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──リジ―、オレと海で暮らそう?

あの日、フロイドにそう言われたことを今でも覚えている
そして僕は人間を辞めて人魚になったはずだ

でも今の僕には足がある
それにこの部屋は寮の自室だ

鏡を覗くと制服を着た在りし日の僕がいた

きっと幸せだったあの頃の夢を見ているのだろう
今までの選択を後悔したことはなかった
誇りを持って僕の生きた人生は幸福で溢れていたと言える

ただ一つだけ後悔があるとしたら、フロイドの人生を僕で縛ろうとしたことだろう

我儘で気分屋で自分勝手で気まぐれで面倒くさがりで

でもそんなフロイドが大好きだった
僕なんかが縛り付けていい人じゃなかった

僕はあの日泡となって消えただろう
どうせならこの想いも消してくれれば良かったのに


夢は未だ醒めない

クローゼットの角に小指をぶつけたときの痛みもしっかりあった
もしかしたら幸せだった記憶が夢だったのかもしれない

なんて考えていると、いきなりドアが開いた

「ねぇ、今日話したいことがあるって言ったじゃん」

顔を出したのはフロイドだった

「話したいこと?」
「そーそー。オレさぁ、リジ―のこと好きだって言いたかったのに全然来ねぇし」
「えっ、好き?」

あれ、僕はこれを知ってる
記憶の中でもフロイドは僕を呼び出してた
あの日は確かバタバタしていて、呼び出されたことをすっかり忘れて今みたいに告白されたんだった

「オレ、リジ―と一緒にいたいし、他のやつがリジ―と話してると絞めたくなる」

そう言ってフロイドは口をパカリと開いた

そして僕はフロイドに向かってそっと口を開いた






──気持ちは嬉しいけど、ごめんなさい

そう断るとフロイドは目に涙を浮かべて部屋を出ていった
僕ではフロイドに飽きられてしまうから、これで良かったんだと思う
アズールみたいに何かフロイドの琴線に触れるものがあればフロイドのこと飽きさせずにすんだのかな


でもそれからフロイドが僕についてまわることが増えた
リジ―、リジ―、そう優しい声で呼びかけられると、ついフロイドに構いたくなってしまう
フロイドに対する気持ちは、あの頃から変わってはいないのだから


そういえばアズールが記憶より晴れ晴れした顔をしている
前は確かフロイドから告白される少し前に、アズールはオーバーブロットをしていたはずだ
今回もオーバーブロットをしたから、そんなにも晴れやかな顔をしているのだろうか
でも以前の苦虫を噛み潰したような顔よりずっといい

ジェイドといえば、僕の片割れを振りやがってという殺意の篭った目で見られたぐらいで特に変わりはない
昔からそこまで干渉することもなかったから、別に気にしないが



そして記憶の中と同じように時が過ぎてゆく
あの頃と違うのは隣にフロイドがいないことだけ

でも僕の頭を顎置きにして後ろを歩いている
フロイドは毎日僕の元に来て口を大きく開く
それに対して、僕は首を横に振ることで答えるのだ

もうフロイドを縛るものは何も無いのだから


ついに卒業の日が来た
今までフロイドの想いに応えることはなかった
そしてこれからも

「リジ―、オレと海で暮らそう?」

フロイドはあの時と同じセリフを言った

「駄目です、もうそんなことはさせません」

ふいにアズールの声がした

「アズール!」

フロイドが僕の後ろを見て叫んだ
アズールはつかつかと歩いてきて、フロイドを睨みつけた

「フロイド、貴方ではリジ―を幸せにできませんでした。貴方はリジ―を殺したんです」
「は?アズール何言ってんの」

フロイドの反応は正しい
何でアズールは僕が死んだことを知っているのか

「な、何で?何でアズールは知ってるの?」
そう聞くとアズールは答えた

──オーバーブロットした日、僕は全てを思い出しました
フロイドが僕に「番に飽きた」と伝えたその日のうちに、リジ―の暮らす家に行きました
家の中は相変わらず綺麗に整えられていて、でも誰もいないのです
床には貴方が大切にしていた写真と、またフロイドに貰ったと嬉しそうに話していた指輪が落ちていました
それで予感が確信に変わりました
僕があんな魔法薬を作らなければ貴方は泡になることは無かった
でもフロイドが海に連れてこなければ、貴方は幸せだったのに

そう悔しそうに語るアズールに僕は何も言えなかった

「何それ、何、魔法薬って、何で泡になるわけ?」
フロイドは告げられた話に困惑しているようだ

そもそもこの話はフロイドであってフロイドではない人の話だ
だから気にすることない、そう伝えたのに

「オレがリジ―に飽きたから、オレのこと嫌いになったんでしょ!オレが、オレがリジ―を殺したから」

「嫌いになんかなるはずない!それにアズールもフロイドも勘違いしてるよ、僕はフロイドに殺されてない。自分の意思でそれを選んだのだから」

僕はフロイドが僕に飽きるであろうことはわかっていた
僕みたいな何の取り柄も無い人間に、フロイドは固着しないだろうから
でもフロイドに愛されていた時間は幸せだった
だから泡になって消えてもいいと思えた
だから、ねえフロイドそんな顔しないでよ

「ねえリジ―、わかったもう海に連れて行ったりしないから。だからオレの傍にいてよ」
「駄目です、リジ―。もう貴方を失いたくない」

アズールはフロイドの言葉を遮るようにそう言った

「アズール?」
「今まで僕がどんな想いで貴方を見てきたか。貴方が消えて僕がどれほど苦しんだか。リジ―、お願いです。どうか僕を選んで。僕と一緒に生きてほしい」
「邪魔すんなよ、アズール」
「フロイド、貴方はきっと彼を大切に出来ない」
「するし!」

僕はフロイドが好きだ
この気持ちに変わりはない
でもアズールは僕のせいで苦しんだのだ
僕がアズールの静止を無視して魔法薬を使ったから
きっと僕に魔法薬を作ったことを後悔して、責任を感じている
そんな必要なかったのに

だから

「フロイド、アズール」

「二人ともありがとう、でも僕のことは忘れてよ」

──破られた頁(ロストメモリー)

僕のユニーク魔法は任意の記憶を奪うものだ
二人から奪う記憶はもちろん僕についての記憶

「さようなら、二人とも大好きだったよ」

好意の意味は違えども大好きで大切だったことには変わりない
どうか僕のいない世界で幸せに暮らしてね






それから僕はひっそりと暮らしている
心に隙間風が吹いているように感じるが、これで良かった


風の噂でアズールが開いたリストランテが賞を受賞したと聞いた
あのNRCを卒業したやり手のオーナーとして、インタビューを受けているのも記事で読んだ
フロイドとジェイドも一緒に働いているらしい
その記事の写真で見た三人は、大人びていて遠く感じた


記憶の中の海での日々も、学生だった日々も僕にとってはかけがえのないものだった

でも今の穏やかな日々に僕は満足している
大切な人達に会わずとも、その活躍を知ることが出来る

僕は幸せだ


そんな日々を過ごしていると、僕のマジカメに一通のDMが届いた
ジェットサムという差出人の名に聞き覚えはない

DMには『貴方のせいで僕の大切な人が苦しんでいます』とだけ書いてあった
思い当たる人といえば、フロイドとアズールであるが記憶を消した今その可能性はないだろう

もしかしたら僕は、気付かないうちに誰かを傷つけてしまったのかもしれない
そしてジェットサムさんと暫くやり取りを続け、会いに行くことになった

指定された場所は潮の香りが漂う海沿いのカフェだ
かつて海で過ごした記憶が脳裏を過った
こんなに青く美しく見える海も、海底では暗く姿を変える
そんな懐かしさに胸を焦がされながら、ジェットサムさんを待つ

ふいに後ろから肩を叩かれ、声をかけられた

「お久しぶりです、リジ―さん」

現れたのはジェイド・リーチ、その人だった





┈┈┈┈┈┈

僕が彼に会ったのは入学式だった

歩き慣れていない僕が人の波に押されて転倒したのを助けてくれたのが彼だった
──大丈夫?
そう心配そうにこちらを見る目に、心臓がドクリと音を立てたのがわかった

そしていくつか言葉を交わして彼は離れていった
何を話したかは緊張のあまり覚えていない

それから彼を目で追うことが増えた
話し掛けたいとも思ったが、僕は所謂奥手だったらしい
彼に会って初めて知った自分の一面だった

そんな彼に僕の片割れが興味を持ったらしい
度々会いに行くのを見かけた
心の奥底に彼への気持ちを隠した僕には、兄弟を止めることは出来なかった

そして僕の片割れは彼に恋をした
奥手な僕とは違い積極的に彼の元に通っていた

さらに彼を想っていたのは僕達兄弟だけでは無かった
僕達の幼なじみも彼に好意を抱いていた
幸運なことに幼なじみは僕と同じく消極的だった


やがて、兄弟は彼に想いを告げた
しかし彼はその想いに応えることは無かった
それでも片割れは、卒業までその恋を諦めることは無かった

一方幼なじみは想いを伝えることを躊躇っていた
そのため近しい友として、彼の傍にいることを選んだ

僕は誰よりも彼を見てきた
だから彼の目に誰が映っているのか、直ぐにわかった
彼は片割れに懸想していた
どんな理由で告白を断ったのかはわからないが、二人が両思いであることは僕の目からは見て取れた

僕が先に見つけたのに

そんな思いから彼へ向ける感情が憎しみに変わった
頭では八つ当たりであるとわかっていたが、彼を憎むことで彼への想いを誤魔化していたのかもしれない

そして僕達の関係は変わらないまま卒業を迎えた
兄弟は最後に彼に想いを伝えに行った
幼なじみはそれを追いかけて行った

僕は何も出来ず、二人の背中を眺めていた

二人が戻ってきた時、彼に関する記憶の一切を忘れていた
優しい彼のことだから、どちらも選べずに自分が忘れられることを選んだのだろう

僕はそんな二人を見て、彼への憎しみが消えたのがわかった
二人は彼を想うことができないのだと思うと、自分が優位に立てたように感じられた

それが間違いだと気づいたのは、暫くしてからのことだった

二人は欠けたパーツを補うかのように仕事に励んだ
そして彼と同じ髪の人や背格好の人を見つけると、無意識に顔を確認して落胆するということを繰り返していた

彼は記憶を消せても、想いまでは消してくれなかったようだ

そんな二人の様子に僕は自分が情けなく感じた
正々堂々勝負することなく、ましてや勝負から逃げ出すなんて僕らしくない

だから二人と同じ土俵に立つために、その上で勝つために彼を呼び出した
学生時代培った技術があれば、彼のアカウントの特定なんて造作もなかった




┈┈┈┈┈┈

僕を呼び出したのはジェイドだった

何で、どうして、そんな疑問が頭を埋めつくす
フロイドもアズールも僕のことは忘れているはず
あれが誰も傷つかない選択だった

「リジ―さん、少し話をしましょう」

ジェイドはそう言って話し始めた

「僕とフロイドの性格はあまり似ていません。好みも違えば、趣味も違います。
ただ何故か欲しいものだけはいつも同じでした。そしてそういう時は決まって僕がフロイドに譲っていました。
昔、沈没船の中で古い懐中時計を見つけました。僕はそれをとても気に入っていました。僕にとって当時、それは宝物でした。
しかしフロイドがその懐中時計を欲しがって、酷く癇癪を起こしたのです。僕もこれだけは譲れないと思っていたのですが、フロイドがどうしてもと言うので結局あげてしまいました。
数日後、部屋の片隅にぐちゃぐちゃに分解されたまま放置された懐中時計を見つけました。
その時の僕の気持ちはフロイドには到底理解できないと思います。
リジ―さん、なぜこの話を?とお思いでしょう」

ジェイドはそこで逡巡する素振りを見せた
そしてまた口を開いた

「リジ―さん、フロイドとアズールの記憶を戻してあげてほしいのです」

「でも!」
僕はそう言って尻込みしてしまった

「二人は大切なものを失ったという焦りと、それが何か分からないという恐怖で今も苦しんでいます。
それに僕はもう部屋の隅に打ち捨てられた宝物を見たくないのです」

「そんなっ…」
二人が苦しんでいるなんて思いもしなかった
ジェイドの言う宝物の意味はわからない
だけどきっと大切なものなのだろう

「正直に言いますと、二人のためではありません。僕のエゴです。僕が僕らしくあるためにもお願いします。」

「…わかった」

ジェイドの言ってることは理解できなかったけど、きっと苦しんでる二人を見て見ぬふりはできないのだろう

だから二人の記憶を返すことにした

「僕が二人の前で彼らの名前を呼べば、記憶は戻るよ」
「直ぐに連れて来ます」

そう言ってジェイドが店から出て、数分後に懐かしい顔と再会した

「ジェイド急に連れ出してどうしたんです?」
「おい、ジェイド引っ張んなし」
「いいから来てください」

そんな何気ないやりとりですら、学生時代を想起させた

「さあ連れて来ましたよ」
ジェイドはずい、と二人を僕の前に押し出した

僕は覚悟を決めて二人の名前を呼ぶ

「フロイド、アズール、久しぶりだね」




┈┈┈┈┈┈

ジェイドに急に連れ出されて、どこか懐かしさを感じさせる人の前にぐいと押し出された

そしてその人がオレの名前を呼んだ瞬間、ぶわっと頭の中に***の記憶が蘇った

オレの大切な人

そして、オレが捨てた人

卒業式のあとアズールが言ってたことを漸く理解した
リジ―はオレの為に人間を辞めた
なのにオレはそんなリジ―を捨てて、殺した

オレが殺した

リジ―が海で他の奴らに虐められてんのをオレは知っていた
リジ―に相談されて頼られたかった
かっこいいところを見せたかった

でもリジ―はオレに何も言わなくて、それに腹が立ったのが始まりだった
それから少しずつリジ―に冷たく当たった
オレが時折機嫌良く話しかけた時の顔が、やけに嬉しそうで癖になった

それから帰る頻度を減らした
たまに会うと余計に嬉しそうに笑った

それも段々無くなっていった

だからムカついてもっと帰らなくなった
もし番を解消するって言ったらどんな反応をするだろうか
そう思ってしまった

リジ―に飽きたと伝えたとき、リジ―は何も感じてなさそうに笑っていた
だからオレはまた帰るのを辞めた

次に帰った時リジ―はいなかった
愛想を尽かして出ていったんだと思った
だからアズールに頼んで、探してもらおうと思ったのに



全てを思い出した

「リジ―、ごめんねぇ好きになって」

オレはみっともなく泣きながら、リジ―に伝える
そんなに泣かないでよと笑ってオレの涙を拭うリジ―の手はあの頃のまま暖かくて、優しかった


┈┈┈┈┈┈

「リジ―…?」
アズールが僕を呼ぶ

フロイドはべしょべしょ泣きながら僕にしがみついている

「なあに、アズール」
「リジ―、貴方のことを思い出せなくても、僕にとって貴方が大切なことには変わりませんでしたよ」

そう言ってアズールまで泣き始めるものだから、僕は助けを求めるようにジェイドを見た

ジェイドは今まで見たことがないほど、嬉しそうに笑っていた


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