悪徳の栄え
人通りのない資料室にはホチキスの音だけが響く。若干の寂寞を感じながらも、それを上回る吐き気と嫌悪にどうにかなりそうだった。
白石蔵ノ介は『完璧』であることで有名であると自覚している。
そういった先入観のせいなのか、過度な期待を寄せられたり、当然のように仕事を押し付けられたりと、大抵ろくなことが無い。今日も教師に頼まれた仕事のせいで無駄に時間を費やすことになってしまった。
断るという選択肢は初めからない。ここまで積み上げてきた完璧な自分を崩すということは全ての終焉にさえ思えてならなかったのだ。
イケメンで、頭が良くて、テニスが上手くて、二年生で部長を任せられているほど実力があって、頼もしくて、優しくて、面白い――そんな『白石蔵ノ介』の幻影を死守するために、今日もざらついた精神の摩耗と闘いながら仕事をこなしてゆく。
遅れた分は自主練習で取り返せばいい。しかしその疲労の蓄積を何処でゼロにするのか。その答えを白石は未だに知らない。これまでずっと密かに溜め続けてきた。そのうちどうにかなってしまいそうで、時々怖くなる。
からりと引き戸が開けられ、誰かが部屋の中まで入ってきた。ふと顔を上げると、そこには同じクラスの折坂が立っていた。
「白石、手伝うよ。これ並べてホチキスで留めるだけ?」
突然の申し出に面食らいながら、内心ほっとしたのも事実だった。この際、誰だってよかったのだと思う。ただ優しく手を差し伸べてくれて、この鬱屈とした空間を振り払ってくれるのならば。
なんとかいつもの自分を繕いながら頷く。
「……おん、ありがとな」
「いいよ。部活あるのに大変だね」
「ほんま勘弁して欲しいわ」
わざと明るい声で茶化してみても、彼はこちらをじっと見つめたまま何も言わなかった。しばらくして彼が作業のためにプリントに手を伸ばしてくる。白石は我に帰って中断していた作業を再開させた。
ぱちん、ぱちんと一定のリズムで響く音が心地良い。自分の音じゃない音が存在している。誰かが同じ空間にいるという事実に、心底安堵していた。
彼のことは、正直あまりよく知らない。関西訛りの喋り方ではないことくらいしか印象になかった。
「折坂クンは、この辺生まれとちゃうんよな?」
「生まれたのはアメリカだけど、親の地元は大阪だよ。中学まで向こうにいたし、親とはろくに話もしないから訛らなかった」
「……な、なんや、気まずい事聞いてしもたな」
「別に? 隠すつもりもないし」
「せやけど、この学校で辛ない?」
「うーん、こんな不思議な校風だって知ってたら別の学校にしてたかもね」
それは尤もな感想だ。
折坂が校門や授業でボケているところなど一度たりとも見た事がないし、先程話してくれた事情を教師陣が知っているのなら無理強いされないのかも知れない。折坂に限らずボケない生徒も少数ながら存在しているのも事実だ。うちの後輩にもつれない奴がいる。お笑いは好きなのに、自分でやるかどうかは別問題なのだろうか。
言ってしまえば、彼は集団にとけ込めてはいないが異様に浮いている訳でもなく、目立つ事もなく、極めて空気のように当たり障りない生徒なのだと思う。同じクラスになるまでその存在に気付かなかったように。
ふたりで取り掛かったからか、思いのほか作業は早く片付いた。これなら部活も十分出来る時間だ。
「ほんま助かったわ。初めて喋ったのに手伝わせるとか図々しいことしてすまんな。どっかで埋め合わせするわ」
「ううん。俺がしたくて手伝ったんだから気にしなくていいよ」
「せやろか?」
「また押し付けられたら俺に言ってよ。手伝うから」
「そんな悪いこと出来ひんわ」
「悪いこと…ねぇ」
折坂が小さく唇を歪めた。
袖を掴まれ距離を縮められる。下から見上げてくるその瞳は、長い睫毛の影が落ちてやけに暗い。どくどくと鼓動が早まる。
「……そんなに『完璧な白石蔵ノ介』でいることが大事?」
「な、ん」
「途中で壊れたら完璧も元も子もないのに? ねぇ白石、完璧ってそんなに単純なことじゃないよ」
男にしては華奢な指が頬をなぞった。ぞわりと広がる恐怖感に足が竦む。
今日初めて会話を交わしたような男に、全てが見透かされているようだった。どうして、こんなにも分かったように語りかけて来るのだろう。のぼせたように頬があつい。心拍数が上がり、思考を乱した。
「……なら、どうすればええんや」
はぐらかそうと口を開いた筈なのに、無意識に溢れ出たのは縋るような言葉だった。
分かっている。自分がどれだけ自分を追い詰めてきたのか。狂いそうなほどの吐き気に苛まれていたこと、もはや取り返しの付かない所まで来ていること、全て自覚している。だからといって辞めることもできないことも。――そして、今の今まで打開策は見つけられなかった。
「なあ。折坂クンなら知ってんのやろ」
「えぇ? 知る訳ないじゃん。でも提案ならあるよ」
近くにある折坂の顔をまじまじと見る。悪代官よろしく悪い顔をしているのかと思いきや、善人そのもののような穏やかな笑みを浮かべていた。
ああ。なんてひどく優しい貌をするのだろうか。
「完璧を求めても、そこに不完全さを内包しなくては完璧とは言えない。永遠に解消されない矛盾を抱えなきゃいけない。しかも、それも誰にも知られないように用心して無駄に精神を摩耗しなきゃいけないんだよ」
囁く声は演説のような響きをもった言葉だった。とても中学二年生だとは思えない荘厳な喋り。
思わず引き込まれ、ごくりと唾を飲み込む。
「だから白石の不完全さをぜんぶ俺に頂戴。そうすれば、俺を除いた全員に、君が本当に完璧な人間なんだって知らしめることが出来る筈なんだ。ねえ、素敵だと思わない?」
「……折坂、クン、は」
「俺はそうしてくれたら凄く嬉しいよ。ずっと見てたよ、頑張っているところ。ずっと助けてあげたいって思ってた。白石の完璧であろうとする意志、すごく好きだから」
「っ、折坂クン!」
――だから、俺を選んでよ。
もう堪えられなかった。きつく折坂を抱き締める。
取り繕うことをやめた仮面が落ちて、粉々に砕けた気がした。
回された手のひらが優しく背中を撫でる。大丈夫だよと耳元で囁かれる声に何度も頷いて、その度にまた抱き締める腕に力を込める。ようやく体を離して折坂を見れば、変わらぬ優しい顔をして頭を撫でてくれた。
「今までよくひとりで頑張ったね、白石。これからは心配しなくていいから。俺がいるよ」
「……ああ、折坂クン…!」
安心しきってしまったのか情けない表情がなかなか戻らなくて困った。その間も折坂は嫌な顔ひとつせずに側にいてくれた。
早速番号とアドレスを交換する。アドレス帳に新しく刻まれた名前に思わず笑みがこぼれた。
妥協も出来なければ断ることは出来ない。折坂にとっては分かりきったことなのだろう。こういうことがあったらちゃんと毎回連絡してねと念押しされて、小さく頷く。仕事が早く終えられるからではなく、折坂と二人きりで居られるという理由から図々しく呼ぼうと思う。
その図々しさや浅ましさ含めて、折坂は優しく笑って受け止めてくれる。それが悪いことであっても許してくれる。
神を信じたことなどないが、彼はまるで神様のような男だった。
/20141109
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