玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば(五条)

僕にはかっこいい恋人がいた。


見た目もさることながら、気遣いだってできて、優しくて、料理の腕も上手くて、欠点なんて何一つ見当たらないような素敵な人だった。
明るいところが苦手らしくサングラスが必需品みたいだけど、それでもわかるほど綺麗な顔をしていて、僕が少しでも待ち合わせに遅れるといっつも女の子に囲まれていた。
それがちょっとだけ悔しくて、でもそのイケメンは僕の恋人なんだって自慢したくて堪らなくなった。


そんな恋人が綺麗な女の人とホテルから出てくるのを見てしまった。僕が見たことないほど幸せそうに笑っちゃって、泣きたくなるくらいお似合いだった。


ずるい。ずるい。ずるい。
僕が女の人だったら、せめてあの人の子供を産めたのに。

いつかは振られると思ってた。僕なんかには勿体無い人だったから。でも何か形に残るものが欲しかった。もっと言えばあの人の子供が欲しかった。

自分のぺったんこな腹を撫でるとトクリと何かが動いた気がした。






──────

僕のお腹には最愛の人の子供がいる。
瞳はあの人と同じ空の色がいいな。性格もあの人に似て優しくてしっかりした子になってほしい。

膨らみの目立つお腹を撫でながら、そんなことを想う。
恋人に会ったらこの子が殺されてしまう・・・・・・・・・・・・・・・・・・から、しばらくは隠れていないといけない。勝手に産んだら怒られるかな?
でもいいや、もう僕にはこの子がいるから。


名前は何にしよう。性別だってまだわからないのに、そんなことを考える。この子に会うのが楽しみだなあ。




あの人の浮気を見て─実際は僕が浮気相手だったのだろうけど─僕はすぐに引っ越すことを決めた。携帯も解約して、新しいものも作らなかった。誰もいない森の中に逃げ込んで、ここを終の住処にすることにした。
何故だかは分からないけど、何かが僕を呼んでいたのだ。多分この子なのかもしれない。この子が生きるために選んだ場所がこの、人のいない森の中なんだろう。

一人ぼっちで寂しかったけど、お腹の中のこの子が動く度に一緒にいてくれていると思えた。どんなに悪阻が苦しくても、この子のためを思うと何でも我慢できた。
だって誰よりも愛した人の子だったから。


僕たちの宝物が産まれるまであともう少し───。



───────

─ガシャン

派手な音を立てて椅子が倒れた。
白髪の美丈夫─五条悟が苛立ちを紛らわすかのように蹴飛ばしたからだ。

「こら悟、物に当たらない」
袈裟を着たこれまた美丈夫─夏油傑が窘めるように言うが、五条には聞こえていなかった。

「どこにいんだよ!クソ」
「悟、落ち着いて。そんな姿生徒たちに見せられないだろう?」
「チッ」
気が立った様子の五条の周りにはバツ印のついた資料があちらこちらに散らばっていた。夏油はそれを拾い集めながら、何とか五条を落ち着かせる。

「冥さんは何て?」
「…関東とその他主要都市にはいないって」
五条は私財を投げ打って行方不明となった恋人を探していた。いなくなったタイミングを考えれば、五条の浮気がバレたのだろうと察しは付く。それに関して夏油にも自業自得だと呆れたように叱られていた。

だから最初は五条が嫌になって逃げたのだろうとタカをくくっていた。いくら一般人が逃げようと隠れようと、呪術師のネットワークを使えば容易に見付けられる。皆、すぐに見つかるだろうと思っていた。


3日、1週間、1ヶ月、半年───
当初の予想とは裏腹に未だに恋人の行方は分からなかった。痕跡すらも残っていない。それはもう不自然な程に。
やがて事件や事故を疑って、片っ端から可能性を潰していったが相変わらず見付からない。

五条の精神も限界だった。


そんな折に窓から静岡県の森の中に術者不明の帳が下りていると報告があった。
呪詛師が下ろしたものと思われるが、中の様子が分からない。敵の等級が不明なため五条が行く以外の選択はなかった。別の任務に向かう夏油から心配そうな視線を向けられたが、五条はそれに気付かないふりをした。
むしろこうして任務に出ている方が恋人のことを考えずに済んだ。




帳が下りた先に着いて、五条はふと懐かしい気配を感じた気がした。それは一瞬で、五条自身の会いたいという欲求がもたらしただけなのかもしれなかった。だが五条の直感はそう判断しなかった。帳の中に恋焦がれた最愛の恋人がいるという根拠の無い確信があった。

黒い闇にそっと触れ、弾かれることがないのを確認すると気を引き締めて中に入る。



そこには異様な光景が広がっていた。

おびただしい数の呪霊たちは帳の中に入ってきた五条侵入者に構わず、傅きながら一人の人物を崇拝していた。

五条が好きだった黒く美しい髪は腰あたりまで伸び、妊婦のように膨らんだ腹を撫でる手はいつぞやと変わらずに白魚のように綺麗だった。そして何よりも腹を見るその顔が、慈しみに溢れていて惚れた弱みに関係なく聖母のようであった。
ずっと最愛の恋人を探していたことも忘れ、五条はその美しい表情に見蕩れていた。


「カァさマ、ニンげンィる!カァさマカァさマ」
「コろす?ころス?」
「ダメョかァさマ、ニんゲンすキだもノ」

五条がしばらくほぅと眺めていると呪霊たちが喚き散らし始めた。だが攻撃する様子はない。
人間の言葉を話しながら、カアサマ・・・・とやらの指示を仰いでいた。

「五条さん、僕たちの宝物に会いに来てくれたのですか?」
「…………何言ってんの、帰るよ」
恋人に問い詰めたいことは山ほどあった。だがそんなことはおくびにも出さず、 平然を装って恋人に声を掛ける。
「いえ、ここが僕のお家です」
「颯、帰るよ」
五条はもう一度同じ言葉を吐いた。自分に言い聞かせるための言葉だったのかもしれない。
「五条さん」
「颯。コイツら全部祓うから。お前の話はそれから聞くよ」
「だめ!ダメです!この子達は僕の宝物を守ってくれるから!」
呪霊を庇う恋人に五条は苛立った。半年以上行方を眩ませ姿を見せないと思えば、呪霊なんかと仲良しごっこをしていたわけだ。
恋人の静止を無視して、3秒もかからずに全ての呪霊を葬り去った。

「な…なんで…酷い、酷いです」
「うるさい、てかその腹なに?」
恋人の啜り泣く声にさらに五条の苛立ちは募る。そして邪魔な呪霊が消え、恋人の姿がよく見えたと思えば腹に何かがいる・・
「僕と五条さんの子です」
「男なんだから孕まねえだろ。見せろ」
いつもの軽薄そうで優しい五条先生の皮を脱ぎ、学生時代のような口調で話しながら距離を詰める。

恋人の腹から禍々しいものが見えた。
そっと手を伸ばすとバチンと叩き落とされた。
他でもない恋人の手によって。
「何のつもり?」
「ごめ、ごめんなさい。でも、駄目なんです」
「駄目?」
恋人の言葉に首を傾げる五条。
「殺さないで、駄目、この子は僕が守るから、駄目、やだ、殺さないで」
半狂乱になって腹を守るように身体を丸める恋人に、五条は何も言わずにトンと額を突いて意識を落とした。
可哀想なこの恋人は、弱みに付け込まれて呪霊を体内に封じてしまっていたのだろう。
五条は恋人を大事そうに抱えると、辺り一面をまっさらにするかのように茈を放った。そしてそのまま高専へと飛んだ。


─────

「妊婦、じゃないな」
「体内にいる呪霊を取り出してほしい」
いつになく真面目な五条に家入はまじまじと患者を眺めた。五条の尋常ではない様子から恐らくこれが噂の恋人なのだろうと察しがついた。
「腹を裂いて取り出せるけど、私が治せるのは身体の傷だけだ」
暗に精神が侵蝕されていても手の施しようがないと言いたいのだろう。五条は家入の言葉に頷き、最愛を託した。




「…悪趣味だな」

患者の肚ではトクリトクリとナニカが胎児のように・・・・・・脈打っていた。
妊娠というのはデリケートな問題であると家入は認識していた。産みたくないのに命を宿すことや、反対に望めども叶わないこともある。
この患者は後者だった。五条の不貞というショックに自身は決して子を孕めないという事実が合わさり、その弱みに付け込まれたのだろう。

軽く診察をし呪霊と患者を引き離すことで命に支障が出ないことを確認した家入は、部屋の外にいる夏油を呼んだ。

「五条は?」
「煩いから眠らせてきた。驚いたよ、悟があんなに簡単に落ちるとはね」
とは言っても、数十分もすれば目覚めるだろうけど。と肩をすくめた夏油に家入は「そうか」とだけ返した。
五条がこの場に来ると厄介だ。患者の精神的負担になりかねない。

夏油を呼ぶ前に既に準備しておいた手術道具を手に取る。
さて、この肚の中には一体どんな化け物欲望がいるのやら。家入は患者を一瞥すると、気合を入れるように溜息を零した。





───それ・・はあまりにも醜悪だった。
胎児のように背中を丸めたまま、肚の中で生きていた。
しかし皮膚は紫色に変色し、萎びたように骨と皮の姿であった。それ・・の顔は老人のように皺だらけで、しかし猿のように不気味であった。そしてニタリと笑い、嗄れた声で何かを口にした。
家入は聞き取れた訳では無いが、何故だか「おかあさん」と口にしたように思えた。


「…て…の…して…」
声がした。年若い男の声だ。
家入がハッとして患者を見ると、うわ言のように「返して」「僕の子」と呟いている。

「夏油!今すぐそれ・・を祓え!」
「ああ」
パシュンと夏油の操る呪霊がそれ・・を喰らうと、患者は連動するかのように意識を失った。しかしその瞳からは涙が伝っていた。






「あの薄気味悪い呪霊は一体…」
「我が子を抱きたいと願ったものの成れの果てか、それとも我が子を殺したものの成れの果てか、両方か」
二人の脳裏にはまだあの不気味な笑みが残っていた。


「颯!」
「まだ寝かせておけ」
翌朝、意識を取り戻した五条が珍しく取り乱した様子で、患者の元を訪れた。患者が死ぬ夢を見たらしい。
「…息してる」
「せっかく助けた患者に不謹慎なこと言うなよ」

「ねえ硝子。颯は許してくれると思う?」
「さあね。少なくとも私だったらそれ・・もう二度と使えないようにするけどね」
五条は咄嗟に脚を内股気味にする。こういう察しは良いのに、恋人の感情は全く察せられなかったようだ。


「颯の中にいたやつ、傑から聞いた」
「そ。で?」
「で?ってちょっと冷たくない?…僕はさ、子供が欲しいと思ったこと無いんだけど、普通は自分の子を抱きたいとか思うのかな」
「自分の子?お前の恋人が欲しかったのはそうじゃないだろ」
もし本当に自分の子供が欲しいのであれば、こんな甲斐性無しとはさっさと縁を切って、好い人を見つけていただろう。呪いを身に宿すほど焦がれて、そこまでして欲しかったものが五条こいつには分からないのか。











「あれがあの人との子供じゃないことは頭のどこかで分かってたんです。でもそう思っている方が楽だった。僕には何もないから、愛された証が欲しかった。ごめんなさい、ごめんなさい」
ただでさえ華奢な体をさらに縮こませて泣く哀れな青年を誰が責められようか。それに幸か不幸か、彼には呪霊を惹き寄せる体質があった。腹にいたあれは青年を母胎とし、呪霊を生み出す装置として使おうと画策したようだが、奇しくも青年はあれすら魅了した。青年を中心とした呪霊の集団は、青年の善性により人に被害を及ぼすことはなかった。





颯の母は颯に呪いをかけた。言葉という武器でひたすら颯を呪い続けた。
「女の子だったら良かったのに」
颯にとって自分の性別こそがコンプレックスだった。僕はそれを知っていたはずだ。それなのに僕の軽率な行いが、颯を追い込んだ。自分を呪い、呪霊を招き入れる結果になった。

あれから颯は僕を責めない。
ぐずぐずに泣いてひたすら謝ることの繰り返し。僕の好きな笑顔は1度も見てない。傷付けた僕が言えることじゃないのかもしれないけど、いっその事責めてほしかった。
そう零したら硝子に「お前が楽になりたいだけだろ」と言われたけど、その通り過ぎて何も言えない。

僕がどれだけ愛を伝えても義務的に「ありがとうございます」と返すだけ。そこになんの感情も読み取れなかった。


「五条さん、ごめんなさい。もう何も望まないから、子供も愛も全部望みませんから。……もう迷惑かけないから」
「…………子供欲しかったの?」
「…」
「颯子供好きだもんね」
「…………」
「颯」
ふと硝子の言葉が頭をよぎる。
颯が欲しかったのは自分の子じゃない・・・・・・・・・・・・・・・・・・。あの時硝子は確かにそう言っていた。なら颯は何を望んでいたのだろうか。

「颯、ごめんね。僕のせいだよね」
「…………もし、もし僕が女の子だったら、五条さんの一番になれていましたか?」
「颯…、颯に何番もないよ。颯はずっと僕の特別だから、二番なんていらない。そこに性別とか関係ないから」
「それなら、もし僕が女の子ならあなたの子を産むことを許してもらえましたか?」
ああ、ようやく分かった。颯は僕との子・・・・が欲しかったのだ。他の誰でもない僕との子を。産めないと分かっていながらもそれを望む颯のいじらしさが、健気さが、僕の心を刺激した。僕の恋人はどうしてこうも愛おしいのか。
「そっか、僕との子供が欲しかったんだね。それは今も変わらない?」
ずるい問いだと思う。もしこれに肯定してくれたら、僕は颯から許されたと思ってしまう。それでも聞かずにはいられなかった。
「…………はい。馬鹿なことをと思いますよね。自分でも無理だってわかってます」
「無理じゃないし、僕も颯との子供が欲しいよ」
この世界呪術界においてそれは無理でもないし、僕の力をもってすればそんな呪具の一つや二つ、簡単に見つけ出すことが出来る。
正直僕と颯の間に邪魔なものはいらないけど、颯がそれを望むのなら叶えることもやぶさかではない。それに子供ひとつで颯を僕に縛り付けることが出来るのなら、安いもんだと思う。

ああ、でもその前に一つ大事なことを忘れていた。
「颯、結婚しようか」



back
top