急にどさりと目の前に落ちてきた何かに、辺見十郎太は後ろへと大きく跳びすさった。
内心いきなりの事態に驚声を上げなかった自身を褒めながら、反射的に腰に帯びた佩刀へと手を伸ばす。
何が降ってきたのか。
至近距離ではあったが眇めるようにして見ると、それは人であった。
ぴくりとも動かず、意識がないのか害意は微塵も感じられない。
その姿にやや警戒心を解き一歩二歩と近付くと、辺見は投げ出されたままの体躯の傍にしゃがみ込んだ。
倒れている人間は背があるが全体的に華奢だった。
長い栗色の髪は妙な紐で軽く束ねられている。着ているのは背広に洋袴。
(洋装の、陰間……か?)
どこぞの変わった趣味のある金持ちにでも囲われている若衆かと辺見が判断したのも無理はなかった。
己以外の目撃者がいたのならその人間に押しつけて去る事もできたのだろうが、家屋の影になっている為か、突然現れた人間に気が付いたのは辺見しかいなかったらしい。
周囲を見渡しても特段注目もされておらず、いつも通りの人の流れ。
辺見はがりがりと頭をかいた。
近衛局での勤務が引けてから仲間と酒を飲み遊郭にでも行くつもりでこの付近を通りかかったのだ。
その矢先の出来事で面倒だとは思ったのだが。
「おい、大丈夫か」
仰向けに抱き起して問うと、その口元からは小さな呻き声が漏れる。
ほどほどに施された化粧と顔立ちを見て女であることに気付くと、辺見は目を見張った。
「おい」
再び声を掛けると、睫毛が震えて薄らと瞳が開きかけたのだが―――……
すぅと再び閉じていく。
意識が戻り大丈夫そうなら関わらずにそのまま別れようと思ったのだが、どうもそう上手くはいかないらしい。
辺見は小さく息を吐いた。
しかし何者かと怪しむと同時に不思議な女だった。
急に目の前に現れたという一事も、それに瞳を閉じていても辺見が知っている女たちとは随分と雰囲気が違うように思う。
「…………」
仕方がない。このまま倒れている人間を捨ててもおけないだろうと思う気持ちがひとつ。
そして興味をそそられたと言えば、それもまた正しいのだろう。
女を背負い近くに投げ出された荷物を拾うと辺見は歩を進めた。
さすがに近衛の兵舎に女は連れて行けない。
となると考えられる行き先はひとつだった。
「あ、起きた」
ぱちりと目を覚ますと、少年がこちらの顔を覗き込んでいた。
驚いて起きようとするとさつきを後ろから支え、すっと湯飲みを差し出してくる。
中高生くらいだろうか。
(慣れた手付き。よく気が付く子だなあ)
そんなことをぼんやり考えながら水を口に含む。
思うよりも喉が渇いていたようで一気に飲み干したら、ほっとしたように少年が笑った。
「道で倒れてた割には大丈夫そうやなぁ」
「倒れてた?君が助けてくれたの?」
「いいや。あんたを助けたんは辺見っちゅうお人や」
「辺見さん?」
「荷物持って、あんた背負うてここまで連れてきてくれたんやで」
そう言葉を繋げた少年を何気なく見つめて、さつきは奇妙な感覚を覚えた。
着物だ。若い子の普段着としては珍しい。……いや、変わってる?それに関西の言葉。
周囲を見渡すとここは純和室だ。
開けっ放しの障子の先には庭園、高層ビルひとつない青空が広がっている。
(……私……)
出張、東京、電話、信号……そうだ。信号を渡っている時に車に撥ねられた筈だ。しかしその割には怪我ひとつない。
『ここまで背負って連れてきた』?じゃあここは東京なのか。
分からないことばかりで首を捻ってしまった。
「えーと、私は如月さつき。あなたは……」
「幸吉言います」
「幸吉くん?私新宿で事故に遭ったと思うんだけど、……ここはどこかな」
「上野の池之端のお屋敷やけど。あの、さつきさん」
「上野のお屋敷?」
何それ、と言いかけた言葉を飲み込む。
なるほど確かにこの家は”お屋敷”だろう。しかし上野にこれほど広大なお屋敷なんて言われる所はあっただろうか。
「あの」
いや、それに事故に遭った時に連れて行くならお屋敷ではなくまず病院だろう。
新宿から上野まで背負ってきた?あり得ない。倒れていた人間を運ぶのなら普通は車だとさつきは思う。
「あの!」
「えっ?」
振り向くと幸吉が困ったように眉を下げ何かを言い出し兼ねている様子にさつきは首を傾げた。
「辺見さんから聞いたんやけど、」
「おー!気が付いたか」
「辺見さん!」
その時、突然部屋に飛び込んで来た大声にさつきの肩が大きく揺れた。
会釈する幸吉に辺見と呼ばれた男は軽く声を掛け、鷹揚に笑いながらさつきの傍に腰を下ろす。
こちらが口を開く前にずいっと顔を覗き込まれ、さつきは思わず大きくのけぞってしまった。
「ほら〜さつきさんびっくりしてはるやないですか」
「さつき?」
「もしかして辺見さん?ですか?私、如月さつきと言います。助けて頂いたようでありがとうございました」
布団の上ではあったがきちんと頭を下げたさつきを見て辺見は一言。
「ふーん……意外と普通じゃな」
そうのたまったのだった。
(普通?な、何が普通?ていうか何、この人)
その物言いにさつきは少なからずムッとしたのだが、
(でも助けてくれた人なんだよね……)
そう思い直す。
不満をそのまま顔には出さないのは社会人としてのマナーだろう。
ましてや助けられたのなら尚更だ。
「私新宿で大型車に撥ねられた筈なんですが、そこから後の記憶がなくて。怪我もしてないし……あの、辺見さん何かご存じないですか」
それに今は自分が置かれた状況を知りたい。
しかし。
「おおがたしゃ」
そう子供のようにリピートして首を傾げた辺見にさつきは笑いそうになったのだが。
「ああ、車か。周りには馬車も人力車もおらんかったし……そいにおはん、急に何もない所から降ってきたんじゃが」
奇妙な食い違い、奇妙な話に黙らざるを得なかった。
思わず目の前に座る男を凝視する。
「信じられんかもしれんが本当じゃ。何もない所から急に降ってきた。家の影になっちょって誰も気がついちょらんかったが。声ば掛けても意識もなか、そげな格好で男かち思うたら女じゃし」
どうも放っておけなくて、と。
「え、えーと……」
空から降ってきたって何。急に現れたってどういうことだろう。人を揶揄うにも程がある。
「何の冗談か」と言おうとして失敗した。
対面で座っている辺見には人を揶揄っているような、そんな雰囲気は全くない。
「………」
事故に遭った筈なのにかすり傷ひとつない自分。辺見の言葉、東京上野だというこの家の周囲の様子。
理解できない事だらけで酷く混乱する。
何となく感じたのは、
「――で、おはんどっから来た」
「どこって……どこって、東京だよ……」
何となく感じたのは、ここは自分が知っている東京ではなさそうという事だった。
(嘘は言うちょらんようじゃな)
小さな声で答えるなり俯いてしまった女を見て、辺見はそう感じた。
何せ目の前で人間が現れるのを見たのは辺見自身だ。
その一点は疑いようがない。
彼女が訳の分からない事を言っていてもおかしいと切り捨てる気には到底ならなかったし、どうやら今の状況に一番戸惑っているのは彼女である事も容易に見て取れる。
彼女にとって”東京”が知っている街であるらしいからこそ、余計に混乱しているというのも何となく分かった。
「……おはんが来たっちゅう東京とここは違う”東京”かもしれんな」
辺見の言葉に驚いて、同じ事を考えていたさつきは思わず顔を上げた。
「違う東京?」
よく分からないという風に隣で話を聞いていた幸吉が呟いている。
「まぁ、そいはヨカ。一応聞くが……行く宛てはあっとか」
「(ヨカってこの人、そんな簡単に)ホテルは取ってたけど……あ。幸吉くん、私の鞄は」
ほてる?と更に首を傾げた辺見を余所に、部屋の隅に置かれていた自分の鞄を受け取ると、さつきはスケジュール帳に挟んでいた紙を差し出した。
ネットで予約したホテルの情報だ。
住所は東京だが、記されている細かな内容については辺見も幸吉も首を捻るばかりだった。
当然というか何というか、全体の意味が分からないらしく紙を見ながら黙り込んでしまったのだが、一ヶ所、
「……これは元号か?」
「そうだけど」
「ここは、今は明治六年じゃ」
「めっ……」
「やはり違う東京っちゅう事か」
(明治!!)
眩暈がした。
明治六年。
明治六年。
確かに違う”東京”だ。……あり得ない。
だが明治六年なのだと目の前の男は言った。
明治、と自分の中で反復してぞっとした。
行く宛も何も。ある訳がないではないか。 自分が生きていたのはこれより百数十年後だ。
「ど、どうしよう、これから」
前のめりに倒れそうになり、咄嗟に両手をつくとぽつりとそんな独り言が漏れた。
「そげに心配せんでよか」
ぽんと頭に手を乗せられ顔を上げると、へらりと辺見は事もなげに破顔した。
なぜ子供扱いと思わないでもないが、その様子に何となくほっとしたのも事実だ。
来れたんだから帰れるだろう。何とかなる何とか。とりあえずここに住んどけ。な?
実はもう話はついてる。
そんな意味の事を辺見は笑いながら言った。
辺見の話ではこのお屋敷で間借りできるような感じであったが、かといって辺見がここに住んでいるような感じではない。
初対面の人間をイレギュラーな存在であると認め、かつ立場を理解してくれる人がいるのは非常にありがたい。
できれば近くにいればもっとありがたい。ぶっちゃけ知らない人の所に預けられるのは怖い。
そういった事をオブラートに包んでさつきが伝えると、
「そいは問題なか」
「そうですね。先生がええと言ってはるなら大丈夫でしょう」
(そんな簡単に!)
そんな話をしている時だった。お屋敷の主、”先生”が部屋に入ってきたのは。
「は。桐野利秋……さん、ですか……」
(知ってる知ってる知ってるよこの人!)
部屋に入ってきた人物を紹介されて、さつきは心底驚いてしまった。
挨拶を交わした後、(何を話せばいいのか)とさつきがまごついていると、辺見が間に入り桐野と話を始めた。
辺見は「話はもうついている」と言っていたが、恐らく今までのやり取りを話しているのだろう。
当事者であるさつきは完全においてけぼりで、内心 (おーい……) と思わない事もなかったが、薩摩人同士のネイティブな会話はさつきにはさっぱり分からなかった。
そう思うと先程の辺見は随分ゆっくりと、”他国人”にも分かるように標準的な言葉を話そうとしてくれていたのだと思う。
大雑把に見えて随分と優しい所もあるのだと思った。
……のだが、さつきは今、それどころではなかった。
さつきとしては辺見の言葉から今が明治六年である事、辺見は近衛の軍人である事、彼が薩摩人である事を知り、
「明治六年で薩摩といえば征韓論?大量に鹿児島に帰ったんだっけ」
くらいでしか思っていなかったのだ。
その頃の話は随分昔に小説か何かで読んだ事があるが、悲しいかなその程度の認識しかないしその上大筋しか覚えていない。
しかし明治六年というと学校で習う「歴史」の時代だ。
そりゃあ大久保利通とか西郷隆盛とか木戸孝允とか、そういった人が生きてる時代なんだなとは思いはしたが、当然のように自分とは無縁な話だと思っていた。
有体に言えば教科書に載るような人物を目の前で見る機会があるとは夢にも思っていなかったのである。
これで興奮するなという方が難しい。
(れ、歴史だ。歴史上の人物だ……しゃべってるよ……ていうか、か、……)
桐野の顔に視点を合せながら、全く反応を見せないさつきに、
「……ん?大丈夫か?」
落ち着いた雰囲気で話しかけてきた桐野に、顔が一気に上気した。
(―――カッコいい……っ……!)
「さつき……」
「はっ、はいィッ?」
いきなり呼び捨てかよとか思う前に、辺見の声に思わず返事が裏返る。
だがそんな光景は見慣れているのか、
(うぁ……は、恥ずかしい女だな私……)
耳まで赤くして気まずく視線を外したさつきを見て、桐野も辺見も、幸吉さえもが苦笑していた。
とりあえず、とその後桐野からされた話。
それは事情は全て承知したという事、部屋ならいくらでも空いているから気兼ねなく好きなだけ滞在すればいいという事。
まずはそんな辺りだった。
ありがたい。非常にありがたいのだが。
身元すら分からない自分に対して、そんなに無防備でいいのだろうかこの人たちは?
自分の立場を忘れて、さつきはそう思わざるを得なかった。
「汝にそげん大それた
(た、確かにね……)
その桐野の言葉にはさつきも苦笑せざるを得ない。
大それた事どころか、電気もガスもないこの時代で最低限の生活ができるかどうかも怪しいのだから。
「……じゃあ、暫くの間御厄介になります……」
「おお」
事故がどうなったのかが気になるところではあるが、辺見の言う通り来れたのだから帰る方法だってきっとあるだろう。
それに順応性が異様に高いポジティブ人間に囲まれていると、ネガティブな方向に物事を考えるのが馬鹿らしくなってくる。
(まあ、これなら居心地は良さそうかな)
そんな事を思いながら改めて頭を下げたさつきに、
「そういうこっちゃから、遠慮せんと何でも言うて下さいね」
という幸吉のありがたい言葉が掛けられた。
(090619)