――“アレ”って捕まえられんのかなぁ。
海の真ん中から顔を出してそれを眺めていた人魚は、ほんの僅かでちっぽけな、ちょっとした好奇心の赴くまま、その島に向かってみることにした。
「ねぇ」
彼にかかれば、目的地の砂浜まではあっという間の距離だ。浅瀬で人間の姿に変わり、纏わりつく波を長い足でざばざばと捌きながら、お目当ての人物に声をかける。
海の中から見つけた時とは少し離れた場所、木々の中へ足を踏み入れようとしていたその人は、まるで幽霊でも見たかのように、ひどく驚いた様子で振り返った。まん丸に見開かれた目、息を呑んだのか、僅かに開かれた口元。先ほどよりも、随分と”人間っぽい”印象を受ける、彼と同い年くらいの、どこにでもいそうな娘だった。なんとなく、期待外れな気持ちになったが、それでも少しだけ話をしてみることにする。
「なんでこんなとこにいんの?」
「……ここに住んでるから」
彼女は、自分以外の誰かが居るのが、未だに信じられないとでも言うように、目を大きく見開いたまま背の高い来訪者を見上げて。気持ち程度の警戒心を滲ませながら、ぽつりと言葉をこぼした。
砂浜に上がるまでに彼が見た限りでは、この島の周りには船着き場もなければ、ボートの類すら見当たらない、人がコミュニティを作って暮らしているようには到底思えないような場所だった。それでも、彼女はここで暮らしているという。その言葉が少し気になって、彼女の様子を軽く眺めた。
……なるほど。陸で暮らす人の服装としては、違和感がある。というよりも、見たまま率直に言えば、古びた布を纏っただけの貧相なものだ。それでも、貝の髪飾りやネックレスをしているし、やつれて不健康そうなわけでもない。どこかふんわりと朧気な雰囲気を纏っていることさえ除けば、いたって健康そうな顔つき、体つきをしているようなので、ある程度は滞りない生活をしているように見受けられた。
「いつから?」
ちっぽけな警戒を未だ解いていないのか、彼女は腹の前で腕を組み、一歩後退りをする。そして、彼を見上げたり砂浜を見たり、暫し、悩むようにしてから言葉を返した。
「……わかんない」
しかし、その煮えきらない返事を聞いたところで、彼だって何もわからない。少し、機嫌を損ねたような声色で、さらに質問を続ける。
「は?何それ。生まれたときからってこと?」
困ったように眉を下げた彼女は、組んだ腕はそのままに、纏った布地を両手で握りながら。先ほどよりも長く、ぼんやりふんわりと、記憶をたどるように時間をおいた。伏せた視線をそろそろと彷徨わせた後、どこか投げやりな声と共に、拗ねたような眼差しが戻ってくる。
「……わかんない。知らない」
一方で彼は、そういった反応は気にも留めずに、分かんないならなんだっていいやと、早くも興味をなくした。いつから住んでいるかは、もう、どうだっていい。彼女から視線を外し、気まぐれに周囲を見渡しながら、新たな問いを投げかける。
「ほかに誰かいんの?」
「父さんと母さん。……普段は海の中だけど」
それに対して、彼女は存外すんなりと返事を寄越したので、彼の注意は自然とその娘へ戻る。話の内容然りではあったが、彼女の“目”もまた興味をひいた。悲しみか、憧れか。海へと向けられているのは、なんとも言い難い感情をのせた眼差しだ。それに、人間の親が海の中、とは?
「死んだってこと?」
あんな目をさせるくらいなのだから、“会えない”存在なんだろう。でも、もし死んでいるなら、先程の回答とちぐはぐになる。それを確かめるための、単純で、純粋な疑問だった。だから、訝しむわけでもなく、変に気を使うわけでもなく、それまでと同じ調子で訊ねる。
それを耳にした彼女もまた、嫌そうな顔をするわけでもなく、淡々と。一方で、どこまで話して良いものか少し迷っているような様子も見せつつ、ちらりと彼を見やって、口を開いた。
「ちがう。人魚なの。……ほんとの親は知らない」
「人魚が親代わり? へぇー、そんなことあんだ」
人魚、という親近感の湧く言葉に、興味をひかれた彼は、想像以上の”面白そう”な状況に、そわそわ心が踊ってきた。意識せずとも、目尻は下がり、口角は上がり、頭の中で思考は巡る。
“普段は海の中”と言うからには、陸で一緒に暮らしている、という訳ではなさそうだ。恐らく、必要な時にだけ(あるいは定期的に)波打ち際でしか会えないということ。基本は
言われてみれば、彼女が身に着けている装飾品は、珊瑚の海ではよく見かけるもの。決して高価ではない、ありふれたもの。こういうものをプレゼントされるくらいには、彼女は
まぁ、そのあたりの事情がどうであれ、こんな誰もいない、何もなさそうな場所にずっといるだなんて、自分なら退屈すぎて干からびてしまいそうではあるけれど。
「ってかさぁ、一人でこんなとこ住んでてつまんなくないの?」
「それは……寂しいけど、父さんたちも会いに来てくれるし」
垂らした左腕に右手を添えながら、視線を伏せて。戸惑ったように、迷ったように、何より彼女自身に言い聞かせるような言葉だった。どうやら不満が全くないわけではないらしい。そういうことなら、この先に、まだ少しは
「じゃあさ、この島出ようって思ったことねーの?」
はっとしたように顔を上げ、息を呑んで。過去の一場面でも思い出しているのか、娘の瞳が僅かに翳りを帯びる。
「近くに人のいる島はないって言ってた。それに…」
その
「もしこの島から出られるなら、他の島に行くより、海の中に行きたい」
爽やかに吹き抜ける海風と、遮るものなく高い位置から降り注ぐ太陽。それらに似つかわしいようであり、同時に不釣り合いでもあるような。海の中に強く憧れ、焦がれ、憎しみに似たものさえ孕んだような
それを目の当たりにした彼は、海で見つけた時に抱いた印象について、そういうことか、と納得した。この
「人魚になりたいってこと?」
「人魚になれなくてもいいけど、母さんたちの暮らす、珊瑚の海に行ってみたい。まぁ、魔法でも使えない限り、無理なんだけどね」
横髪を掬って耳にかけ、どこか諦めたように言葉を続けるうちに、不思議な何かを宿していた彼女の瞳は、“普通”のものに戻っていった。しかし、それに合わせて、彼の関心までもが薄れることはない。何故なら、思った通りに、
「というか、貴方はどうやってここに…」
「それ、オレが叶えてあげよっか?」
「えっ?」
恐らくは、言葉を交わし始めた当初からの疑問を、彼女が確認するを遮って、誘うように、魅惑的な提案をしてみせる。彼にとって、魔法は身近なもの。人魚が陸で生活をするのだって、人間を海の中へ連れてゆくことだって、不可能ではないこと。
しかし、彼女にしてみれば、思いもよらない提案だったのだろう。最初にこちらを振り向いた時のように、驚きに目を丸くさせている。しかし、僅かながらに警戒心の滲んだその時とは異なり、今の
「代わりに、オレと遊ぼ。それでどう?悪くない条件だと思うけど」
「え、でも…」
戸惑っている彼女の様子など気にせず、彼はずいっと顔を覗き込みながら畳み掛ける。どちらでも良いから早く答えが聞きたかった。まぁ、どちらでも良いと言えども、彼女にとっては“美味しい”話のはずなのだから、YESが返ってくると、頭のどこかでは思っていたけれど。迷う瞳を見下ろしながら、答えを急かす。
「どうすんの? 早く決めて」
「わ、わかった」
彼の言い募る様子に、彼女は咄嗟にそう返したようだった。その答えは、“早く決めること”に対してなのか、“条件を飲むこと”に対してなのか、どちらに対してのものだったのだろう。はたして彼女自身、理解していたのだろうか。
しかし、この場において、“そんなこと”は些末なこととなりそうだ。少なくとも、にっこりと笑みを深めた彼は、こう受け取った。
「じゃ、交渉成立ってことで」
彼女の願いを叶えるのは、自分からあの二人に頼めばいい。魔法薬を作ればいいのは分かっているが、
そんなことを思いながら、左手を彼女へ伸ばすと、あっさり、捉えることができてしまった。彼の指が一周回っても、なお余りあるような細い手首だったが、それでも確かに掴めてしまった。
――なんだ、簡単に捕まえられんじゃん。
最初に抱いた興味に対して、すんなり答えが出てしまったことに気落ちこそすれど、この島で人魚に育てられた、海に焦がれる人間を、外へと連れ出したらどうなるのか、わくわくと、軽快なステップを刻むような心地で考えていた。