が昔と同じだから、ガキ扱いされてるみてえ」
「感想がそれかい。緊張して損したわ」
「緊張してたのか?」
「うるせえ」
「ふふ、流石にやり取りは昔と違うけど、仲の良さは変わらないわねえ」
恨むぞ…という零仔の視線を意にも介さない祖母の強さである。
恐ろしいマイペースさである。
その後も散々マイペースな祖母と天然な轟に振り回され、いつの間にか空が赤く染まりつつある時間になった。
祖母は轟に夕食も進めたが、流石に轟家で夕飯の準備がされているだろうという事で『今回は』遠慮された。
轟の手は祖母から渡された色んなお菓子の入った袋で塞がっていて、また昔に戻った気分になる。
「今日はありがとね」
「いや、俺もいろいろ話せてスッキリした。ありがとな、零仔」
「……うん」
この時間内にすっかり慣れてしまったこの呼び方が恐ろしい。
だがそれは、あちらも同じようで。
「じゃあ、また学校で。ばいばい焦凍くん」
「おう」
(小さい頃は、バイバイが嫌で泣いてたっけ)
わんわん泣いていたあの男の子にクスリと笑う。
彼と穏やかに話せるような時が来るなんて思ってもみなかった。
雄英に入れて、それが一番良かったかもしれない。彼を見送りながら、ふとそんなことを想った。
***
(小せえ頃は、こうして帰る時間が嫌で泣いてたな)
幼い頃の今より未熟だった自分を思い出す。
こうして昔を思い出し懐かしむことも新鮮だった。
それも緑谷と彼女のおかげだと思うと、猶更感謝しなくてはならない。
(…『零仔』、か)
やっぱり、懐かしい響きだった。
小さい頃は何度も呼んだ。
親しい友人もいなくて、兄達とも遊ばせてもらえなかった轟にとって、初めて呼んだ家族以外の誰かの名前。
だから猶更、大事なものだった。
『僕、お母さんもれいこちゃんも、守れるくらいつよくなるんだ』
『でも、しょうとくん私より泣き虫なのにだいじょうぶなの?』
『泣かないようにする!泣いてるうちはつよくなれない、から』
『オールマイトはいつもえがお、だもんね』
『うん!』
父の前で話せなかったことが彼女には話せた。
ヒーローを知らなかった彼女にオールマイトの事を教えて、それがどんなにすごい人かを話すのが楽しかった。
そんな時間が楽しくて、大事で、だからこそ終わってしまうのが辛かった。
『僕、ばいばいやだ…』
『私だって、しょうとくんとお喋りできないのやだ…』
そう言って泣いていた気がする。
やっぱり記憶の中の彼女は泣いてなくて、でも自分だけ泣き虫だったのをいじられるのは不公平だと思った。
『…私、ずっとしょうとくんと一緒にいたい』
『……そうだ、ねえ、れいこちゃん』
『なあに?』
『『けっこん』したらね、ずっといっしょだって、お母さんが言ってたんだ』
『…それって、私はしょうとくんのおよめさん?になるの?』
『そうなの、かなあ。絵本にもかいてあったから、きっとそうなんだとおもう。でも、大人にならないとできないって』
『じゃあ私、おっきくなったらしょうとくんのおよめさんになる!そしたら、ずっと一緒だもんね!』
『う、ん!でも、…お父さんが、お母さんみたいにれいこちゃんをいじめるかもしれない…そんなの、やだ。だから、おとなになって、れいこちゃんを守れるくらい僕がつよくなったら、』
『うん』
『僕、れいこちゃんをおよめさんにする。ずっと守る』
『ふふ、やくそくね!』
『うん、やくそく!』
―――――
「……なんで、こんな事今思い出すんだよ………」
小さい頃の、拙い口約束。
彼女は覚えていないだろう。
「ああ、くそ」
個性も使っていないのに、顔が熱かった。
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