「おはよう……ございます」
「おはよう」
「おお」
朝食の用意ができていますからどうぞと言われて案内された部屋に入ってさつきは固まった。
広い部屋だ。
(うわーここも広いわ。この部屋からも庭が見えるしさ……じゃなくって)
昨夜辺見はさつきが知らない人の所にいるのは怖いと言っていたのを覚えていたのか、はたまた近衛宿舎まで帰るのが面倒であったのか池之端の桐野邸に泊っていた。
そうであったから用意されているのは桐野と辺見とさつきの三人分だ。
上座に座るのはもちろん桐野であり、対面するように辺見とさつきが座るようになっていたが、
「……」
「どうした?」
「い〜え〜何でもー……」
桐野の問いかけに笑い返したが、こんな中での食事は激しく落ち着かない。
広過ぎる中で三人の食事。給仕する為にか数人が控えていた。
そして目の前に置かれているのは膳だ。
もちろん正座だが足を崩せるような雰囲気ではないし、さつきはふたりの前で足を崩せる程まだ打ち解けてもいない。
それに桐野と辺見が偶に一言二言言葉を交す程度で、響くのは基本的に聞こえるか聞こえないかの食器音くらいだ。
三人以上いるのにひとりで食事をしているような静かさだった。
いや、ひとりであっても現代ではテレビがある分静けさからは免れる。
(みんなでテーブル囲んで楽しく食事とか、そういうのではないんだな)
家族で向かい合わせに二列に並んでという、時代劇で見るそういうシチュエーションがこの時代では普通なのだろう。
「どうぞ」
緊張しながら箸を動かしていると、女中と思しき少女が茶碗を渡してきた。
「あ、アリガト……」
慣れない雰囲気の上に、ご飯をよそってくれたりだとか、欲しいと思うタイミングでお茶が注がれたりだとか、どうもそわそわしてしまう。なんだか居心地が悪い。
食の進まないさつきをそれとなく見ていたのか、辺見が声を掛けてきてくれた。
「具合でん悪いか?」
「大丈夫だけど……うーん、ちょっと驚いたというか……私のいた所でこんな事してくれるの、普通お母さんだけだよ」
さつきは働く為に実家を出てひとり暮らしをしていたから、家事は自分で済ませてきた。
そして実家に帰ってもその位は自分でしなさいとぴしゃりと言われるのがオチだ。
給仕をしてくれる人を雇うなんて、一般家庭では余り聞く話ではない。
普通に生活していてそんな対応をされるのは旅先の旅館くらいではないだろうか。
「女がひとりで町に出て、働いて暮らすのか」
「そんなにびっくりされても……普通だよ。女でも学校出たら一度は社会に出ないと。女性でも政府高官になってる人だって企業動かしてる人だって、自衛官になる人だっているしねえ」
「じえいかん?」と首を捻るふたりに、「ここでいったら軍人さんに相当しますね」と言うと、桐野も辺見もさすがにそれには驚いたようだった。
「昨日の話ではここと汝の住んじょった所は……似た世界かち思うちょったが、随分違うんじゃな」
カルチャーショックだ。
お互いに。
朝は忙しい。
桐野は陸軍裁判所の長を務めているからそちらに出勤するし、辺見は辺見で早めに出ると言って桐野よりも随分先に邸を後にしていた。
「桐野さんと一緒に行かないの?」
そう尋ねると、辺見は方向が違うとか何とか、何やら歯切れの悪い返事を残して屋敷を後にしたのだが。
「どうしたんだろ」
見送ったさつきの後ろで桐野がくつくつと笑っているものだから、「私何か悪い事聞きました?」、そう尋ねると、
「誰にでん聞かれたくなか事のひとつやふたつ位、」
「あー……ありますよねー」
理由を教えてはくれないらしい。
「そいでな、さつき」
その声に、はいと振り向く。
見た感じ百八十はありそうな辺見と比べると、桐野は少しだけ背が低かった。
現代人と比べると決して大きくはない方だが、しかし不思議とそうは感じない。
筋肉ががっちりと付いていて、同じ背丈でも現代人とは体つきが随分違うように思う。存在感がある。
(人斬り半次郎だっけ)
この人は幕末にはそう呼ばれていたと物の本で読んだ事があったけれど、実物は至って涼やかな雰囲気でそんな血生臭さは微塵も感じられなかった。
(……絶頂期のアスリートみたい)
これはカッコいい。
カッコいいというよりも、男振りがいいと言った方が良い気がする。
この人はモテるだろうな。
そんな事をぼんやりと思っていたら。
「おい」
「いてっ」
突然ぴしっと額を爪で弾かれてしまった。
「話ば聞かんか」
「す、すいません」
赤くなりそうな場所を押さえながら謝ると桐野は破顔した。
「幸吉ば残していくで分からん
馬に乗って出かけた桐野を見送るとさつきは幸吉を伴って庭に出た。
「先生からも言われとりますし、ほんまに遠慮せんで下さいね」
「ありがと」
そう言って笑うとにっこりと笑い返される。
(かわいいなあ……ホントに)
気が利く子だ。やたら大人びているくせに顔を見るとまだ幼さが残っていて、受ける印象はやはり中高生だ。
思いきって幾つ?と尋ねて、返ってきた答えに驚いてしまった。
「へえ、十六どす」
「十六!若っ!」
若いというか子供だ。高一だ。
「幸吉くんは薩摩の人じゃないよね……桐野さんとはどこで知り合ったの?」
「私孤児ですねん。どんどん焼けで京が焼けた時に先生に拾うてもろて。それからずっと」
そんな事をニコニコしながら幸吉は言った。
「あ……」
「皆知っとる事ですから」
謝ろうとすると止められてしまった。
「孤児なんてそんな珍しい話やないし……ひとりで放り出されたから先生に会えたんやし。それにね、先生もそやけど先生の周りの人もみんな優しくしてくれる。ちょっと乱暴やけど。だからさつきさんも……これからどうしようとか、あんま心配せんでええと思うよ。……うわ、わ」
「……」
思わず手を伸ばすと、さつきはくしゃくしゃと幸吉の髪を撫ぜた。
「……君もいい子だねえ」
ほっぺたを赤くしてぽかーんとこっちを見ている幸吉の様子が何とも間抜けで、さつきは声を上げて笑った。
「行こう」
軽く幸吉の腕を取って歩く。
「でもほんっとに広い屋敷だわー……」
寝起きに使っている屋敷も大概だったが、いざ太陽の下で見ると更にそう思う。
元は越後高田藩榊原家の中屋敷で、それが桐野に与えられたのだという。
敷地内には蔵があって、長屋らしき建物が立っていて、こじんまりとした池を持つ庭が広がっている。
「ここって桐野さんと幸吉くんのふたりで住んでるの?」
幸吉曰く桐野と幸吉、生活を回す為の賄い方等数名、書生も偶に出入りする。
基本的に住んでいる人数は屋敷の規模を考えると多くはない。
(凄い住宅事情)
自分が住んでいた1LDKを思い浮かべて苦笑いした。エラい違いだ。
政府でも高官に属する人は旧大名の藩邸等を譲り受けて暮らしている者も多いのだという。
「やっぱ桐野さんて偉い人なんだ」
「何言うとりますのん。陸軍で少将言うたら上には西郷先生の他数人位しかおらんのですよ」
今朝、出勤時に辺見と桐野の軍服姿を見たけれど、煌びやかさがまるで違っていて桐野の身分が高いのだろうというのは一目瞭然だったのだが。それに辺見にしても陸軍の大尉殿になる。
「言葉使いとか、」
「え?」
「ううん。何でもない」
……改めた方がいいのだろうか。今更でも。
屋敷で働いている人達が桐野を「御前」と呼び、辺見には「様」を付けて呼ぶ様子を見てそう思ってしまった。
先生、さん付けで呼ぶ幸吉はいいだろう。それまでの積み重ねがあるのだから。
だが自分は違う。
気兼ねも不要、好きにすればいいと言われても、実際には戸惑う事ばかりだ。
言葉使いだけの話ではない。
同じ”日本”とはいえ、ここは身分の差が厳然としてある世界であるし、生活は現代とは違い過ぎる。
着ている物にしてもそうだ。
さつきは仕事ついでに遊んで行くつもりでいたから着替えを数枚持参していたが、言うまでもなく全て洋服だ。
今は薄青のジーンズにキャミソール、その上にシャツを羽織るというラフな格好だった。
誰も口には出さないが、例え一瞬間でも上から下までまじまじと見られる視線は気になる。
口に出されないから余計に。
私はこの時代では異分子なんだなとかオーパーツかよとは苦笑気味に思うものの、要するに、
(浮いてるんだよね、私)
周囲と話す事がないとか雰囲気が違うとか、そういった事ではないもっと基本的な所でだ。
幸吉と話し歩きながらいつの間にか辿りついた池に掛かっている石橋から、水面を覗き込むようにしてさつきはしゃがんだ。
浮いている。
見た目も、中身も。
何となく見ていたくなくて、足元に転がっていた小石を水面の自分に向かって投げた。
ぱしゃん。
そんな音と一緒に波紋が広がりゆらりゆらりと池水を乱したが、しかしそれもすぐに元の形に戻ってしまった。
「……」
自分の顔を見て思わず溜息が零れ落ちた。
「ね、外出てみましょうか」
「……そうだね」
それと分かる程の明るい声でぐいっと腕を引かれて立ち上がると、さつきは短く返事をした。
気が利く……というより、気を”利かさせて”いる。この場合は幸吉に気を遣わせている、というのが正確だろう。
十ほども年の離れた子にと思うと情けない。
やはり溜息が落ちた。
discomfort:とまどい。時代間のギャップ。
どんどん焼けは禁門の変で起きた大火災。桐野邸は現在上野にある旧岩崎邸になっています。090713090712