桜色フォンデュ



 呼吸を止めて一秒。もう一度吸い込んで、吐き出す。さて、身なりはどうだろうか。髪を撫でつけて軽く整えてみる。生まれつきのくせっ毛は一度も自分の言うことを聞いた試しがなく、今日もモジャモジャわがまま放題だ。でも彼は「面白いなぁ」と笑ってくれるから、最近は結構気に入ってる。
 心臓の鼓動を落ち着かせてから一気に跳ねる。目的地はおれの部屋のベランダ──ではなく。その斜め上、おれの同期であり友人であり、想い人でもあるシノンの部屋だ。

 しばらくぶりに戻ってこれたからどうしても顔が見たかった。正面から尋ねるのもありだが、その場合シノンの気分次第で居留守を使われてしまう。部屋で過ごすシノンも見たかった、てのは否定しないけど。ベランダまで行けば確実にあいつは気配で感づくが、居眠りでもしていたら儲けもの。とかなんとか考えていたら。

 ……子供。一瞬隠し子や誘拐を疑ったが、シノンに限ってそれはないだろう。センゴクさんにお世話になった恩義からあいつはそういう方面にかなり気を遣う。多分、シノンと同じく戦災孤児だったところを拾われて、こうして育てられているんだろうな。後で詳しく話を聞くとしよう。

 とりあえず窓をたたいて合図する。子供は素直にこちらを向いたが家主はその気がない。こちらを見もしない。ソファにあおむけになっているため目的であった顔すら拝めない。こいつ……!


「ねぇシノン! 居るのわかってるし見えてるから! あけてよ!!」


 寒くもないくせに騒ぎ立てればシノンは起き上がってこちらに歩いてきた。うるさそうに顔をしかめている。これ見よがしに震えてみれば鼻で笑ってきた。〜っお前ほんとそういうとこ!


「玄関から来いっていつも言ってるだろ、どうした」


 焦らず慌てず、あくまで平然と。上る前にシミュレートした言い訳を口にする。


「なんかそっちの方がスリルがあるかなってさ。久しぶりにお前の反応も見たかったし、サプライズだよサプラーイズ」

「なんだ、ただの迷惑男か。じゃあな」

「ごめんごめん鍵なくしたの!! お願い入れてカーテン閉めないで!!」


 舌打ちを打たれたが気にせず中に入る。鍵をなくした、我ながらよくもまぁそんな嘘をつけるものだと笑ってしまう。本当はポケットの中にあるっていうのに。さて、と。


「ふー、お邪魔するね風呂も貸してね。んで、そこの坊やは誰?」


 思っていたより冷え切った声になってしまった。あーあ、こんな子供相手に何を警戒しているんだか。本を抱きしめながらこちらを見つめる子供、ロシナンテは固まっていて少しも動けていない。かわいい少年だろ。普通にシノンを慕っているだけ、おれと違って純粋無垢にひたむきに。センゴクさんの頼みってんならなおさらシノンはこの子を大切にするだろうし、この距離も道理だろう。しゃがみ込んで、ロシナンテに目線を合わせる。さて、挨拶だ。わかっているな、おれ。優しく柔らかく、でも不審者感を出さない声でだぞ〜。


「へぇー、シノンの"お仲間”か? こんにちは、ロシナンテくん。俺はクザン。シノンの同期で、まぁ、腐れ縁ってやつだな」


 といいつつロシナンテの反応を探る自分に気づいて呆れる。あーもう余裕なさすぎだろ。おれの言葉に少し怪訝な表情をしており、どうやらシノンの事情については詳しくないらしい。そりゃそうか、おれもこの前の酒の席でやっと聞けたくらいだし。
 シノンが戦争によって両親を亡くしたことを知ってるのは今の所おれだけのようだ。センゴクさんに面倒を見てもらったのを知っているのは数人いる。でもその経緯は、どうして入隊が遅れたのか、硝煙の匂いに未だに慣れない理由を本人から聞いた人物は他にいない。サカズキもボルサリーノも知らない。おれだけ。タイミングが良かっただけかもしれないけど、おれだけなのだ。
 正直、なんでこんなちびっ子にマウント取ってるんだろうね。本当にごめんよ。

 その後も続くいつも通りの軽口の応酬。あー、めっちゃ楽しい。好きになる前から楽しかったのに好きになってからは天にも登る心地だ。部屋の模様替えは本心では反対だけど、どうやら決定事項らしいので従っておく。長い物には巻かれろってね。要はシノンのいる部屋が居心地のいいって話だし。


「で? 心当たりはあるのか?」


 え、何が? 突如として投げられた脈絡のない発言に浮かぶクエスチョンマーク。うーん、シノンを怒らせるような心当たりは……ありすぎて逆にないけども……。


「鍵だよ。お前のことだし、どっかに置き忘れたんだろ。ロシナンテくんも連れて、散歩ついでに探そうぜ」


 ……そんなの嘘だよ、なんて。面倒くさそうに、でも心からおれを気遣ってるのがわかるシノンに言えるはずもなく。二人きりになれないのは残念だが、ありがたく散歩に行かせていただこう。