「ねえ
退屈な国語の授業からようやく解放された教室は、授業中の静かさとは打って変わって喧騒に包まれている。私は机に頬杖を突きながら前の席の友人に話しかけた。彼女は後ろを振り返る様子もなく本を読みながら返事をする。
「朝の十一時。次はないから」
「ちゃんと覚えるよ」
彼女と話していると、とても同年代とは思えないほどの人格者であることがつくづく思い知らされる。大人というにはあまりにも世間に関心がなさすぎるし、だからといって子供というには大人すぎる彼女。口数は多い方ではないのでたまに話すくらいの仲だが、他の上辺だけ関心があると装う女子たちと絡むよりかは、言葉と態度に多少の棘があっても人に理解が深い彼女と話す方が、雲泥の差ほど楽しい。
「あんたの幼馴染、またやってるよ」
「え?」
「ほら」
彼女の指先は、見慣れた男子の取っ組み合いの光景を捉えていた。窓から見下ろせば、丁度の位置に見慣れツンツンしたた金髪ヘアと、黒のリーゼントをした人相の悪い上級生が拳を互いの体に勢いよく殴りつけていた。金髪ヘアの方は彼女の言うとおり私の幼馴染である啓介だ。本来なら学ランの前は締めないといけないのに全開だし、染髪したらいけないし、暴力だっていけない。だけど啓介を言うなら相手の上級生も当てはまる。だけど中学生とは総じてああいうもので、男子に世間の良いこと悪いことを説いてもまるで意味が無い。良く言えば哲学、悪く言えば屁理屈。そんな彼らなりの持論で言い負かされてしまうのだ。
「馬鹿馬鹿しい」
光景を見下ろしていた彼女がそう吐き捨てた。眉目が軽蔑に歪む。
「伊薺って暴力嫌いだもんね」
「力に物を言わすことなら猿でもできる。彼らには人間の品性がない。同じ種族とすら思いたくないね」
その気持ちは解る。彼らの日常は基本暴力だ。喧嘩を売られたら買い、自分も売る。相手を負かしたら自分が強いと証明され認められ崇められるため、彼らは暴力という手段を捨てようとしない。例えば煙草を吸う年齢になれば大人だとか、お酒を飲めれば大人だとか、そういうのと同じで、彼らは勝てれば自分が強いと思い込んでいる。必要じゃない暴力は私も彼女と同じように忌むべきものだと思っている。
「昔は違ったんだけどな」
「何か言った?」
「なんでもないよ」
啓介が相手を地面にひれ伏せた時、ぱちりと視線が重なった。彼が私を見て私が彼を見た時と同じくして、予鈴が鳴った。授業も終わって放課後になると、伊薺はそそくさと鞄に教科書を詰め込んで肩にかけて教室を出て行った。相変わらず単独を好む彼女は一緒に帰ろうと誘う隙も与えてくれないようだ。しょうがない。私も帰ろうと思って教室を出た。なんとなく遠回りして昇降口に行こうと思い立った私は、中庭に赴くことに決めた。昇降口に向かう生徒の波を縫うように避けながら中庭を囲む回廊にようやくのことで辿り着けた。下校時間になればここには誰も寄り付かない。だから乾いた冬空の下の中庭には、私だけが立っている。手すりに手を置いて深く呼吸してみた。冷たい空気が肺を満たしていくのが解る。鼻の奥がつんと冷たくなってもそれをやめようとは思わなかった。
「涼し〜」
寒いを涼しいと言うのは私くらいだろう。真っ青な空に青々と生い茂る庭、小さな中庭にぽつんと立つ一本の大きな木。私はこの中庭が好きで、ここに一人で居るとまるで別世界に来たかのような気持ちになる。新鮮で落ち着く場所だ。
「お前も来てたのかよ」
「啓介じゃん。久しぶり」
声掛けてきた男子は幼馴染の啓介だった。おそらくリーゼントの彼とであろう喧嘩の産物は、赤々として頬にくっきりと痕を残している。保健室に行かなかったのは先生の小言をうざいと嫌悪しているのと、単純に行くのを面倒に感じたのだろう。私が手当すると言ってもどうせ「余計なことするんじゃねえよ」とか言って手を払いそうだから、もうしない。
「涼介さんにまた怒られるよ」
「うっせ」
「明日の体育ドッジだって」
「なんで俺に言うんだよ」
「参加するなら一緒のチームに入ってよ。啓介を盾にできるから」
「堂々と言ってんじゃねえ!行くかよ!」
私だって啓介が真面目に授業を受けるとは思っていない。私の言葉なんて中学になった二年も前から届いていないんだから。寒いな。コートを置いてくるんじゃなかった、私のバカ。
「今日の夜ご飯何かな」
「俺に聞くな」
「そっちは?」
「肉じゃが」
「いいなぁ。小母さんの作る料理って美味しいから羨ましいよ。多分今日もカレーだしこっちは」
お母さんの作るカレーは決して嫌いではないが、流石にここ三日連続でカレーはきつい。今までで学校の昼食にこれほど強く感謝したことは恐らくないだろう。昼食もカレーであったなら私は間違いなくカレーを誰かにあげていた。とは言っても帰ればカレーが私を待ち構えているわけなのだが。
「カレー嫌だあ」
カレー以外がいい。私だって好物をいつまでも食べていたら飽きる。好物はたまに食べるからこそ舌に味が残って、また食べたいと思うのであって、いつも食べていたら好物はたちまちトラウマの対象へと変わってしまう。お母さんにそう力説したいところだが、我が強い母に本音をぶつけても「ワガママ言わないで給料日まで待ちなさい」と般若さながらの顔で窘められてお終いだ。だいたいあの人はいつも月初めは日持ちする加工食品で料理を済ませたがる。家計の節約と言うが給料日まで何日あると思っているのだ。家計を重視するより家族の食欲を重視してほしい。今ではお父さんまでも月初めのご飯と聞いただけで苦笑する始末。
「ならウチ来いよ」
「え?」
思ってもみなかった言葉に引っ張られるように啓介の方を見た。驚きに目を瞬かせる私と目が合うや否や彼は恥ずかしそうにそっぽを向いてしまう。頬がほんのりと赤かった。
「お前肉じゃが食いたいんだろ? 母さんいつも多く作るから余んだよ」
「私ったらいつ高橋家の残飯処理係に配属したっけ」
「ちっげえよ!」
「冗談だよ」
まさか彼から誘ってくれるなんて。高橋家でご飯を食べるなんていつ以来だろう。記憶が正しければ小学生以来だ。最近会っていない涼介さんや伯父さん伯母さんは元気にしているだろうか。なんだかこうやって話すと彼の昔ながらの性格がちらりと垣間見える。他の人達からしたら暴力沙汰の絶えない不良少年が馴染み深いかもしれないが、私からしたらこうやって家に呼んで一緒にご飯を食べたり、多少の暴言も言い合える今の彼の方が馴染み深い。こうやって二人きりで話すのは久しぶりだから少し感傷に浸ってしまったかもしれない。
「行くよ。一回家に帰って着替えてから行くね」
「おう」
「楽しみだなあ、小母さんの肉じゃが」
「そんな大したモンじゃねえよ」
「そうじゃないんだよ」
「あぁ?」
変わってない伯母さんの肉じゃがを好む啓介は変わってないんだと私に教えてくれるそれは、私にとってはとても大切なことなの。なんて、口にするわけないけどね。
