「えっと、あの……」
いつものようにタコ壺にこもって勉強をしていたら、珍しく、小さな、消え入るような声で話しかけられた。不本意ながら、ちらりと顔を上げると、フチに隠れるようにして、おそるおそるこちらを覗く宝石のような目が2つ。そのまわりを揺蕩う、きれいな髪。あぁ、どうしてよりによって…。思わず顔をゆがめてしまう。
「なんの用」
彼女も、ぼくと同じ。ほかの人魚たちからいじめられている。でも、いじめられてる原因はまったく違っていて、グズでノロマで、みにくい姿をバカにされてる僕とは違う。彼女がいじめられているのは、きれいな姿に対する好意の裏がえしと、嫉妬心からくるものだ。だから。僕とは、違う。
「用がないならあっち行け。じゃますんな」
何も言われたくないから、何か言われる前に言葉をつむぐ。はやくどこかに行ってしまえ。はやく、早く、早く!!
「その…、」
「なに、君も僕をバカにしにきたの?笑いにきたの?」
「ち、ちがうよ。これ……」
睨みつけながらまくしたてると、小さな声とともに、小さな手がタコ壺の中にちょこんと差し込まれた。その手にあったのは魔導書の勉強に使った貝がらで、間違いなく僕が書いたものだった。ひったくるようにして、吸盤のついた腕を動かして、乱暴に貝がらを取り戻す。
「勝手にさわるな、取るなよ!」
「ご、めん…近くに落ちてたから、あなたのかと、思って……」
空っぽになった手は、そうっと外へ出ていった。
うつむいた彼女の表情は見えない。代わりに見えるのは、クラゲなんかよりもずっとずっとキレイに揺れる髪と、その先に見える明るい色のキレイな尾ひれ。
鮮やかで綺麗なそれらをじっと見ていると、なぜだか自分でもよくわからない、疑問と怒りがこみ上げてくる。
なんで。
どうして。
そんなにキレイなものを持っているのに。
なんで
「なんでそんなにキレイなのに、いいようにいじめられてるんだよ!僕なんかとは違うだろ!」
自分でも何を言ってるのか分からなかったけど、感情に流されるままに言葉を吐き出した。いろいろなものが海流のように押し寄せてきて、頭の中は真っ白だった。
急に話が変わったことに驚いたのか、大きな声に驚いたのかは分からないけど、いつのまにか彼女は顔を上げていて、宝石色の目で僕を見つめながら、大きくまばたきをしていた。
「ぇ、きれい?わたしが?」
「そうだよ!」
勢いにまかせてそこまで言って、ようやく自分が何を口走ったのか理解した。顔がさっきまでとは違う熱の持ち方をする。大丈夫、この中は暗いから、外からは見えないはず。何が大丈夫なのかは自分でもよく分かっていない。
「でも、そんなの、ほとんど言われたことないよ。知ってると思うけど、みんな私のこと、チビとかブスとか、下品とか、そういうふうに言うから……」
「みんな君に嫉妬してるだけだ。それに、キレイって言われることだってあるんだろ?」
話すにつれて沈んでいた目線が、僕の言葉で少しだけ浮き上がってくる。でもそれもつかの間のことで、彼の女が口を開くと、またすぐに沈みはじめる。
「1回?…2回?だけ、なら」
「うそつけ。もっとあるだろ」
「ううん、それだけ」
「……」
あぁ、また。僕の場所からだと、彼女の2つの宝石は隠されて見えなくなってしまった。なぜだかもう一度見たくなって、頭で考える前に口が勝手に言葉を続ける。
「君がうらやましい」
「え?」
不思議そうに丸められた美しい目が再び僕の姿をとらえる。
「だって、いじめられてるけどそんなにキレイで、友達だっていて、僕とは大違いじゃないか」
「ともだち……?私、ともだちいないよ」
「は?」
きょとんとした様子の彼女の顔には、悲しい、という感情は浮かんでいなくて、ただただ純粋に、不思議そうな顔をしていた。
「あのウツボの兄弟と仲いいんじゃないの」
自分の目で見たわけではないけど、外から情報は入ってくる。それで、前に僕のところにも来た彼らが、彼女を構っているらしいことを知っていた。
“あのチビ、またフロイドたちに絡まれてる”
“俺たちのことは無視するくせに。なんでジェイドたちとは喋ってんの”
そして、彼女がいじめられても泣いたりしない、何も言わないらしいということも、聞いて知ってはいたから。そんな彼女が彼らと「喋っている」というのは、つまりは仲が良い、ということだと思っていた。
「べつに、仲良くはない、とおもう。みんなみたいにいじめたりしないけど……いじめられてても、別に助けてくれるわけじゃないし」
「……」
「鬼ごっこしてるわけじゃないのに、急に尾ひれで巻きつかれて、びっくりさせられたり……そんなんだよ?」
思ってもみなかった言葉に、しばし無言で彼女を見つめ返す。心底嫌そうでもなかったけど、楽しそうでもなかった不思議な声色。君はいったい何なんだろう。今更だけど、どうして僕なんかと喋ってくれているんだろう。
「そういえば、」
だんだんと、よくわからなくなってきた僕をよそに、彼女は会話を続けていく。
「勉強、得意なの?」
「な、なんで?」
「だって、さっきの貝に書かれていたこと、難しくて私にはわからなかったから……」
嫌味なんて欠片もないような、まっすぐな目でそう言われて、なんて返したらいいのか分からなかった。
そして、僕の返事を待たずに彼女は続ける。
「すごいね」
ほんの少しだけ、やわらかく弓なりになった目から覗く宝石の色が、なんだかあたたかく思えて。何故だか苦しくなって、泣きそうになったのをどうにか堪える。
「私なんか、今日の授業だって、全然わかんなかったのに」
「……そうなの?」
「うん。勉強道具かくされちゃってたから、いつも以上に分かんなかった」
なんと答えたらいいのか分からなくて、誤魔化すように彼女の長く揺れる髪を目で追った。あぁ、今の僕は、分からないことだらけだ。
「あの…、邪魔しちゃってごめん……」
僕が何も言わないから、怒ってると思ったのだろうか。嫌っていると思ったのだろうか。それとも……最初から僕のことなんて嫌いだからだろうか。
最後にとても嫌なことまで想像をしてしまったけれど、それを打ち消すように、引き止める。
「教えてあげようか?」
勢いに任せて言ったあと、すぐに後悔した。断られたらどうしよう。墨吐き野郎となんか一緒に勉強したくないって言われたら?そんなの自分でできるからいらないって言われたら…?
僕のところから去ろうとしていた彼女が、こちらを振り返る。宝石のような輝く瞳は、やっぱり僕を馬鹿にしてなんていなくて、驚いたようにゆっくり大きく見開かれていった。
「いいの?」
そうして次には、2つの宝石が隠されていく。さっきまでのように俯いているからじゃない、にっこりと、目を細めて笑ったからだ。
「ありがとう!」
それが、僕が最初に見た彼女の笑顔。
ミドルスクールに上がり、黄金の契約書での取引を始めてしばらく経った頃。フロイドが上機嫌で小脇に何かを抱えてやってきた。
「とうちゃ〜く!」
ぽいっと放り投げられたのは、誰より美しい尾ひれを持った、小柄な人魚だった。驚いたように、慌てたように、キレイな尾ひれでバランスを取る彼女は、キョロキョロと周囲を見渡した。顔周りを彩る淡い色の髪が、今は肩上までに短いのが、なんだか惜しい。
「えっ、なに?」
「ほらほらななし〜、なんかお願いごとねぇのぉ?」
「お願いごと?」
にんまり笑ったフロイドから、少し驚いた顔のジェイドを見て、僕を見て2度まばたきをして、それからまたフロイドへと、順番に視線を走らせた彼女は、困ったように眉をひそめて口を開いた。
「でも私、あげれるもの何もないよ……?」
思いもよらない言葉に、思わず目を見開く。どういうことだ、彼女も知っているのか?
「フロイド」
「なんも言ってないよ。ただ連れてきただけだし」
同じように目を丸くしたジェイドに名前を呼ばれたフロイドは、いささか不服そうに訴えた。そうして僕たちの視線は揃って彼女に向く。
「えっ、なに?アズールがいたから、そういうことかと思ったんだけど……」
「そういうこと、とは?」
先程の表情とは一転、うっすらと楽しげな笑みを浮かべたジェイドは、僕をちらりと横目で見やってから彼女に尋ねた。
「ほら、なんていうか…あの、交換現象?みたいなやつ……?」
「……えぇ、まぁ。言いたいことはわかりますけど。フフッ」
「もうちょっと他に言い方あんでしょ!あははァ」
「……、わかってるなら笑わないでよ……」
拗ねたように、ふいっと視線を逸らす彼女は、その表情とは裏腹に、どこか少しだけ楽しそうに見えた。
「それで?どうしてアズールがいると、その“交換現象”が出てくるんです?」
笑い転げた余韻を引きずりながら、ジェイドは再び彼女に尋ねる。彼女はきゅっと彼を睨みつけてから表情を和らげて、宝石の目で僕を見て、さも当然、と言わんばかりにまっすぐ告げた。
「だって、そんな難しいこと、アズールしかできないでしょ?」
「、何を根拠に?」
以前、目の前の双子たちと交わしたやり取りをちらりと思い出す。今は、信じられない気持ちが半分、期待と恐怖が4分の1ずつ。
「私には、どれくらい難しいかもわかんなかったけど……授業ではまだ習わないような難しいこと、いつも勉強してたから」
次に、喜びと信じられない気持ちが4分の1ずつ、そして恐怖が半分。自分でも不思議だった。もっと喜びが勝るんじゃないかと思っていた。
「取引のこと、貴女はどう思ってるんですか」
「どうって、すごいと思うよ」
違う。僕が聞きたいのはそういうことじゃない。契約の代償のことだ。正当な取引なのだからやましい事はない。ないはずなのに、もしも、彼女に否定されたらどうしよう。何故か今この時だけは、それが恐ろしいと思った。そんなこと思う必要はないはずなのに。
「……何かと引き換えに、願いを叶えているのだとしても?」
「うん。べつに相手もそれでいいって思ってるんだったら、良いんじゃない?声でも尾ひれでも、なんでも」
僕の胸中など微塵も知らない彼女は、なんてこと無いように、さらりと肯定する。
「それに、とにかく、そんなすごい魔法が使えるなんて、すごいと思う!!」
幼くなった語彙から、彼女の興奮度合いが伝わってくる。頬をほころばせて、美しい瞳を少しだけ隠して彼女は笑う。光によって、みせ方を変える彼女の尾ひれは、いつもの淡いサンゴ色ではなく、今は柔らかな紫色をして、ゆらゆらと揺れていた。
(お代取らないとしたらさぁ、何かお願いごとあんの〜?あ!髪の毛、前の長さに戻したいとかぁ?)
(もっと地味で目立たない尾ひれになりたいとか?)
(髪は勝手に伸びるし…尾ひれも、いいや。……前にみんながきれいって言ってくれたし。……覚えてないと思うけど)
(へぇ〜)(そうですか)
(そうだなぁ。でも、ちょっとだけ、陸に行ってみたい、かも……)