Neuromancer
――いいよ。
そうやって彼は両手を広げて微笑む。幼く、ときには荘厳に。欲しいものを欲しいときにくれるのだ。
まるで慈悲深い天使のように、或いは聖母のように。神様なんて存在がほんとうにあるとしたら、きっとこんな感じなのだろう。否、そうであって欲しいと願った。
泣きそうになりながら飛びつけば、優しい指先が白石の目尻を拭う。彼の動きひとつひとつが、ささくれた心を癒してくれる。
ああ、ほんの数日でかなり毒されている自覚しかない。毒されているその感覚さえも心地良かった。
今日も案の定いつもの教師に捕まり雑用を押し付けられてしまった。いっそのこと断ってしまおうかと一瞬心が揺らいだその瞬間、背後から声が掛かった。
冬の訪れと共に冷え始めた廊下に、その声は凛と響いた。間違えるはずがない、この声は折坂のものだ。
「センセ、俺も手伝いますよ」
「ん? おお、折坂か。悪いな」
「いいえ。二人でやったらそっちのが早いですし」
「ほんじゃあ白石と折坂、頼んだでぇ〜」
悪びれもなく立ち去る教師をどこか遠い目で見つめていると、折坂が隣でくすりと笑う。
「あれ? 前に絶対断れないって言ったくせに」
「断ったらどこまで破滅するんやろって」
「うーん、病んでるねぇ」
形の良いくちびるが釣り上がり、瞳は三日月型に。今日も彼は美しく微笑む。……そう、病んでいるのだ。
今更どうにもならないくらいの感情が奥底に沈殿して、もう綺麗で純粋なあの頃には戻れないほど濁っていく。どす黒い感情が思考力を鈍らせ、さらに夥しく穢していく。
強い回帰への欲求と、それを許さない現状が追い打ちをかける。二律背反の感情に引き裂かれそうになる。
どうにかなってしまいそうだった。
ゆっくりと手が伸びてきて、白石の手を取った。優しい力で手を引かれる。
「行こうか」
その言葉に促されて、白石はのろのろといつもの部屋へと向かった。
「……ねえ白石、手っ取り早いストレス解消法って何だと思う?」
昨日より更に早く仕事を終えて壁にもたれかけながら、折坂はこちらを見上げるようにして言った。突拍子も無い質問に応えるべく思考を巡らせる。
「せやなぁ…スポーツとか、それともカラオケとか?」
「世間一般ではそれで正解なんだろうけど、白石は出来てないでしょ。そういうのはダメ」
「あかんの?」
「俺と不完全さを共有するだけじゃ足りてないんでしょ。白石って意外と危うい感じするし。さっきみたいなことされたら俺としても困るしね」
細められた瞳から温度が消える。まったく返す言葉もない。
彼はあくまで完璧な白石蔵ノ介という存在を完成させたいのだ。先程の白石はそれを自ら壊そうとした。彼にとって許し難い愚を犯したのだ。
だから、釘を刺されている。
視界に入れるのも烏滸がましく感じて、後ずさりながら視線を爪先に向ける。まだ彼を失いたくなかった。
「……悪かった。二度とせぇへんから、だから…!」
「いいよ、怒ってないから」
「ほんまに?」
「うん。俺が嘘つく理由なんてないでしょ」
また暖かい微笑みを浮かべながら距離を縮められる。お決まりのように頭を撫でられ、優しく囁くその声に全てが麻痺してゆく。
折坂を完全に受け入れてしまえば、もう戻れない。なけなしの理性が引き留めるのを振り切る。
「さっきの答え分かった? 意外に思うかも知れないけど、俺はね、暴力なんだと思う」
「……は?」
「暴力。無抵抗な相手をただ殴るの」
笑顔で紡がれた物騒な言葉に、一瞬聞き間違いかと思った。暴力。ぼうりょく。脳内で反芻する。
理解が追いつかない。彼はただ微笑んだまま。
「溜まりに溜まったモノを一気に吐き出させるための手段として有用だと思わない?」
「はあ?! そんなこと出来るわけ…!」
「出来ない?」
「……当たり前、やろ」
「普通はね。でも、違うよ」
声のトーンが下がる。こういった喋りをする時は、何か警告している時だ。
出会った最初の日もそうだった。不安を堪えて折坂を見れば、両手を広げて微笑んだ。
「いいよ」
「……っ、折坂」
「罪悪なんて感じないで好きにすればいい。白石を助けたいんだ」
――ねえ白石、ちょうだい。ぜんぶほしいんだよ。俺に、くれるよね?
掠れたあまったるい声で名前を呼ばれる。
何かが切れた。
大切な何かだったと思う。もうそれは遠くて、赤くて思い出せない。無抵抗な折坂を押さえつける。
服で隠れるところ。テニスの生命線でもある左手を怪我しないように。彼が要求したのは白石への気遣いでしかなかった。
慈悲深い天使のように、或いは聖母のように。彼は微笑んでいる。
彼をを殴った。泣きながら殴った。
今迄の恨み辛み苦しみ不安恐怖畏れ怒り、負の感情が押さえつけていた蓋から外へ溢れる度に殴った。口汚く罵り喚きながら、激情が薄れるまで彼を殴った。
それが消えると、今度は子供みたいに彼を抱きしめた。手加減などせずに、力一杯に。彼が壊れることも厭わずに抱きしめた。
白石の良心が蘇るまでずっとずっと、悪夢のような夢心地は続いた。
「……折坂」
「大丈夫だよ、白石。俺がいるよ」
我に返って折坂の顔を覗き込めば、弱々しいながらも笑顔を向けてくれた。優しく頬を撫でられる。
涙の跡をなぞられて、とたんに罪悪感が襲ってくる。それでも、自分の中に溜まっていたものはすっきりと吐き出されていた。こんなに凶暴性を秘めた人間だったなんて、恐ろしい。さあっと血の気が引いていく。
「……も、もう絶対せんから」
「俺はいいけど」
「あかんわ、アホ」
何度も何度も謝って、そのたびにいいよと許される。こんなことをしていては駄目だ。しかし彼はいいと言う。
自分から罪を犯して、そして赦しを乞う。許されたら、また罪を犯す。
神様のような男と、自分の良心。どちらを信じればいいのだろうか。なにもわからない。白石はあまにりも盲目だった。
▼△▼
翌朝、いつもと変わらぬ様子で登校してきた折坂の姿を確認して、ほっとした。
痛いのかと尋ねたら「殴られた所より抱きしめる力が強くてそっちの方が痛かった」と言われてしまった。絶対嘘だ。そんなわけがない。
大丈夫、大丈夫と暗示でも掛けられるように優しい声で繰り返される。
「俺は、ぶつけてきてくれて嬉しかったよ」
その言葉ひとつでどうでもよくなってしまった。不安が全て吹き飛んでいく。
麻痺しきった脳では判断できない。彼がそう言うのならばそれでいい。そう思った。
それからは部活にもきちんと参加できるようになった。質の良い練習は白石のテニスを高めてくれる。これもすべて折坂のお陰だ。
今でも悪いことをしたとは思っているが、最近は調子もすこぶる良い。彼は改善したという結果にひどく喜んだ。本当の完璧に近付いていることだけが、彼を喜ばせられる。もっと、もっと、完璧に。
どこまでも完全に、ふたりだけが知っている完璧になるのだ。
「なんや、知らんうちに元気になっとるやん。心配して損したわ」
練習が終わった。隣で着替える忍足が白石にそう言ったとき、しまったなと思った。
気付かれていたという事実に内心舌打ちする。忍足は決して馬鹿ではないし、時折鈍い面もあるが友人の変化にはめっぽう聡い方だ。
「ああ、ただの寝不足やってん。最近はほんま調子ええで」
「は? 寝不足やて? 健康オタクの白石が?」
「折坂から面白い本借りてな、つい夜更かしして読んでしもて」
「へぇ、折坂から借りたん? たしかに最近仲ええよな、どないしたん?」
動悸が早まる。きっと二人のことはバレやしない。折坂がそう言っていたのだ、きっと大丈夫。
「まあな。最近色々あってんねんで」
「折坂か〜、あいつ東京弁やしなぁ。喋りにくそうやけどなぁ」
「周りが常に煩いねん。新しく仲ようなるならあれぐらいが丁度ええってもんやで」
「白石ィ、大阪人に喧嘩売っとんのか!」
「売ってへん、売ってへん。もうええから黙っとき」
軽くあしらって荷物を纏める。
この頃、夜折坂と電話で話すのが日課になっていた。彼と電話をするとこころが落ち着く。
彼に暴力なんて振るわなくとも、一日のうちに溜まった精神的疲労が解消されるような気がした。彼の肯定の言葉は劇的なまでに白石に効果を発揮するのだ。
まるで劇薬。新たな世界へ誘う、未知の毒薬だ。
/20141110
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