外の世界で生きる人

そこそこ年季の入ったアパートに暮らし始めて4年が経つ。高校に通うと同時に住み始めたここはそれなりに愛着があった。
最近隣に越してきたカップルだか夫婦だかも穏やかな人達で─旦那さんの顔は少し怖いが─平和な日常を過していた。

お隣さんと話すようになり、二人は夫婦だと知った。そして月日は経ち、何時からだか毎朝のゴミ出しは奥さんから旦那さんに代わり、階段を上る奥さんの周りを警戒心バリバリで見守る旦那さんの姿が見られるようになった。
聞けば奥さんが妊娠したらしい。旦那さんの照れ臭そうな嬉しそうな顔と奥さんの慈愛に満ちた表情が今でも忘れられない。絵に書いたような幸せな家族だった。

旦那さんは俺に会う度に自慢ばかりした。「おかえり」って言われる喜びだとか、部屋にベビーグッズが溢れるくすぐったさだとか。羨ましいというより微笑ましかった。
奥さんのお腹を触ると蹴るんだ、と嬉しそうに話す旦那さんは自分が世界で一番幸せだというかのような顔をしていた。

「恵まれた人になるように」
そんな願いを込めて『恵』と名付けると旦那さんが意気揚々に話していた。それを見ながら「女の子だといいわね」と奥さんは困ったように笑っていた。

そしてすっかり奥さんのお腹は大きくなり、間もなく生まれると聞いた。

ある日、隣の部屋からドタドタと騒がしい音が聞こえた。慌ててドアを叩くと、それに気づいたのか旦那さんが叫んでいた。
「おい!病院連れてこいッ!産まれる!!」
無茶なことを言うと思いながらタクシーを呼ぶ。
そして無事に産まれてくる事を願い、二人を送り出した。








それから奥さんは帰ってこなかった。
子供を産んで亡くなったらしい。

そして直ぐに旦那さんは子供を連れて出て行った。
それからの二人のことは知らない。
俺は夫婦が来る前の日常に戻った。
ただ大学へ行き、バイトをして、たまに飲みに行って。幸せじゃないとは言わないが、時折あの夫婦の顔を思い出して、物足りないような気持ちになる。本当の幸せを見てしまったからだろう。


つまらない毎日を過ごしながら、俺は大学を卒業し社会人となった。そしてそれを機に引っ越した。
生憎やる気もないまま適当に就職したため、薄給のサラリーマンだ。
ボロい埼玉のアパートに家を借り、社会の歯車として日々邁進していた。

お隣さんはシングルマザーのようで子供が二人居るらしい。一人は父親の連れ子で、子供を置いてすぐに蒸発したという。子供たちのお母さんがそう話していた。
津美紀ちゃんも恵くんもとてもいい子で、仲良くなるのにそう時間はかからなかった。

幸運なことに俺の会社は土日休みで、平日も17時退社ができる(給料以外は)ホワイトな会社だった。
そのため忙しくしているお母さんの代わりに、二人を遊園地や動物園に連れていくこともあった。あまり笑わない恵くんもこの時ばかりは幸せそうに笑うのでついつい写真をたくさん撮ってしまう。

そして俺はそんな恵くんの笑顔を見て気付いてしまった。彼らの名字は「伏黒」で、かつてのお隣さんの夫婦の名字も「伏黒」だった。旦那さんは確か子供に「恵」とつけると意気込んでいて、この子の名前も「恵」だ。偶然とは思えなかった。
なぜなら幸せそうな笑顔があまりにも似ていたから。

必然的に蒸発した父親の正体を察することになり、旦那さんのろくでなしっぷりに呆れるやら、何やらでお母さんや恵くんに申し訳なくなった。
俺はただのお隣さんでしかないのに。
けれどあの幸せが具現化したような状態を近くで見ていたからかもしれない。俺は旦那さんを責める気持ちにはなれなかった。


会社では後輩が出来、仕事も忙しくなってきたある日、恵くんと津美紀ちゃんが揃って俺の家のドアを叩いてきた。珍しくドンドンと大きな音を立てて叩くものだから急いで出る。

そこには泣き腫らした目を赤くした津美紀ちゃんと、何かを耐えるように両手を握りしめた恵くんがいた。

家にあげて話を聞くと一昨日からお母さんが帰ってこないらしい。話しながら啜り泣く津美紀ちゃんを宥めながらご飯を用意する。お母さんが消えてからあまり食べていないと聞いた。
二人がご飯を食べている間に警察に通報する。あまり大事にはしたくないが、幼い子二人を残して消えるのは些か異常だ。事件や事故に巻き込まれた可能性もある。

「お母さんはすぐに帰ってくる」そう言って安心させてやることも出来なかった。そんな期待させるだけの言葉は裏切られた時のショックが大きい。置いていかれた経験がない奴が吐く言葉だ。

いくら待っても待っても帰ってこない人を待ち続けるのは、とても哀しくて辛いのだ。


「俺が側にいるから」そんな陳腐な安っぽい言葉しか俺には口に出せなかった。
泣き疲れて寝た津美紀ちゃんに寄り添うようにして恵くんも眠りについた。よっぽど疲れていたのだろう。その間に警察に事情を話す。
そしてこのままだとこの子達が離れ離れになって施設に預けられることを知った。


色々あって二人を養子として迎えることになった。色んなところと揉めたりしたが、終わりよければすべてよしだ。あの夫婦を思い出し、名字は伏黒のままにしてもらった。彼らは俺にとって大切な人たちだ。


親になって3ヶ月後、恵くんが変な男を連れてきた。
男が言うには恵くんはあの旦那さんに売られたらしい。それを食い止めたのがこの男だそうだ。
恵くんの値段は10億。到底俺に出せる額じゃない。
圧倒的な金額には愛とか情では到底敵わないということを俺は誰よりも知っている。

男と恵くんが交わした約束についての詳しく教えて貰えなかった。だがどこか諦めたような恵くんの目がやけに印象的だった。


津美紀ちゃんと恵くんはどんどん成長していった。
いつしか恵くんは反抗的になり、俺だけでなく津美紀ちゃんにまでトゲトゲした態度をとるようになった。ただ俺からするとそれすらも微笑ましく思えた。



俺もそれなりの役職につき、忙しい日々を過ごしていた。その日は残業がありいつもよりも帰りが遅くなった。
家に帰るとしんと静まり返っていて、恵くんと津美紀ちゃんの姿が見えない。二人に電話をかけるも繋がらなかった。

朝になってあの時の男、元い五条くんから電話がかかってきた。言われた場所に駆けつけると津美紀ちゃんがベッドで寝かされていて意識がない状態だった。
“呪われている”そう五条くんは話していた。

また奪われてしまった。
しかし命があるだけ救われたと思うべきだろうか。









俺の両親は事故で死んだ。
俺が中学生のときだ。当時4歳だった妹を抱き上げ、必死で泣かないように堪えていた。

そんな妹に変な連中がわらわらと近寄ってきた。彼らは莫大な金を置いて妹を連れ去った。抵抗虚しく為す術なく呆気なく、一人残った俺の家族は連れて行かれてしまった。
今思えば両親の事故も妹を連れ去るための作為的なものだったのかもしれない。真相は闇に包まれたままだが、今では確かめる術も無い。

妹が元気で生きていることをただ願うばかりであった。



せっかく手に入れた家族をまた失うところだった。
未だ津美紀ちゃんは目を覚まさないけれど、息はしている。生きはしているのだ。
どこにいるか分からない妹もきっと生きていることだろう。もしかしたら結婚しているかもしれない。少し早いが子供だっているかもしれない。

だから、お願いだから、もうこれ以上俺から家族を奪ってくれるなよ。

間もなく恵くんの寮生活が始まる。また俺の家に誰もいなくなってしまう。けれどきっと大丈夫だろう。
底知れぬ不安に蓋をするように俺は自分の心にそう言い聞かせた。








天内颯(35)
かつて家族を失い妹と引き裂かれたことから、家族を何よりも大事に思っている。
彼は知らない。妹が既に亡くなっていることを。
かつての隣人に殺されていることを。
彼は知らない。かつての隣人が既に亡くなっていること。
引き取った子供の恩人に殺されていることを。

そのうち真人に改造され、虎杖に殺される。



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