「へっんっみっさん!お帰り!」
「お、おう」
ニコニコしながらお帰りを告げたさつきに辺見は生返事をした。
屋敷の中で出迎えられる事が殆どなのに今日に限って屋外、厩舎前。そしてこのテンション。
どうした。
軽く首を傾ければ、
「馬で帰って来たのが見えたから」
よく分からない答えが返ってきた。
さつきは何を話すでもなく、馬の世話をする辺見の様子を遠巻きにただ眺めていた。
女が興味を持つような事にも思えないから、何か話があってここまでわざわざ出て来たのだろうと尋ねてみれば、単に馬が珍しかったらしい。
「こんな近くで本物の馬見るの初めて」
さつきの軽い興奮状態に納得した。
「ね、触ってもいい?」
「おー」と軽く答えれば辺見の側にさつきが歩み寄る。
「……噛まない?」
彼女は本当に馬の事をよく知らないらしい。それもそうか。間近で見た事がないのなら、当然触った事もない筈だ。
「手をゆっくり馬の鼻の前に出してみろ」
辺見は緩く口角を上げながら、警戒を解く為ににおいを嗅がせてやれと告げた。
差し出された手をスンスンと嗅ぐ馬の耳はピンと立ったまま、嫌がる素振りも見せなかったので、これなら問題ないだろう。
「よかぞ」
そう言ってやれば、さつきは指先で馬の顔にそっと触れる。
その仕草が随分と恐々で辺見は思わず笑ってしまった。
「汝の所にも馬位おるじゃろ」
「いるけど普段生活している中で見る事は殆どないよ。でもこっちでは生活の一部なんだね」
たてがみを梳くように撫でながら、さつきは目を細めた。
辺見が作業する傍らで、「目がきれい」だの「賢そう」だの「毛艶がいい」だの、子供のような感想を馬に投げかけている。
「おい、後ろに回るなよ。蹴られるぞ」
言った途端に馬が軽く嘶きながら、ゴッと地面を蹴る。
その見計らったような馬の動きに、ひぃっと変な声を上げて後ずさったさつきに辺見は笑声を上げた。
「後ろには立つな。あと耳が後ろに倒れちょる時は気が立っちょる。気を付けろ」
「は、はぁい……」
「……乗ってみるか?」
「左手で綱とたてがみ、右手で鞍を掴め。左足を鐙にかけてそのまま体を引き上げろ。……ああ、目一杯体重を掛けても平気じゃで、ぐっといけ」
(ぐ、ぐっといけって言われても……!)
辺見は簡単に言うけれど、さつきにはどの位までならたてがみを引っ張ってもいいのかという力加減も分からないし、ここ数年のデスクワークからくる運動不足が祟ってか、中々馬に乗る事ができなかった。
それを見ていた辺見は、乗馬さえままならない様子にいい加減焦れたのだろう、何度目かのトライでぐっとさつきの尻を持ち上げたのだった。
「ぎゃあっ」
さつきは色気の欠片もない声を上げたが、
「な、何すんの!?」
「情けない奴じゃな〜おら、しっかり座れ、右足も鐙にかけろ」
「……ハイ」
当の辺見には気にもされていなかった。
指示される通りに手綱を引き反動を抜いて、馬の動きに体が何となくついてきたかなと思えるようになった頃、「歩くか」と辺見は索を短く持ちゆっくりと屋敷周りを誘導し始めた。
かぽっかぽっという蹄の音に合わせて高い位置でゆらゆらと揺られながら、どうでもいい雑談を途切れ途切れに交わす。
「気持ちいいね〜見晴らしサイコー」
さつきが思わず漏らした感想に辺見が軽く笑った。
やがて辿り着いた炊事場、その入り口近くで馬を止めた辺見に馬に餌でもやるのかと思いきや、彼はジャケットを脱ぎながら「志麻」と時間的に炊事場にいるだろう少女を呼んだ。
顔を出した志麻に上衣と取り外した調馬索を渡す。
「出掛けてくる」
「え」
「今からですか?」
「飯までには帰ってくる」
「は、はい……」
頭上に疑問符を浮かべながら、辺見、馬、さつきと視線を彷徨わせた志麻とぱちりと目があったが、さつきもまた首を傾げた。出掛けるって何処へ。
尋ねようとした矢先、辺見がさつきが座る鞍の前と後ろに手をつく。
辺見の体が少し持ち上がり、その途端にさつきの体が左に傾いだかと思いきや、ドン!と背後に振動が伝わった。
振り向けば辺見が背後に座っていて。
「「え……ええええええっ!」」
「えー!何が起ったの!?すごいです辺見さん!今の!」
「ちょ、辺見さん!すごっ……!すっごーい!今の見た!?志麻ちゃん!」
「見ました!!」
「私も離れた所から見たかった……!」
「そげん珍しかモンでもなかろうが……」
「何言ってんですか!腕力だけで体持ち上げて足振り上げて乗馬!?リアル鞍馬!?そんな事できる人いるの!?」
「目の前におっとじゃろ」
「……そ、そーよね……辺見さん……チョーカッコいいんだけど……」
「はいはいあいがとあいがと。おら行くぞ」
「あ、志麻ちゃん行ってきまーす」
騒ぐだけ騒いで出掛けて行ったふたりを若干ぽかんとしながら見送って、志麻は台所へと戻って行った。
(でも、さっきのは本当に凄かったな……)
さっきのは本当に凄かった。
志麻と同じ感想を心中で反芻しながら、さつきは辺見と馬に同乗している状態を不思議な状況だなあと呑気に思った。
さつきの格好はジーンズにシャツ、辺見も制服のズボンにシャツで、周囲は格好から判断して成人男子がふたり乗りしているように見えるのだろう。さっきからすれ違う人すれ違う人が好奇の視線を送ってくる。
「大人のふたり乗りって珍しいの」
「あまりせんな」
「私が前にいたら手綱取りにくくない?大丈夫?」
「大丈夫じゃっでごそごそせんと前向け。しっかり掴まっちょれよ」
のんびりしていたら日が暮れる。そう言って辺見は少しスピードを上げた。
行き先は新宿だった。
現代でさつきが事故に遭った場所で、明治で辺見が拾ってくれた場所だ。
思う所は沢山あるし、さつきも今まで何度か足を運んでいた。
ただ、桐野邸がある上野池之端から新宿は距離があり、聞けば徒歩だと片道一時間半はかかるらしい。
道を知らない上に歩き慣れていないさつきだと、きっとそれ以上だ。
別に屋敷にばかり閉じ籠っている訳ではなかったけれど、さつきにとって新宿への道行きは結構な距離で結構な時間だった。
ひとりで出掛けても子供じゃないのだからそうそう滅多な事にはならないだろうが、何か起った時に自分だけで対処できるかと言われたら、できると胸を張って言える程の自信は今のさつきにはない。
それに何よりスマホが使えない。緊急時に即座に屋敷に連絡が取れる手段がない。
それが一番怖かった。
だから志麻が本当に手隙そうな日を見計らって「悪いけど一緒に来てくれない?」と頼んでいたのだ。
桐野は志麻から行き先を聞いて、さつきが遠出したがる理由を察したのだろう。
彼はさつきに、
「ゆっくり羽根伸ばしてこい」
としか言わなかったけれど、そこにはきっと「確認したい事があるならしてこい」という意味もあったのだと思う。
前もって志麻を誘った時、彼女はいつも桐野から多めのお小遣いを貰っていて昼を挟んでの外出になり、またさつきがどれだけ遠慮しても使用するのは決まって人力車だった。
とにかく、そういう事もあってさつきにとって新宿は「ちょっとそこまで」感覚で行ける所でもなかったのである。
「辺見さん、ありがとう」
「どうした」
辺見がさつきを拾った場所に向かっているのだろう。
「新宿行くの久しぶり」
雪緒に絡む一連の騒動で、遠出したいなんて我儘を言い出せるような感じでも、状況でもなかったのだ。
連れ出してくれたのが辺見の気まぐれでも素直にありがたいと思った。
「何もないね。変わった事とかもなさそう……」
到着した現場に暫く佇んだ後、さつきが呟いた。
(何回か来ただけでそんなに簡単に戻る方法が見つかるなら、とっくに帰れていただろうけど)
さつき自身がそう思っていただけに期待するよりも「やっぱり」と思う気持ちの方が大きかった。
「俺も時々様子ば見に来ちょった」
しかし辺見はさつきの言葉をどう受け止めたのか、そんな事を言い出したのだった。
え、とさつきが声を上げる。初耳だ。
辺見は時々ここまで足を運んで、周囲の店舗の人に近所で変わった事がなかったか等の話を聞いてくれていたらしい。
「じゃっどん今のところ何も分からん」
それは似つかわしくない程密やかな声で。
さつきは思わず隣に並ぶ男を見上げた。
夕日に照らされた横顔、光の加減で分かりにくかったけれどその眉は軽く寄せられていて、さつきは胸が締め付けられるような思いがした。
辺見のせいじゃないのだ。
さつきがここにいるのも、帰る方法が分からないのも。
それどころか辺見はさつきを助けた上に、与え過ぎる程色んなものを与えてくれている。感謝してもし足りないくらいの事をしてくれている。
後は自分で何とかしろと放っておかれても構わないのだ。と言うよりそれが当然だろう。
「……あの、辺見さん…………」
何だといった風にこちらを見下ろした辺見に、
「ありがとう……」
それだけを告げた。
ここまでしてくれる辺見に何と言っていいのか、どんな言葉なら気持ちがあまさず伝わるのか。
さつきには分からなかった。
「初めて会った日に言ってくれたよね。来れたんだから帰れる、なんとかなるって」
「ああ」
「あの言葉、信じてる。大丈夫、私きっと帰れるよ」
だから、どうか気に病まないで欲しい。
それは音にはしなかったけれど、きっと伝わったのだろう。
辺見は返事を寄こさず、笑いながらトンと背中を軽く叩いてきた。
「……帰るか」
「新宿に来ちょる事、もう少し早く言うつもりじゃった」
帰路を辿りながら、辺見が口を開く。
「そうなの?」
「雪緒がおった時、汝が寝込んじょった時じゃ」
寝込んでた……
(あ)
カステラを持って来てくれた日の事だ。そう言えばあの時、辺見は立ち去り際に何かを言い澱んでいた。
助け船を出されても相談もしない頑なさに言いたい事があるのだろうと思っていたけれど、それだけではなかったらしい。
「あん状況の時に新宿に行っちょる事や帰り方の事を言うたら汝、またおかしな事考えたじゃろう」
例えば重ね重ねた遠慮がおかしな方向に向いて、屋敷から出て行こうとしたりだとか。
(確かにそうだったかも……)
早い段階で完全に身を引けば――屋敷を出て行けば良かったのじゃないかと思ったのはそのすぐ後だった。
辺見の言う通りあの時に帰り方云々を口に出されていたら、それがどんな内容でもあれこれ悩んだ挙句出て行くという結論になっていた可能性はある。
さつきは自分が意外と鋭く観察されている事に関心してしまった。
「俺が言うのも何じゃが、あの屋敷には居りたいだけ居ったらよか。つまらん遠慮もいらん」
「……昨日きぃさんにも同じ事言われた」
そうなのだ。
さつきは昨日――雪緒らが屋敷から引き上げた次の日――桐野の居室に呼ばれた。
その上で改めて今回の事についての謝罪と、書生たちへの言葉に対する礼を述べられたのだった。
前のように何か望むものは、とは聞かれなかったので若干ホッとしたのだが、
「ここを家だと思えって。いつまででも気兼ねなくいたらいいって」
誰に何を言われてもお前をここに逗留させているのは俺だと桐野はそう言ってくれた。
さつきの居場所はここだと改めて言い切ってくれた事。
それにどれだけ安心して、それがどれだけ嬉しかった事か。
「そうか」
辺見は短く相槌を打つと暫く黙っていたが、
「さつき、もし……もし、な、帰る方法が分からんままでも心配するな」
突然そんな事を言い出して、これにはさつきも振り返らざるを得なかった。
心配するなってそんな事言われても。
何か言いたげに唇が開いたのを遮るようにして辺見が続ける。
「汝の引受先は今のところ三つある。桐野さぁ、別府、俺の所……」
「…………」
「……何じゃ。不足か?」
口を半開きにしてぽかんと見上げるしかないさつきに、辺見は変なカオじゃなと吹き出したけれど、はっきり言ってさつきはそれどころではなかった。
引受先って。
「……えー……辺見さん?その、……どういう意味か聞いてもイイデスカ……」
「野暮」
それきり辺見が黙ったので、さつきも同様に口を噤んでしまう。
軽口で返していいような話の流れでもない気がして、どういう受け答えをしていいのかが分からなかった。
引受先って。野暮って。
(……じょ、女子としては結構重大な事を言われているような気がするんだけど……)
「おい、あまり考え過ぎるな。汝が深く考えてもロクな事にならん」
「酷い言い草……」
てか考えるなって。無理だ。
「じゃっどんひとりで考えた挙句、汝が貧乏籤ばかい引いちょるんは確かじゃ。どうせ前の男と別れた時も大した文句も言わんかったんじゃろ。考えてみれば自分も悪かったとか思うて」
「…………」
「当たりか。損な性分じゃな」
そう言われてムッとしたのが分かったのだろう、辺見はくすくすと笑った。
「さっきのは言葉の通りに受け取れ。ここで汝が心配する事は何もナカ。安心して過ごせ」
「……本当にそれでいいのかな。私、今でも甘え過ぎる位甘えてるよ?これ以上、迷」
「惑じゃなか。俺たちの事も、あの屋敷の内情も、汝はよう知っちょるじゃろうが」
経済的に見ても困る事はない。さつきが居ても何の問題もない。
「俺が言うた事、もう忘れたか」
「え?」
「男としてはもっと頼られたいんじゃが」
桐野も別府もそれは同じだろう。
それに問題のあるなしじゃないのだ。
「結局は全員が、あの屋敷に汝が居ってくれたらよかち思うちょる」
”いたらいい”じゃない。
”いてくれたら嬉しい”、”いて欲しい”。
「そ、……そうなの?」
「ああ」
「……そうなんだ……」
知らんかったか、と笑う辺見の声がやけに楽しそうに聞こえた。
double riding:ふたり乗り
辺見の乗馬方法は「飛び乗り」です。裸馬に乗る時にあんな感じで乗る。 2019011220131025