それは後にも先にも1度だけ
今日もまた、同じ朝が来た。潮の匂いも波の揺れもなければ、カモメの鳴き声やクルーの声もない。枕元で鳴る目覚ましアプリの音に苛立ちつつ止めて、のそりと身を起こす。昨夜も遅くまで起きていたせいで頭は痛むし瞼は重い。階段を下りていると、大きなあくびによって涙がにじむ。洗面台へ向かっていると妹とすれ違った。夢にまで見た、制服姿で。
「あ、おはよー兄さん! じゃ、行ってきまーす!」
「ああ、今日は朝練か。気を付けてな」
なんでも定期演奏会が近いようで忙しいらしい。手を振り返しつつ、またチケットの催促をあいつらから受けるんだろうなと少々面倒くさくなった。ラミの通う女学校にはファンが多く、その花形ともなる吹奏楽部の定演のチケットの競争率はえげつない。自力では得られないそれを、団員の身内であるおれにせがむのだ。さて今回は何を条件に出してやろうか……鏡には隈が色濃く、人相の悪い己の顔が映っていた。
・・・・・
朝の支度を終えて外へ出れば、灰色の雲が空を覆い、学校へ向かう道もどこか重苦しい。ローは無意識にため息をつきながら、通学路を歩き続けた。
教室に入り、1番後ろの己の席にドカリと座る。ああ、来て早々だが帰りたい。授業は退屈だし、チラチラとこちらを見るクラスメイトの視線は鬱陶しい。ヘッドフォンで遮断する。以前はなかったこれは使ってみると非常に便利で、誰も話しかけてこないことから愛用している。入学したばかりの頃は何度か勉強を教えていたが、下心に気づいてからは嫌気がさしてやめた。必要な時は意識すれば視線や声色で分かるからいいが、それでも面倒くさい。表面的な会話に交流。どうせ大学は余裕で受かるから自由登校にさせて欲しい。
今さら授業を真面目に受ける気にはなれず、カバンの中の父の医学書を取り出しているとポケットから振動。ああ、やっぱりな。画面を確認すると、
『神様仏様おにーさまぁ。何卒、何卒今回も例のあれをお願いしたく...……』
思わずククッと笑みがこぼれた。早すぎるだろ。続いて今日の集合場所と時間が送られてくる。単調な日々に変わりはないが、少なくともこの後の楽しみはできた。
・・・・・
簡単なことをさも難しそうに語られること数時間。指定されたファミレスに入るとそいつらはもう到着していた。
「ロー! こっちこっち!」
「バカシャチっ大声出すなって。よ、遅かったな。ほらメニュー表」
シャチが騒ぎペンギンが止める。こいつらも相変わらずだな。片手をあげて応えるローの口角は自然と上がっていた。二人の向かいに座り渡されたメニュー表を眺める。おにぎりはさすがになかった。店員を呼び止め、適当に注文を済ませて向き直る。するといつの間にか二人は真剣な顔でゲンドウポーズ。
「それでお兄様。今回我々は何をすれば……」
「バラティエ奢り。あとカモメ堂のおにぎりな。梅干し以外で」
「ヴッバラティエか...……足りっかな」
「って待て、カモメ堂って二時間待ちするところじゃねーか!」
「嫌なら諦めろ」
すると「「喜んでっっっ!!」」とくるりと手のひらを返すシャチとペンギン。うるさい、どうせ応じるんだからうだうだ言うな。
「というかそんなに行きたいか? 女子高なんて面倒なだけだろ」
口を滑らせたことに気付くころにはもう遅い。シャチとペンギンはテーブルに手をついて身を乗り出してきた。行儀が悪いな。
「そりゃ行きたいに決まってんでしょーが!! 女子の聖地! われらの楽園! こういうイベントでしか入れない
「とりわけあそこは清楚系女子の宝庫...……お近づきになりたい、あわよくばお付き合いしたい!!」
「黙ってても群がってくるだろあいつらは...……」
「「顔面偏差値の格差!!!!!」」
あそこへは何度か行ったがどれもいい思い出ではない。今回もラミが一年生ながらメンバー入りしていなければ決して行かないだろう。中等部から続けているとはいえ、一年生は一人だけらしく誇らしい。が、歩く余裕もないほど詰め寄ってきて服を引っ張り手を引っ張り、やれお名前はやれ連絡先は……ピーチクパーチクと鬱陶しい。まあ、鬱陶しさで言えば目の前のこいつらも変わらないだろう。嘆いているこいつらを放置し……ふと、隣を見やった。そこには当然だが何もない。何もないのだが……何かが欠けている。その感覚だけが強く残っていた。
幼い時もどうして周りはこんなに静かなのだと違和感を覚えていた。その正体は旅行先で出会ったこの二人。思えば、いわゆる前世となる大航海時代について思い出したのもこいつらと再会したからだ。住所はそこそこ離れていたが、今はこうして定期的に会うことができる。まだ記憶は曖昧な部分が多いがそれでも覚えている箇所は鮮やかに蘇る。ポーラータンク号の船上でシャチとペンギンは釣りをして、おれはベポを枕に一眠りして、そして目を覚ましたらいつも
「ー! ……ろー……キャプテン!!」
ペンギンの声にハッとする。「ベポの枕もないのにまーた居眠りか〜」と茶化しつつも、シャチも安堵した様子だ。かなり呆けていたようだ。
「また、”前”のこと考えていたのか?」
無言は肯定として受け取られる。気まずくなり目をそらす。今は違うとはいえ、ペンギンたちとは幼少期から旗揚げ後もずっと一緒だった。船長とはいえ当然強く出れないときもあった。こちらに完全に非があるならなおさらだ。
おれが抱えるこの喪失感については既に二人には伝えている。だからこそ、誰よりも心配をかけている。
「ン〜、欠けてるったってそもそも記憶が途切れ途切れだしなぁ。クルーも全員思い出せてるか怪しいけど、ほら、うちドライじゃん? そんな気にするかね〜?」
「今の生活は毎日同じことの繰り返しだ。あの頃と違って命の駆け引きもない、平穏そのもの。”物足りなさ"ってそこからくるんじゃないか?」
「かもな……」と曖昧に返事をしたが、納得はしていない。
目をつむれば蘇りそうなソレ。でもそれが何なのか自分でも分からない。ただ絶対に忘れてはならないはずなのに。
・・・・・
次の日も、またその次も。代り映えのない日々が続く。同じように始まって、終わる。学校の授業は退屈で、うざい視線を躱し、時折あいつらと連絡を取り、そしてぽっかり空いた空白を抱えている。季節が巡り、おれたちは大学生になった。
そしてようやく、その空白の正体は判明する。大学からの帰り道。ふいにいつもと違う道を通り始めた。花曇りの空の下、ヘッドフォンをしながら歩いていれば強風が吹いて桜の花が嵐のように襲い掛かった。たまらず立ち止まりヘッドフォンも外して顔をぬぐった。砂埃も払い落とし目の前を見ればそこには
「……
そいつの姿を見た瞬間。パチンと世界が弾けたような気がした。どうやら今までおれが過ごした世界は未完成だったらしい。ヘッドフォンも持っていたカバンも投げ捨ててそいつに駆け寄った。
「エルム!!」
だって、俺の心臓が初めて鼓動を始めたのだから。