毒を喰らわば墓場まで
※『汝悪食を愛せよ』のつづき
※倫理観などない
「りゅうじ」
舌っ足らずに名前を呼ばれ、大曲はゆっくりと顔を上げた。視界に飛び込んできた男の予想外の表情に思わず息を呑んだ。
「……名前?」
この男が心の底から真正面から口火を切って謝ってきたのは、長い付き合いの中でこれがはじめてだと思う。否、この男はひとかけらも謝罪の言葉を口にしてはいないけれど、これがきっと彼なりの最大級の謝罪なのだろう。
なんて男を好きになってしまったのだろうか。呆れて言いかけた言葉を飲み込む。
いつだって彼に悪気はないし、悪意もなければ罪の意識の欠片もない。だから決して謝りはしないし、心にない気休めの謝罪の言葉を口にはしない。もちろん大曲が彼の悪癖を咎めたことなど一度もないし、謝罪を願ったことも求めたこともない。
すべては彼なりの愛情表現であると大曲は納得しているし、世界の誰よりも理解しているという自負がある。
けれど彼は大曲の前で無防備に全てを曝け出して、ただ大曲の行動を待っていた。沈黙を保ったまま全てを受け入れる覚悟を決めて、こちらを伺ってくる。
それはまるで、降伏に見せかけた脅迫だ。
自分のことを好きにしろと、お前にはその権利があり、それを満足いくまで振るえと訴えかけてくる。これが自分に示せる最大限の誠意なのだと、静かに大曲のことをけしかける。
早く、早く。その眼差しだけで端からじりじりと焦がしていくのだ。
「怒ってねぇし」
「…うん」
「やめろとも言わねぇ」
「……うん」
「ちょっと意外だっただけだし」
男は悲痛な表情で俯き、大曲の言葉に相槌を返すのがやっとだ。膝の上で握られた拳をゆっくりとほどいてやる。指先は力の入りすぎで白くなってしまっていた。
再びふたりに沈黙が訪れる。
「ゆっくりでいい。お前の言葉で聞かせてくれ」
大曲の言葉に男はひとつ瞬きをして、固く結んでいた唇をひらいた。
「おれはテニスしてる竜次がいちばんかっこいいと思ってるけど、隣にはどう足掻いたって立てないから。だから、だからおれは――手段なんか選んでられないんだよ」
お前の全てが知りたいから。
そう呟いた唇は震えていて、目尻には涙が浮かんでいる。いつもの余裕そうな仮面を剥ぎ捨て、取り繕うことなく剥き出しになった愛を向けるその顔は大曲の心を的確に突いてきた。
余裕なんてない。優雅さの欠片もない。大曲のせいで歪んでふやけた思考回路のまま、離すまいと縋りついてくる。長い付き合いの中で大曲がそう仕向けた。
俯いた顔に手を添えて上向かせる。状況を分かっていないであろう男は惚けた顔でぱちぱちと瞬きをした。そのたびに長い睫毛を濡らしていた雫が照明を反射してきらめく。泣いても笑っても様になる、罪な男だ。
「俺のことでいっぱいいっぱいな名前も好きだし」
「……竜次、おれのこと、」
「いい。何も言わなくていい。分かってるし」
嫌いにならないで、と言われる前に言葉を遮る。大曲はその言葉を言わせたかった訳じゃない。
瞼にキスを贈って抱きしめてやれば、くぐもった声で名前を呼ばれる。未だ微かに震える背中をさすってやれば、辿々しい手つきで背中に手を回してきた。こんなにも初々しくてしおらしい男を見るのは久しぶりだ。
彼はいつだって大曲の先手をとって、すべてを食い尽くそうとする悪癖があった。持ち得るものを余すところなく使って、大曲のことを知りたいがために大曲と関係を持った女達を次々と味見しては即座に興味をなくしていた。
――だから、これでいいのだ。
もしもこの男が大曲の全てを知り尽くして喰らい尽くして満足してしまったら、いったいどうなってしまうのか。大曲への興味を失い、知らない誰かのもとへ行ってしまうかもしれない。
満足そうに微笑んで、腕をすり抜けていく姿を想像するだけでぞっとする。そんなこと、許すものか。
大曲の心を奪ったのならば、最後までこちらを見てくれなければ困る。だから永遠に分からないことのひとつやふたつ、あったままでいい。ふたりがこのままの関係を維持するのに必要なことだった。
例えるならばミロのヴィーナスと同じだ。ミノス島で見つかった、腕のない女神像。欠けているところを想像で補っているうちが一番欲を掻き立てられのであって、欠けた部分が見つかった途端にその価値は崩れていくだろう。
この男が埋まらない穴を補うためにどんなことをしたっていい。すべて許せる。しかし、その穴を埋めることだけは許さない。
テニスにまつわることは男に対する唯一の線引きであり、不可侵領域だった。それは未来永劫絶対に破られることはないだろう。どう足掻いたって時は戻せない以上、ふたりはテニスで分かりあうことは出来ない。
ここに種ヶ島という新たな人物が加わったところで、ふたりの根本的な関係は揺るぎもしない。どんなに種ヶ島の存在を利用したところで大曲の根底にあるものには届くはずもない。
それを分かっているからこそ、大曲は男の行いを許すのだった。むしろ、珍しい姿を引き出すきっかけをくれた種ヶ島に感謝の念すら抱いているくらいだ。大曲も男が思っているのと同様に、自分との関係さえ切れなければどこの誰と付き合おうが構わないのだ。
今の男はいっとう美しい。指の腹でそっと涙を拭ってやる。
「ほら、もう泣くなし」
「だって、竜次がかっこいいから」
「……あっそ」
はらはらと零れる涙は拭ってもなお溢れてくる。大曲にだけ向ける表情、大曲にだけ見せる仕草。周囲を巻き込んで弄ぶ時の小悪魔めいた顔と、お前だけだと泣き縋る時の幼い顔の二面性にくらくらする。
男の魅力はなにひとつ色褪せず、なにも変わらないままだ。年を重ねるごとに魅力が増してきているような気さえする。
「竜次」
「何だし」
「キス、しよ」
返事の代わりにそっと唇を重ね合わせた。
いつもならすぐさま熱烈に舌を絡ませるところだが、今日は大曲が促さなければ唇さえ開いてくれない。自分からねだった癖に。視線で訴えかけても困ったように眉を下げ、潤んだ瞳でこちらを伺ってくるだけだ。
舌で何度もノックをしてようやく開かれた唇の奥から縮こまった舌を絡め取って、容赦なく引き摺り出す。先端に柔く歯を立てれば、ぴくりと肩が揺れた。
普段は勝手知ってる我が家だと言わんばかりに口内を好き放題に動き回る舌も、今日はおとなしく慎ましい。大曲の動きに合わせて拙く追いかけてくるだけ。
反応は初々しいが、ふたりは数えきれないほどの接吻を交わした仲だ。忘れたとは言わせない。どろりとした欲望が疼き出す。
「……もっとだ」
「ん……ぅ」
一度唇を離し舌を出すよう指示すれば、ちろりと先端が僅かに突き出された。あまりに稚拙すぎる。この程度で煽られるなんて、本当にどうかしている。
記憶喪失もしくは二重人格なのかと疑いたくような反応だが、どちらも違う。この男が本気で落ち込んでいるからこその反応なのだ。次いつこんな姿が見られるか分からないため、今のうちに堪能しなくてはと思う。それこそ男の思う壺なのだろうが、乗らないわけにはいかない。
頭の螺子がとうの昔に抜け落ちてしまった、可愛い可愛い大曲の幼馴染。狂いに狂いきれず、四方八方に毒をばら撒きながら愛を乞うてくる。大曲にしか見せないその姿に唇の端を歪めた。
側から見た大曲は、嫉妬深い恋人の悪癖に悩まされているように映るのだろう。――違う。大曲は決して被害者などではない。自ら望み、自ら選んだことなのだ。
「ね、竜次。たりない」
閉じていた瞼が開かれると、その視線はまったくの別物に変わっていた。先程までの初々しさは掻き消えて霧散し、ぎらぎらと獲物を喰らおうとする捕食者の目つきになっている。
男の赤い舌が唇の唾液を舐めとった。ゆっくりと視線が絡み合う。細められた瞳の奥で渦巻く激情がぞわぞわと肌を粟立たせていく。
かぶりつくようなキスはいつものような激しさを伴って襲いかかってくる。待ち侘びていた熱烈な動きに今度は大曲が目を閉じると、近くで男が笑う気配がした。
「おれのこと、大好きだね」
「知らなかったか?」
「ううん、よく知ってる」
キスの合間に肩を押される。この程度の力ではびくともしないが、大曲はそれを黙って受け入れた。大曲の腹の上に乗った男は、恍惚とした顔で舌舐めずりをする。唇の端から漏れる吐息は、熱くて湿っていた。
この顔が好きだ。すべてを喰らおうと神経を研ぎ澄ましている時の顔。獣は手始めに大曲の喉仏に牙を立て、うっとりと微笑んだ。
▽
ある日の午後、とある喫茶店の奥まった席にて。種ヶ島は名字と向かい合って座っていた。燃えるような夏日は断熱性能の高い分厚いガラス窓に遮られ、空調の効いた室内は快適な温度を保たれている。
ふたりの間にあるテーブルにはアイスコーヒーが揃って置かれていた。男はグラスを持ち上げ、その整った薄い唇でアイスコーヒーに刺さっているストローを噛んだ。
少しも苛立ちを隠そうともしない。世間一般的には行儀の悪いことをしているはずなのにやけに様になる。不思議な男だ。
そんな男の様子を一通り観察して、種ヶ島はようやく疑問を投げかけた。
「どないしたん? 怖い顔やで」
「……竜次が彼女作らない」
「は?」
彼の言葉を脳内で反芻する。
大曲が男の他に付き合っている女性がいるのは知っている。そしてその女性をこの男が味見――大曲への理解を深めるためだけに手を出していることも知っているし、それはすべて両者の合意の上で行われているというのも知っている。
狂おしいほどの愛を注いでいる男からすれば、大曲が彼女を作らない今の状況は決して悪いことではないはずだ。なのになぜこんなにも不機嫌なのか。種ヶ島の理解は追いつかない。
「ええ事やないん?」
「それは勿論。でも急に変じゃん。考えても全然分からない。ガシマちゃんはなにか聞いてない?」
「う〜ん」
男はただ、自分の知らない大曲のことを知りたいだけなのだ。この男が動く理由はいつだって大曲をすべて知り尽くしたいというシンプルな欲求だけだ。
彼なりに考えに考え抜いても結論が出ないため、種ヶ島を呼ぶのに踏み切ったのだろう。
――ああ、なんて盲目。
恋は盲目、なんて聞き慣れすぎて響かないワンフレーズが思考をよぎる。普段はあの手この手を使って相手を翻弄しているのに、少し考えたら分かりそうなことに延々と悩まされているのがなんだかおかしかった。思わず口許が緩む。
それを目敏く見つけた男の視線の鋭さが増した。肌を突き刺すような緊張感がビリビリと伝わってくる。種ヶ島はわざとらしく肩をすくめた。怖い、怖い。
素直に言おうか言うまいか少し悩んで、最終的には彼のご機嫌をとることを選んだ。彼の関心が自分に向いているうちに有用性をアピールしておいた方が得策だろう。
彼はかつてないほどの真剣な面持ちで種ヶ島の言葉を待っていた。勿体ぶるようにゆっくりと唇をひらく。彼の視線が種子島の唇の動きを追いかけてくるのが手に取るように分かった。
「竜次は名前だけで満足してるからやろ☆」
「……は?」
男は心底理解し難いといった表情筋で種ヶ島を見てきた。まんまるに目を見開いて、口も半開きだ。これはこれで間抜けで可愛らしい。
「冗談とちゃうよ。だって、エグいやんか」
この男の二面性に、きっと大曲は振り回されているのだろう。大曲の心情は容易く想像できたし、現在の種ヶ島も同じだ。凶暴すぎる二面性に牙を向かれたくて堪らない。どうしようもなく惹かれるのだ。
種ヶ島の言葉に男は沈黙して俯いた。
空調の風がそよそよと男の黒髪を微かに揺らす。しばらくして男は勢いよく顔を上げた。
「……そっかぁ、そうなんだぁ」
あんなにも鋭かった視線は、優しくどろりと溶かすような甘いものに変わっていた。しかし表情は子供らしさが残っている。ホンマにそういうとこやでと言いかけた口を噤んで、種ヶ島は無言で肯定した。
甘ったるい視線を種ヶ島に向けながら男は勢いよくアイスコーヒーを飲み干した。浮き足立つとはまさにこういう状態を指すのだろう。
「嬉しそうやね」
「うん、嬉しい」
机の上に置かれていた種ヶ島の手の甲を、男の指がそっとなぞった。男の意図を理解して、今度は種ヶ島が目を見開く。
「もっと好きになっちゃったかも」
次は手首をゆるりと撫でられる。男は小首を傾げて、飲まないの?と尋ねた。それは疑問形の体を装った命令だ。
逆の手でグラスを持ち上げ、ストローに口をつけた。一口飲めばその冷たさが喉を通って胃に落ちる感覚がわかった。すでに火をつけられているのだ。今更気付いたところで手遅れだ。
そんな種ヶ島の様子を心底愛おしそうに目を眇めて見つめていた男は、伝票を持ち上げて席を立った。
「ゆっくりでいいよ」
嘘つき。
その目は雄弁に早く追いかけてこいと訴えている。種ヶ島は頷いて残りを飲み干すことに専念した。崩れた氷がグラスの中でからんと音を立てる。
急いで立ち上がり後を追う。会計を済まし出口の近くで待っていた男の隣に並んで、ドアを開けた。一歩外に踏み出せばじりじりとした暑さが襲いかかってくる。
「なんぼやった?」
「いいよ別に」
上機嫌な男の隣に並んで歩き出す。行き先は聞かなかった。何処へだってついていってしまうだろうから。
数分歩いてたどり着いたのは見知らぬアパートだった。惚けたような顔で表札を見る。確かに名字と書いてあった。
「え、おれの家だけど、なに?」
「上げてくれるんやなって」
男は種ヶ島の言葉にしばらく考えたあと、首を捻った。
「あー、確かに。竜次の彼女は連れ込まないわ」
「せやろな」
男はくすくすと笑って鍵をシリンダーに差し込んだ。視線で促されたので大人しく玄関へと入る。靴を脱ぐより先に、ドアに体を押し付けられた。純粋な力比べなら種ヶ島の圧勝だが、振り解こうとは思わなかった。
「竜次とおんなじようにはならないけど、ガシマちゃんのことは結構好きだからさ。手放したくないんだよね」
種ヶ島より低いところからギラギラとした視線が向けられる。ずっとずっとほしいと思っていたものが向けられている。無意識のうちに笑みが溢れた。
「おれ、竜次とは心中できないけど、ガシマちゃんとならできる気がする……ね、気に入らない?」
「敵わんなぁ」
なんてエゴイスティック。なんて横暴。最低で最悪な口説き文句。
それでもいい。それがいい。それこそ種ヶ島が欲した男だ。頭ごと引き寄せられて噛み付くような熱烈なキスが襲いかかってくる。
男は永遠に種ヶ島のものにはならないし、なって欲しいとも思っていない。大曲のためならば手段を選ばない男の歪んだ愛の、その一部分になりたい。――そのためには種ヶ島は一番喰い甲斐のある存在であると示す必要があった。
そして彼は、種ヶ島を選んでくれた。
だからこの勝負は種ヶ島の勝ちだ。
「あいこでしょ」
その言葉ひとつで、種ヶ島の思考は急速に冷めていく。一体なにを言っているのだろう。そんなはずがない。
「な、」
「おれはガシマちゃんの思惑通りになった。でも竜次は、ガシマちゃんのお陰でおれの狙った通りになった。ね、あいこじゃない?」
震えそうになる唇をゆっくりなぞって男は微笑んだ。いっそ憎たらしくなるほど美しく微笑んで、種ヶ島を見上げてくる。
「あは、可愛いね」
どろりと歪んだ瞳に自分が映っている。そう認識してしまった以上、もう駄目だった。
敵わない。受け入れる以外に選択肢がない。どうやったって男の思惑通りなのだろう。大曲も種ヶ島も、等しく男の張り巡らされた意図の上なのだ。男の描いた舞台から降りることが出来ないまま、愛に狂ったまま生涯を終えるのだろう。
名字名前という男に魅入られ、引き寄せられてしまった時点で勝負はすでに決していた。
諦念から伏せた瞼に優しいキスが落ちてくる。慈雨のようなキスに、堪らず種ヶ島は頽れた。男は屈んでキスを繰り返す。種ヶ島の思考が完全にふやけてしまうまで、それは止むことはなかった。
気付けばベットの上に連れ込まれていて、ぐずぐずになるまで解かれていた。緩やかに揺さぶられながら柔らかい声で名前を呼ばれ、薄目を開ける。
「修二」
「……っ、あ!」
「かわいーね」
渾名じゃない下の名前を呼ばれ、体ごと跳ねてしまう。すでに速かった鼓動はさらに加速して、無意識に胎に収めていたモノを締め付けてしまう。仰け反っても逃げ場はない。
「ずーっと、三人でいようね。こう見えておれ、寂しがりやなんだ」
男はとどめとばかりに褐色の喉仏に牙を立て、楽しそうに目を細めるのだった。
2023/02/11
書いてて最低すぎるやろ…と思いながらもやめられませんでした
←:back:→
≫top