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掻っ攫っていく心音



それは突然だった。


「なあ」


「ん?」


「お前ってなんで俺に甘えて来ねぇの?」


あまりにも唐突に、そして流れるように落とされた爆弾を脳内処理するにはたっぷり一分ほどかかった。啓介がどんな顔をしていたかなんて覚えていない空白の一分間は、今まで過ごしてきたどの一分よりもあっけない一分だったと思う。


「聞いてるのか?」


こっちは啓介が落とした爆弾を理解するので手一杯というのに、顔を覗き込んでくるものだから、びっくりして思わず肩が大きく跳ねてしまった。釣られて彼も目を丸くさせる。私がこんなに驚くとは思ってもいなかったのだろう。それはこちらも同じだ。啓介がいきなりそんなことを聞いてくるなんて思っていなかった。


「どうしてそんなこと聞くの?」


「こっちが質問してんだけど」


「だ、だって、あまりにも急だし」


「聞いちゃマズいような質問だったか?」


「そうではないけど」


「なら答えろよ」


ああダメだ。これは答えないと逃がしてくれない流れだ。試しにそこはかとなく目線をずらしていけば、目を思い切り吊り上げた彼に「逃げんじゃねぇ」と凄まれてしまった。流石元ヤン。一瞬で体が凍りついてしまった。啓介は怒ったり眉を吊り上げたら確かに怖いけど、今の彼は怒っているわけでも喧嘩をするわけでもないと知っているので、さほどの恐怖心はない。なので、あの、取り敢えず睨むのはやめてくれませんか?


「ええと」


だからといって今の彼を満足させる答えを出せるかと言われれば、それは全く違う。むしろ何を求めているのか解らないしなんて答えればいいかも解らない。具体的にどう甘えてこないかと言われたら、多少なりとも改善の余地はあるだろうが、それも言ってくれないようだし。どうしようか。うんうんと唸っていると、痺れを切らしたのか彼が「この間のヤツ」と助け舟を出してくれた。


「デートに遅れて来ただろ?」


「うん。バトル中だったんでしょ? なかなかに強い人で手こずってたって言ってたね」


「何故怒らねぇんだよ」


「え。だって啓介がバトルを理由に遅れるのって今に始まったことじゃないし気にしてないよ?」


「すまん」


ほんとうにどうしたのだろう今日の彼は。珍しく彼から「時間空いてるか?」なんて聞いてくると思えば、急に一緒に居たいと言ってかれこれ一時間半ほど私の部屋でごろごろしてるし、変な物でも食べたの? なんて思ったら彼に睨まれてしまった。トレードマークのツンツン金髪ヘアをガシガシと乱雑に掻き乱すと、啓介は呟くように真剣な声で聞いてきた。


「俺が群馬を離れて他県で活躍すると言った時も、お前は何も言ってこなかった」


思い起こされる約二週間前の出来事。夜遅くに私の家を訪ねてきた彼に連れられてやってきたのは馴染み深い赤城山だった。啓介ご自慢のFDはほんとうに速くて、気付けば山頂に着いていた。夏は蝉の鳴き声でうるさかった赤城山も、冬の夜は嘘のように静かで、私と啓介以外は珍しく誰も居なかった。そこで告げられた啓介のこれからのこと。将来の夢のようなもの。語る時の彼の目は生命力そのもので、燃え盛る炎のように熱く瞬いていたことを強く覚えている。


「お前がどんなことを考えて俺の背中を押してくれたかは解っているつもりだ。でもよ、一言くれぇお前の本心が聞きたかった」


彼がなりたいものを語っている時の表情は、笑ってしまうくらい子供で、それでいて男らしい。嬉々として力強く言う彼の夢を、恋人の私が後押ししなくてどうすると言うんだろう。それとも彼は私が行かないでとでも言うと思っているのだろうか。だけど悔しいことにその気持ちが全くなかったかと聞かれれば、うんとは頷けないのが正直なところだ。ただでさえ「群馬のRedSuns 高橋啓介」なんて大きく呼称して、みんなが遠い場所へ追いやってしまったというのに、物理的な意味で彼が遠い場所へ行ってしまったら、私はもう彼の恋人で居られる自信が持てないのだ。地元で有名な走り屋であればいいと望む傍ら恋人の夢を応援したいという自分も居る。それに何より。


「恋人が夢の邪魔したらダメだと思ってる」


彼の夢を応援しないで何が恋人だ。寂しいのも車に妬いてしまうのも全ては私個人の気持ちでしかない。ぐっと我慢すればいいだけのこと。私は、自分の気持ちに素直になるほど子供ではないのだから、大丈夫だ。


「お前なぁ」


「あっ、買わないといけない物があったんだった! 買ってくるから少し出る」


居た堪れなさから部屋を飛び出ようとしたら、ぐいっと腕を引かれて床で胡座をかいていた彼の懐にすっぽりと収まるように倒れ込んでしまった。背中にごつごつとした鍛えられた啓介の膝の感覚が伝わってくるし、目の前には啓介の整った顔が大きく写されているから、心臓は動悸をこれでもかというほど速めた。熱い血が物凄い勢いで全身を駆け巡る。啓介は真っ赤になっているであろう私を鋭い双眸で見詰めていた。


「お前は俺の母親かよ」


不機嫌が明白に乗せられた声にはっと我に返る。


「お前は俺の恋人だろうが」


「だから私は」


「『本心を抑え込んで応援します』ってか? んなの求めてねぇよ。俺はお前の本心が、ワガママが聞きたい」


どくん、と心臓が大きく脈を打った。言ってもいいのだろうか。醜いどろどろとした独りよがりに過ぎない気持ちを、彼にぶつけてもほんとうにいいのだろうか。面倒なんて思わないだろうか。マイナスな考えが脳内を逡巡する。だけど私の恋人がここまで言ってくれるのだから、隠す必要がないじゃない。


「寂しいって思う」


「おう」


「聞いた時行かないでって思った。群馬で最速と呼ばれているんだし、それでいいじゃないって思った」


急に手が降ってきて、私の頭を優しく不器用に撫でた。許された気持ちのはずなのに、駄々をこねる子供のような幼稚な気持ちがあまりにも情けなく感じてきてしまい、だんだん胸が痛くなってきた。心無しか眦が冷たい。こんな顔、啓介には見られたくないのに、体は言うことを聞いてくれない。我慢しないと強く思うほど涙は溢れてきて頬を伝った。ああやだ。穴があったら入りたい。両手で顔を覆い隠す。たとえ啓介がその行為に眉を顰めていたとしても、二十過ぎた大人の泣き顔なんて恋人には見せたくないものなのだ。


「ごめん。こんな子供みたいで」


声が震えてしまった。だから口にしたくなかったんだ。啓介を困らせるって解ってたから。困らせる自分を嫌ってしまうから。たとえ啓介が許しても私は許せないの。すると私の体をぎゅうと何かが締め付けるのが解った。それは人特有の温かさと筋肉の感触があって、すぐに啓介の腕だと理解した。抱き締められている、啓介に。


「飽きられたんだと思ってた」


「えっ」


「怒らねぇし甘えねぇしなんも言ってこねぇから、もうどうでもいいのかと思ってたんだぜ?」


「飽きるなんてそんなわけっ!だって、こんな気持ち面倒でしかないだろうから言わなかっただけで」


「んなわけねぇだろ!」


私を抱き締める腕の力が増した。


「むしろ言ってくれた方がいいんだが」


「手間掛けさせちゃうけど」


「程々にな」


そう言ってはにかむ彼はとても嬉しそうだった。言うなれば幸せを噛み締めるような、そんな笑み。それを見ていかに自分のしたことがアホらしいものかと痛感した。こんなに嬉しそうに笑う彼が、私の気持ちを疎ましく思うわけないじゃない。押し止めていた気持ちが溢れそうになるが、それはこれからゆっくりと、時間をかけて消化していけばいい。そして緩やかに時間は進み出した。