07
名字名前という人間は、大概不安定なイキモノである。
こちらを凝視する二つの瞳。黒くて底が見えない、深い闇のような目だ。いつもの無表情は、顔がまだ赤らんでいることによって人間味を帯びていた。
俺の答えを急いているのか。いつもより目力がある。きっと彼は俺のことを真面目に疑問に思っているのだろう。
――とても簡単なことだった。
「名前が悪い」
「……えっ」
「抵抗しないのが悪い。拒否しないのが悪い。怒らないのが悪い。素直なのが悪い。懐いてくれるのが悪い。俺のこと優先してくれるのが悪い。近くにいるとやけに安心するのが悪い」
そこまで一気に言い切る。名前を見れば、いつもの無表情が滅茶苦茶に崩れていた。そんな顔も出来るんだな。知らなかった。
もどかしいような、悔しいような気がして、自分の感情なのにどこか置き去りにされたような感覚に陥る。
どうしてこんなにも名前が可愛く思えるのだろう。ただの後輩なはずなのに。無表情なくせに案外分かりやすくて、俺なんかの言葉でそんな顔をする。そして、そんなお前にうっかり間違いでも起こしそうになる俺がいる。
なんてどうしようもない。これも全部お前のせいなんだ。
「……だから、お前が悪い」
自分のぐちゃぐちゃな感情を勝手にぶつけて、それからどうするつもりだったっけ。名前の表情を見たらころっと忘れた。やっぱりお前が悪い。
「……くろお、せんぱい」
名前は今にも泣きそうな顔をしている。けれど、少しだけ笑っていた。
するりと手が伸びてきて俺のシャツを掴んだ。そのままぐいと引き寄せられる。小さく息が漏れたのがはっきり聞こえて、ふたりの距離が縮まったことがよくわかった。
俺を見つめる黒目がふたつ。それが柔らかく細められる。この表情が堪らなく好きだった。
「おれのこと、好きすぎですか」
「……うん、そうかも」
きっと、わざわざ言うべき言葉なんてない。本当にこれだけ。他には特別なにもない。
「……せんぱい、夜、ほんとに嫌なら逃げてます」
「うん、知ってる。ありがと」
俺のシャツを握る手をやんわりと剥がした。そのまま繋いでみる。また表情が柔らかくなって、心拍数が跳ね上がった。
「びっくりするから別の方法さがしましょうね」
「やだ」
「……見られたじゃないですか」
「じゃあ頑張る」
「がんばって、ください?」
「……うん」
謎の応援を貰ったので素直に受け取っておく。名前らしいと言ってしまえばそうだが、こんなやり取りをするのも初めてではない。
好意を伝えることは出来ても、はっきり好きだとは言えなかった。全てが受け入れられたとき、どうしたらいいのか分からなかったのだ。
きっと彼は拒まない。そんな根拠のない自信はあったけれど、怖かった。無垢な彼が崩れていくのは恐怖でしかなかった。少しでも厭らしく触れたら、彼が纏っている無垢さが剥がれ落ちてしまいそうな気がして、どうにかなりそうだった。彼の無垢さを、心底俺は愛していた。
だから、暫く先には進めそうにない。それでもよかった。
「名前」
「……なんですか、黒尾せんぱい」
「なんでもない」
彼のお世辞にも丈夫には思えない胸元に顔を埋めてひっそりと笑った。名前は少し戸惑ったのち、ゆるく首に腕を回してくる。
それに満足して、自分の欲望に蓋をし一応の最適解を選べたことに安堵した。けれど、一瞬の躊躇いが過る。
首に回された腕の力が強まって、その躊躇いはいとも簡単に吹き飛んだ。
笑みが無意識に深くなる。彼には見えない。彼には分からない。
俺はしあわせだった。紛れもなく。
遠くでぱちゃりと水音が聞こえた。
完結//2015/04/21
最後なぜか重くなった(不本意)ですが、お互いの気持ちがイマイチ噛み合わないまま境界線ふらついてる感じが可愛いと思います。
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