「銀座の西洋床にでん行っか?」
「何ですかそれ」
「髪を
(美容院の事かな……?)
流石に放っておけないだろうと桐野は提案したが、さつきは「長さを揃えられたらそれでいいので」と婉曲に断ってきた。
桐野としてはきちんとしてやりたいのだが、こちらが無理を強いればこの女はまた変な所で気を使うのが目に見えている。
内心仕方のない奴だと苦笑しながら志麻を見やれば、彼女は察し良く分かりましたと首を縦に振った。
志麻に任せておけば後はふたりでいいようにするだろう。
「さつき、ここはもうよか。少し休め」
しなければならない話が粗方終わった所でそう声をかければ、さつきは僅かに首を傾げた。
彼女の顔には疲労の色が濃く出ているのだが、本人は気付いていないのか。
「疲れたじゃろう」
「まあ……ハイ」
およそ当事者とは思えないような気の抜けた返事に辺見が笑う。
「あ、きぃさん、あの」
「何じゃ」
「肝付くんは悪くないです。あの子は何もしてない。怒らないであげて下さい」
これは言っておかなければという感じでさつきは付け加えたが、夜中に部屋の前に来られたのを忘れたのか。
しかもフォローするにしても時既に遅しであったが桐野は適当に頷いておいた。
「志麻、茶でん淹れて少し休ませてやれ」
彼の言葉に従い志麻がさつきの手を取るようにして退室すれば、ほな私もお茶入れてきますと幸吉もその後を追った。
「…………」
「…………」
「…………」
は、と誰からともなく溜息を吐いた。苦笑いで視線を交わし合えば、
「辺見、晋介も巻き込んで悪かったな」
桐野からの謝罪が落ちる。
「いつものと似たようなもんかと思いもしたが……今回は
別府の言葉には若干の嫌味が籠っていたが、その通りなので桐野としても苦笑しか返せなかった。
しかしさつきの事に関しては、先程のあれ――書生への説教だけで済ませていいものか。
確かに『して欲しい事』としてさつきは『話をするのを許して欲しい』と言ったけれど、あれは本来なら桐野が彼らにすべき内容だ。
今回の件の贖いとしては不足……不足どころか贖いにさえならない。
寧ろ礼を言わなければならないような内容だった。
書生らにとっては郷党の先輩の頭ごなしの叱責より、さつき――普段から当たりの柔らかい人間、しかも女――から言われた方が格段にキツかったに違いない。
しかも内容は反論のしようがない程の正論で、感情的に反抗しようにも反抗しようのない話し方だった。
いや、話し方というより姉のような諭し方で、十代後半の書生らからすれば納得するしかなかっただろう。
「ほんのこてあれで奮起せんかったら男ではありもはんな」
「確かに」
クスクスと笑う別府に辺見が同調する。
「じゃっどん驚きもした。『人は見かけによらん』、そん通りじゃな」
元の世界で働いているとは聞いていた。
だがそれが”それなりに責任のある仕事”とは思っていなかったし、まさか外国語を話せるとも海外渡航の経験があるとも思わなかった。その上運動もある程度していたような口ぶりで。
正に『そんな風には見えなかった』で、驚いたのは書生たちだけではない。
いや、書生たちより深く接しているだけに、そういった面を全く知らなかった桐野たちの方が驚きは大きかったかもしれない。
控え目だが芯のある女だとは思っていたが、あそこまでしっかりした軸を持っているとは三人共が思っていなかった。
「あれは随分違うな」
自分たちが知っている女と。
桐野はそう言うと破顔した。
それに生きてきた世界も恐らく随分違うのだろう。
生まれ育ちが悪くない事は今までの彼女の言動から分かるが、かと言って箱入りでもない。
社会に出てそれなりの経験を積んでいるし、それなりに人を見てきている。
桐野はさつきの冷静さに感心したが、それは彼女の今までの経験からきているものかもしれない。
「あいつ、”ここにおられるのは当たり前の事なのか、自分は恵まれてるとは思わんのか”と言うちょりもしたな」
「ああ」
辺見の言いたい事が分かったのか、桐野と別府が軽く頷く。
以前さつきは辺見に対して「この屋敷に連れて来てくれて本当に感謝している」と言っていたが……
聞けばさつきは別府にも「ここに置いてもらえるだけでありがたい」と、似たような事を言っていたのだという。
真実そう思っているのだろう。
――ここにいられるのは当たり前の事ではないし、自分はとても恵まれている。
彼女は自分の境遇をそう感じている。
どれだけ気遣っても、ここに居たらいいと声をかけてやっても、さつきには拭い去れない不安があるようだった。
それはそうだろう。
突然知らない世界に放り出されて、連れて来られた屋敷にいるのは屈強な男ばかりで。
それに元の世界では独り立ちしていたと言っても、ここでは自活する術、身を守る術がない女だ。
この状況で不安を感じるなと言う方が無神経で、怖いと感じる方が普通なのだ。
辺見は「ありがとう」と言って突然泣き出したさつきの気持ちが少し分かる気がした。
(本当に嬉しかったんじゃろうな)
辺見はそう思う。
それに安心したのだ、きっと。
桐野がさつきの境遇をしっかり理解した上で、ここがお前の場所だと全員の前で宣言した事に。
「さつきに……、特別に何かをしてやる必要はありもはん」
「どういうこっじゃ、辺見」
嫌に断定的な言い方をした辺見に別府が続きを促す。
「別府、さつきが一番求めちょるんは安心できる場所じゃち俺は思う」
ただ、それは「欲しいもの」として、さつきの口からは言い出せないような気がするのだ。
彼女の性格を考えても。
「……そうじゃな」
「どうしてもっちゅうなら、桐野さぁがもう一度あいつに『ここにいてもヨカ』ち言うてやったら、そいで十分でごわす」
「…………」
「ついでに何かとびきり美味いもんでも食わしてやったら、あいつはそれで満足じゃろう」
その言葉に桐野がふっと笑う。
何かと思えば、
「気張ったで褒美に美味いもん食わせろとは、言われたな」
これには別府も辺見も声を上げて笑ってしまった。
「面白いよ、あいつは」
優しい気遣いができる女かと思えば、冷静で意外と厳しい。
無欲で人が良すぎるのではないかと思えば、『自業自得だふふーんザマーミロ』だ。
さつきは、自分たちが知っている”この世界”の女たちとは本当に随分違う。
しかし。
「……ヨカ女じゃな」
さらっと吐かれた桐野の言葉に別府と辺見は目を瞠った。
珍しい。
別府も辺見も桐野がさつきを気に入っている事は知っているが、本人の口からそんな言葉を聞くとはついぞ思っていなかった。
「
別府の従兄を見る目がついジトっとしたものになる。
「一緒に風呂ば入った感想は如何ですか」
「別府!?」
何言ってんだお前といった風に突っ込んだ辺見にも桐野は軽く笑ったままで。
「よく手を付けずに終わらせましたな」
「背負った時に部屋に連れて帰ろうかとは思うたんじゃがな」
「…………」
「…………」
「口説いてん上手い具合に躱わされて、今のところ全敗しちょる。挙句こうじゃ」
――私の事口説いてどーすんですか。お触り禁止ですよ。めっ
「……ぶふっ……!」
「……兄……!相手にされちょらんのか!」
黙り込んでいたふたりも笑い出してしまった。
「そうかもしれんな。……じゃが汝らもさっきのさつきの様子、見ちょったろうが」
あれは駆け引きで躱わされていたのではない。
自分なんかが相手にされる訳がない、と頭から思っている所から来るあしらいだった。
ふざけて揶揄っているのではない、なんて桐野は言うつもりはなかったのだ。
本当に誤魔化されたままでいてやるつもりだった。
なのに思わず口走ってしまったのは、桐野が彼女を好意的に思っているなんて端から、それも欠片も思っていない事にカチンときたからだ。
あんな場面で彼女を追い詰めるような行動をとった事は確かに大人気なかった。
それは認める。
だがさつきには自分で自分の価値を減じるような真似をしたり、言葉を吐いたりはして欲しくなかったのだ。
もう少し自分が慕われやすい性格だという事を自覚して欲しいし、自負して欲しい。
「……じゃっどん風呂に入っても平気、半裸のまま背負われても警戒も抵抗もなかちゅうのは」
桐野は苦笑した。
確かにある意味相手にされていない。
いや、男として認識されていないのか。
別府の思った通り、桐野は怪我の検分とはまた別の意図を持ってさつきの体を眺め倒していた。
木石ではないのでそれ位は許して欲しい。
桐野は禁欲的な男ではないが、その時はさつきをそのままどうこうとしようは思ってはいなかった。
元々下心があって一緒に風呂に入った訳でもないし、そうなるに至った状況も状況だ。
脱衣場で見たさつきは体が半分隠れる程度の服しか着ておらず、抱え起こした時に不可抗力で目にした胸元はシャツの釦が止まっていないので谷間が丸見え。
その上風呂上りで手足やうなじは朱に染まっているし、風呂上り特有の良い匂いがした。
背負えば本当に疲れてもいたのだろう、安心しきってくったりと体を預けてくる。
そうなれば柔らかい吐息と髪が首元にかかる程体が密着する訳で、当然ながら背中には胸が当たる訳で、薄着ならその感触がより背中に伝わる訳で。
「……俺も男なんでな」
そんな状況に至って何も思わないほど枯れてはいない。
「………………」
「……そ、それは何とも……」
後輩と従弟の何とも言えない表情に桐野は苦笑いしてしまった。
無防備といえば罪作りなほど無防備だが、そんな状況に陥ったのは桐野自身のせいでもある。
自業自得といえばそうなのだ、多分。
「悪魔かあいつは。俺なら襲わん自信がない」
忍耐力を試されているとしか思えない。
そう小さく零した辺見に別府が内心で同意した。
そんな状態の女を持ち帰りもせず、手もつけずに部屋に返した桐野を別府は心から称賛したくなった。
別府としては中途半端な気持ちで無体な真似はしてやるなと釘を刺すつもりがあったのだが。
自分の行いで却って生殺しになってしまった従兄を見て、そんな気もなくなってしまった。気の毒過ぎる。
しかし触れはしなかったが触れてみたい肢体だとは、正直思いはしたのだ。それは桐野も認める。
桐野が知っている女たちとさつきとでは随分と体型が違っていて肉感的だった。
「辺見、さつきはここに来た時から着物を与えるまで洋服じゃったじゃろう」
ここに来た当初、彼女は着物の着方さえ知らず、そこからして元の世界では着物とは縁遠い生活を送っていた事が容易に推測できる。
着物の着用は胸を潰すし、大きなくびれも作らない。
つまり普段から着物を着ていれば女の体は多かれ少なかれ直線的になるものなのだが、さつきはその逆で随分と曲線のある体つきをしていた。
「あー……」
「確かに」
ぼそりと呟いた辺見、別府に、
「「「……ん?」」」
三者それぞれが思う。
何故お前が知っている。
辺見は桐野同様、さつきにへばりつかれた事がある。
背中に当たる柔らかさには多少戸惑ったが、弾力から結構大きさがあるなとは冷静に思ってはいたのだ。
それに辺見は先程さつきを抱きしめたばかりだし、抱きつかれたばかりだった。そうだった。
別府は昨日の騒動の後、着物を脱いで肌襦袢だけになったさつきを風呂場から立ち去る間際に見てしまっていた。
濡れた白い襦袢が体に張り付いていた為肌の色が透けて見え、それこそ体型が浮き彫りになっていた。あれは随分な柳腰だった。
それぞれの話に三人は笑ってしまった。
この時代の男女ではありえない距離感で、それぞれが随分と心を許されているらしい。
男としては若干複雑な気がしないでもないが、安心されていると分かる事は酷く気分がいい。
こちらでは骨太でしっかりした
柔らかな曲線は肉付きが悪い訳ではない事を示していたが、力を込めたり乱暴に扱ったら手首や指などは簡単に折れてしまいそうだった。
優しく扱わなければ壊れてしまいそうな気がする。
そんな女に当てはまる形容をひとつ知っている。
華奢。彼女は華奢だった。
さつきはしっかりした、どちらかというと気丈な女だと思う。
しかしその脆げな体を震わせて泣いている姿を目にしてしまえば、その気丈さは時に強がりに見えてしまう。
それは日頃のさつきの控え目な態度と相俟って、近しい人間の庇護欲を掻き立てるには十分だった。
それを、無闇に傷付けた。
先程の雪緒への桐野の態度と言葉は丁寧なものであったけれど、多分の憤りと毒を含んでいた事。
桐野が客に対し立場を弁えない行動をとった書生を罰するのは当然の事だったが、与えた制裁にはそれ以外の怒りが籠っていた事。
それは別府も辺見も幸吉も、志麻さえも分かっていただろうし、同心していただろう。
ただ不思議なのはそれだけここで受け入れられている女が、
「
「何の話じゃ」
掛けられた声に辺見が顔を上げる。そうだ、別府は知らなかった。
「男が余所の女孕ませて逃げたんじゃと」
「……そりゃまた」
桐野の言い方が身も蓋もなさ過ぎて別府はそんな風にしか返せなかったのだが、
(その男ももったいなか事をしたもんじゃな)
内心の呟きは声になっていたようで従兄と同僚双方からの同意が響いた。
あの女に触れたというだけで若干ムッとするのに、その上彼女を捨てたという事実に更なる不快感が募る。
男には男の言い分があるだろう事も分かる。
しかし当方も男であるし、見た事もない野郎の心情を慮る趣味もなければ義理もない。
たださつきが嫌な思いをしたというのなら、そいつはきっとロクでもない男だった。それでいいと思う。
自分の女でもないのに妙な執着を感じるのが不思議であったが、ただはっきりしているのは、
「あまり泣かせるような真似はしたくない」
「ああ」
「そうじゃな」
できるだけ笑っていて欲しい。
「失礼します」
志麻の声に振り返れば、その後ろにはさつきと幸吉の姿も見える。
それぞれ茶と茶菓子を手にしており、炊事場で用意してそのままこちらに戻ってきたようだった。
先程の会話の流れだとさつきは志麻に髪を整えてもらっているとばかり思っていたのだが。
「髪は夜お風呂入る時でいいかなって」
「……(風呂……)……」
「……(風呂か)……」
「……(風呂な)……」
(え、何か三人とも目がギラギラしてるんだけど……こわ……)
you got me!:ほんと、君にはまいるよ
当時既に銀座の煉瓦街計画始まってました。西洋床は西洋風理髪店の事。フランス人が雇われてたそーです 160202131011