細井真織


 細井真織ほそいまおりが安喜なゆたと出会ったのは小学一年生で同じクラスになったときのことだ。当時の彼女は今と同様、朗らかでよく笑い、あまり怒らなかったが、今よりずっと大人しい少女だった。
 二時間目の後の少し長い休み時間、誰にも誘われずに窓から独り運動場を眺めている彼女を見つけたのが真織だった。外でみんなとドッジボールをするよりも教室で図書室で借りた本を読んだり、自由帳におえかきをするほうが好きだった真織は体育が一番できる彼女がどうしてドッジボールに誘われないのか、いつも不思議に思っていた。
「安喜さんって、なんでいっつも教室におるん? とびばこもなわとびも一番できるの安喜さんやのに」
「なんでやろ。ウチもわからへんねんけど、みんなウチのこと見えへんのやとおもう」
「それって、安喜さん、いじめられてるんとちゃう?」
 真織の質問になゆたはへら、と笑って答えたが、それっていじめなんじゃないだろうかと思って、真織は表情を曇らせた。自分のことでもないのに無性に腹が立った。
 大概、同じ幼稚園や保育園に通っていたクラスメイトが何人かいるものだが、徳島からこの兵庫県南東部に越してきた彼女にはそれがいない。一人だけ教育熱心な幼稚園に通っていた真織にもいなかったが、友だちは何人かいたし、いないもののように扱われることはなかった。しかし、真織以外のクラスメイトはみんな、なゆたを見えないもののように扱うのだ。
 ちなみになゆたのサイドエフェクトの影響で本当に見えていなかったことが判明するのは二人が高校生になってからの話である。
「で、なにさんやったっけ?」
 へら、と笑った顔のまま、なゆたが訊ねてきた。己が他人に関心を向けられない分、彼女も他人に関心を向けていなかったらしい。彼女はそのときまで真織のことを知らなかった。
「入学式の日、じこしょうかいしたやん」
「あんまきいてへんかった」
「……ウチ、細井真織っていうねん」
「ほそい……まお、ま……まりお?」
「耳おかしいんか」
 怪訝そうに首を傾げるなゆたを見て、真織はため息をつく。どうして、まおまで辿り着いておきながらそっちに着地するのだろうか。
「ほら、名札見て。『ほそいまおり』って書いてあるやろ」
「あ、ホンマ。まおりちゃんってええ名前やね。でも、マリオの方がおもろない?」
「いや、ウチはおもろないねんけど」
 本当の読み方を聞いて、うなずきながらもなゆたはにこにこしながら無神経なことを言い放つ。幼稚園の頃、男の子からマリオと呼ばれて、からかわれていたから、真織としては本当に面白くなかった。
「ウチ、じぶんの名前漢字で書けるねん。ようちえんで習ったから」
 話をそらして、自由帳を開くと削りたての鉛筆で細井真織、と自分の名前を書く。少し難しそうな漢字もサラッと書いてしまうのを見て、なゆたが両手を叩いた。伊達に教育熱心な幼稚園に行って、小学校受験の準備をしていたわけではない。結局志望校は落ちて、公立の小学校に通っているわけだが。
「ほそいさんってすごいなあ。むずかしそうやのに」
「安喜さんも習ったらすぐ書けるよ。で、安喜さんはどんな字書くん?」
「ウチ、まだ漢字とかわからへんから……。でも、おかあちゃんはこんなん書いてた」
 真織の鉛筆を借りて、なゆたは辿々しく、安喜なゆた、と書いた。ほぼ、字はつぶれているが、真織にはそれが彼女の名前だと理解した。
「安喜さんっておかあさんのこと、おかあちゃんって言うんや。なんか意外」
「えー、そう? ウチ、ずーっとおかあちゃんってよんでる」
「なんかおとなしいイメージあったから」
「ウチ、そんなおとなしいかなあ」
 なゆたが首を傾げる。自分ではそういうつもりはないらしい。そして、彼女と話している真織も今、自分の考えを改め始めていた。彼女はさして、大人しい少女ではない気がする。
「安喜さんって、とくしまから来てんな。どんなとこやった?」
「うーん、山かなあ。ようちえんからかえってきたらな、うらやまでよく走りまわったり、木のぼりしたり、夏は虫とって、秋はどんぐりひろたりしてあそんでた」
「なんか、安喜さんのイメージがくずれていくわ……」
 いつも山の中で走り回っていたなら、体育の授業でのあの運動神経も納得がいく。
「おとうちゃんがな、こっちでしごと見つけたから、おばあちゃんとおかあちゃんとおねえちゃんで引っこしてきてん。ウチ、こないだはじめておおさか行ったけど、あんないっぱい大きいビル見たんはじめて。すごいな」
 徳島にはそういうところがないのだろうか。なゆたは興奮した様子で言う。確かにこの街にもあれほどの都会はない。
「大阪は近きで一番の街やからなあ」
「きんき……?」
「日本はいくつかの地方に分かれてて、近きはその一つやねん。その中に大阪と、ウチらが住んでる兵庫があるねん。安喜さんが住んでた徳島は四国」
「ほそいさんってむずかしいこといっぱいしっててすごいな!」
 なゆたがにこにこしながら、また手を叩く。父も母も褒めてくれないせいか、褒められるとなんだか少しむず痒いのだが、彼女の言葉は不思議と心に染み入った。なんだか、不思議な子だ。
「別にまおりでええよ。なんか、言いにくいやろ」
「そんなことないけど……ま、ま、まお…ま、マリオ」
「わざとか? さっき言えてたやろ」
「ウチのこともなゆたってよんでええよ〜。マリオ」
「いや、マリオちゃうから……まあええか」
 なんだか強引に突き通された感じがしなくもないが、なゆたに呼ばれるなら嫌な呼び名でもいい気がした。実際、なゆたにマリオと呼ばれるのは嫌ではなかった。からかう意思がないからだろうか。

 その後、いつの間にかクラス中が真織のことをマリオと呼ぶようになることを彼女はまだ知らない。
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