Heart Beat

 しんしんと雪の降り続けるある夜。孫尚香専属の兵士であるなまえは眠たい目をこすり、夜の見張りに立っていた。真冬は陽が出ていたって寒いとうのに、深夜に訪れる激しい寒さは、耐え難い。そんな環境で今日から一週間は夜の見張りを行わなければならない。

「うー…寒い…ついてないなぁ…」

「ホント」

 呟けば、なまえの反対側の門の端に居る同僚が答えた。孫尚香の兵士は女性ばかりで、数も他の将軍傘下の兵より少ない。その為夜の見回りも見張りも、どう足掻いても下っ端の者は皆逃げられはしないのだ。しかし、これなら見回りの方が、動いている分まだ救いようがある。そんな話を同僚としながら、両手を擦り合わせ息を吹き掛ける。だが、繰り返しても、繰り返しても、一向に熱の戻る気配はない。

「駄目だ!寒い!」

 そう言ってなまえはその場で走るように足踏みをした。少しでも動いていなければ凍えてしまいそうだ。そんななまえを見て同僚がくすくす笑う。

「やりたくなるのはわかるけど、見つかったら怒られるわよ」

「だって、寒いものは寒いよ!凍えちゃう!」

 さらになまえは堪えきれずに槍を抱えてぴょんぴょんと跳ねた。その時。

「真面目にやらんか!」

 怒声が飛んできた。夜であることを考慮してからか、そんなに大きな声ではない。それでも迫力満点のその声に、なまえは思わず固まった。振り向けばなまえ達よりも階級が上の兵士が、大股でずんずん近づいてくる。

「私も見えていなかったか?それでは見張りの意味がないだろう」

「申し訳ありません!」

 その声になまえは背筋をピンと伸ばした。真っ直ぐ前を見据えて立ったものの、恐怖でも何でもなく、寒さの所為でガタガタと身体が震えてしまい、完全に静止は出来なかった。

「反省して、真面目に取り組みなさい」

「はい!!」

 外気に晒されている耳や鼻を真っ赤にさせて寒さに身を震わせているなまえの姿を見て、流石に気の毒になったのだろう。注意をしてきた兵士もそれ以上は何も言わずに、見回りへと戻っていった。
 説教を覚悟していたなまえだったが、遠ざかる後ろ姿を見てため息と同時に伸ばしていた背を丸めた。なまえは息の白さをぼんやり見つめながら、感覚の無くなりかけている手で槍を握り直した。

 そして数刻の後、夜の見張りがやっと終わった。朝日が昇る頃にはなまえの手足は冷えを通り越して痛んで、唇も紫に変色していた。

「なまえごめん!耐えきれない!先に帰るわ!!」

 交代に槍を預けてその場を離れると、これまで一緒にいた同僚が一目散に兵舎への道を駆けて行く。そんな彼女の顔色もまた、良くなかった。それに気づいていたなまえはその背を見送って、静かな朝の回廊を一人で歩く。思うように動かない脚のせいで操り人形のような歩き方になるうえ、踏み出す度に膝がギシギシ軋む音が耳に届く。思わずなまえは骨まで冷えてしまったのかだろうか、と一人苦笑した。

 しばらく歩けば、多少は体が温まってきたらしく、鈍くなっていた関節の動きが良くなってきた。寒さから開放された、と安心したのも束の間。今度は手足の痒みに襲われた。外気に晒された手を見ると、肌は赤くなっていて、腫れたような違和感がある。毎年のように襲われるのに忘れていた霜焼け。今回のは以前にもまして症状が酷くなりそうでなまえはがっくり項垂れた。

「お前…」

「はああああああい!!!」

 唐突に、それも背後から話しかけられ、思い切り変な返事をしてしまった。今まで人の気配を感じなかったのだから当たり前だ。夜明けから出歩く者なんてどんな物好きだ。と、なまえが後ろを振り返る。そこには、意外な人物が立っていた。常人よりも跳びぬけて大きな背丈。体や顔に走る無数の傷痕。特徴を耳にしていたなまえは、その人物を認識すると数歩後退る。そして、驚きに手の組み方を二、三度間違えたが、なんとか拱手をとった。

「しゅ、周将軍!?いいいい、如何いたしましたか!?」

「……………来い」

 周泰がなまえを頭の天辺から足先までじろじろ見た後、たっぷり間を開けて一言そう言うと、なまえの手首を掴んで歩き出した。将軍の命に背くことなどできる筈もなく、なまえはそのまま引き摺られるように後を追った。歩幅の違いすぎる周泰を小走りになりながら追うと、大きな門をひとつ、またひとつと潜った。その度に豪華になっていく扉や柱。ため息が漏れるほど綺麗な内装は、なまえでもわかるほどに兵舎の物とはまるで造りが違う。明らかに一兵卒などが気軽に来る場所ではない。
 なまえが一人で冷汗をかいていると、周泰の足が扉の前で止まった。急に立ち止まる周泰に、なまえは危うく体当たりをする所を寸でのところで踏みとどまった。

「入れ…」

 部屋に押し込まれてやっと手が自由になった。しかし、なまえの頭は状況を飲み込めずに部屋の入り口で立ち尽くした。必要最低限の物しか置いていないであろう部屋は殺風景で、外の豪華さとはちぐはぐだ。一体ここは何処だろうか、と部屋をぐるりと見回していると目の前に壁が出現した。驚きに、なまえは目の前の壁、もとい周泰を見上げる。

「…座れ」

 顔を見ようとすれば殆ど上を向かないといけないなまえに、周泰の表情は分らなかった。ただただ、良からぬ空気を感じて声も出せないままなまえは首を縦に振りまくる。周泰はそんななまえの肩を掴んで強引に椅子に座らさせた。

「…具足を脱げ」

 きょとんと周泰を見上げるなまえ。混乱状態のなまえの脳みそが新たな情報を理解するにはかなりの時間がかかる。瞬きを繰りかえすばかりのなまえに痺れを切らした周泰は、自らなまえの具足に手をかけた。

「へっ?!あ!ああ!!ぬ、脱ぎます!!自分で!!」

 なまえがやっと何を言われたのかを理解して、周泰の手を全力で遮った。周泰はなまえの返事に納得したのか、立ち上がって棚を探り始めた。
 そんな周泰の様子に気付かず、なまえは再び「なぜ?どうして?」という疑問ばかりを頭に浮かべていた。
 いつ?夜更けに。
 誰と?周将軍と。
 何処?何処かの部屋…。
 なまえの脳内で繰り広げられる自問自答。そして浮かんだ最後の質問「何する?」。その答えを導き出してなまえははっとした。

「まさか、一応女だけど…」

 なまえは焦った。平凡な家に生まれ、ちょっと腕が立つからと稼ぎに出た。姫様の兵士として、仕えるお方を豆粒くらいの大きさで目にして、言葉を交わすこともなく、これまでも、これからも平々凡々な人生を送るのだと思っていた。そんななまえの、予想をはるかに超えた展開である。
 そんななまえは自分がどうしたいのか分からなかった。相手は国の長直属の護衛という雲の上の人間。拒否などすれば殺されるかもしれない。
 しかしなまえは図太いもので、それと同時になまえは好機だとも考えた。平々凡々な家に産まれた女が、良い暮らしができる唯一の方法は、権力のある男の妾になることくらいだ。周泰は護衛であることに加えて孫権のお気に入りでもある。申し分なさすぎる。勿体無いくらいだ。
 なまえはこれまで恋い慕う相手などいた試しもなく、縁談もない。そのため、周泰から縁談を持ちかけられても断る理由など微塵もなかった。それだけに、なまえは、ここで腹を括らねば後悔するんじゃないか?とまで考えていた。どうしたいかは分からずとも、どうするべきかは分かる。なまえは覚悟を決めろ、と自分に言い聞かせて、訓練の時よりも早く、具足を脱いだ。

「…脱いだか」

 頭上から降る周泰の声。なまえの緊張は極限まで高まっていた。床の話は女兵士間の会話でよく耳にしていたが、実際どう行動すべきかは会話の中の知識から引き出せるものはなかった。なまえはガチガチになっていた。

「は、はは、はい」

 どもりまくるなまえに不思議そうに見て、周泰は手にしているモノをなまえに差し出した。なまえは何も考えずに差し出されたモノを反射的に受け取った。
 受け取ったのは拳ほどの大きさの壺。これが何を示すのか分らないが、なまえは何だろう、と壺の蓋を空けて中を見た。開けた瞬間、なまえはつんとした刺激臭に襲われた。目をシパシパ瞬かせ、壺と周泰を交互に見た。

「…塗り薬だ…霜焼けにも効く…」

「へ?」

 「薬」。その言葉を聞いたなまえは素っ頓狂な声が出た。そして「薬」という言葉を理解すると、あっという間に顔が真っ赤になった。とてつもなく間抜けで思い上がった勘違いだと知って、叶うことならこの場から逃げ出したかった。

「あ、あの、その、このような高価なお薬は受け取れません!」

「何故だ」

「わたしに薬を買うお金はございませんので」

「…金などとらん」

「そ、それにただの霜焼けです!放っておけばそのうち…」

「…甘く見るな…処置をしなければ…酷くなる」

 早くこの場を去りたい一心で、ほおずきの実のように顔を朱く染めたまま、なまえは必死になった。しかし、なまえよりも周泰の方が一枚も二枚も上手だ。それでも、何が何でも早く帰りたいなまえは、裸足のまま立ち上がり、周泰に壺を押し付けて食らいつく。

「しかし、この薬、高価なのでは?ただの兵士に使うにはもったいないです」

「…俺がいいと言っている」

 周泰は壺を返そうと出されたなまえの腕を掴まえて、なまえを椅子へ連れ戻す。なまえと視線を合わせるように、周泰が椅子の前に跪く。遠かった周泰の顔が目の前に来て、なまえはその眼光の鋭さに赤かった顔を青くさせて身を固くした。逆らえばまずいことになる、というこの予想だけは正しそうだ。

「ぬ、ります。ありがたく、使わせていただきます」

 これ以上逆らわないほうがいい、と本能でそう感じたなまえはこくこくと、小刻みに頷いた。こうなったらもう、早く塗って解放されよう。

 覚悟を決めたなまえが壺に指を入れ、掬った薬を手に刷り込んでいく。素直に塗り始めたなまえに気を良くしたのか、周泰の視線から剣呑さは失せていた。周泰の様子になまえは安心したが、手に意識が移ると忘れていた霜焼け独特の痛さと痒さがぶり返した。触れた所から、痛みと痒みがどくどくと脈打つように広がる。なまえの早く塗り終えてしまいたい気持ちとは裏腹に、緩慢になる手つきに苛立った。
 すると、何を思ったのか、周泰が壺に指を突っ込み、薬のついた手を一直線になまえの足に向かわせた。それにはなまえも驚きに目を剥いて、声を上げた。

「しゅ、周泰様、そのようなことは!」

「…褒美だ」

「一体何の褒美と」

「…昨夜、見張りをしていたな」

「それは…そうですが、褒美を頂くようなことでは」

 なまえはぎくりとした。昨日の失態を見られしまったのだろうか?そう思うとじわりと汗が噴き出してきた。そわそわとさらに落ち着きのなくなったなまえのその様子に、周泰は思わずクスリと笑みがこぼれた。

「…寒さに跳ねていたな」

「あの、あのあの、それは」

 やはり!なまえはまた、恥ずかしさに顔を紅くさせた。必死に何かを言おうとするが、もはや機能していない思考回路は、同じ言葉を口から繰り返させるだけだった。
 周泰は一瞬手を止めたものの、また動き出した。薬塗れの腕で止めるわけにはいかないが、周泰に塗ってもらうわけにはいかない、となまえは足を引っ込めた。

「周泰さっ、ひゃあ!」

 足を勢いよく引っ込めすぎたなまえは、椅子もろとも後ろに倒れ、言いかけた言葉を悲鳴に変えた。なまえは受け身をとることもままならず、反射的に目を瞑った。頭を打つ、と思ったが、がくんと引っ張られる衝撃を感じた。後ろにひっくり返ってはいない。何かに背中を支えられて、身体は中途半端に傾いたまま止まっている。なまえは目の前に感じる人の気配に、嫌な確信を得た。
 目の前の状況を確認したくないなまえは、じっと目を瞑っていたが、一向に目の前の気配が動く様子はない。いつまでも目を瞑っていても、相手が状況を変えるつもりはないらしい。

「……何か違うことでも……期待したか……」

「おおお、おじゃ、おじゃまいたしましたーーーー!!」

 笑いを含んで囁かれたその一言に、なまえは椅子から転げ落ちて、裸足であることも忘れて部屋を飛び出した。
 来た道を全速力で駆け抜ける。寒かった筈の冷たい風が、今は有難い。兵舎に着いてもなお、心臓が強く脈打つ理由を考えて、なまえは胸を抑えた。

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