すべてはこのひに


 夕暮れが迫る江戸の町は、まるで生き物のようにざわめいていた。狭い路地を駆け抜ける行商人の声、人力車の軋む音、風に乗って漂う焼き魚の匂い、遊女たちの客引き声。
 賑やかなそれに、数多の人々が引き寄せられる。

 だが例外はどこにだっている。
 青年はひとり、その喧騒に背を向けて歩いていた。

 先日この島に上陸したばかり。またずっと船に乗っていたため街特有の空気に慣れず、ただひたすらに離れたかった。


 しばらく歩くと、祇園の音は次第に遠のき、代わりに波の音が耳に届いてきた。潮風が心地よい。こんな断崖までやってくるなんて、自分くらいなものだろう。

 そう気を抜いて青年は、自身の顔を覆っていたマスクを脱いだ。木の横まで歩き、目の前に広がる海を見渡した。夕日が水平線に沈みかけ、海は橙色の光を反射している。風は少し冷たく、青年の白い髪を優しく撫でる。
 己は海に嫌われた存在だ。それは重々承知している。だが青年にとって海の音は、けたたましい生活音やかき鳴らされる曲よりもずっと好ましいものなのだった。


「こんなところに客人たぁ、珍しいねぃ」


 不意に、頭上から声が降ってきた。

 驚いた青年が上を向けばそこには。




────美しい女が、枝にしなだれて寛いでいた


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