Bond




走ってくる馬にただ驚き固まっていると急に視覚が黒一色に染まった。

大人の悲鳴が聞こえる中、何が起こったのか分からないままおなつは体を引っ張られ、気付けば目の前で母が顔や手足をぺたぺた触りながらボロボロと泣いている。
おっかさん、そう言おうとした時、

「****!***、******!!」

大きな声がした方を見ると、玉川上水から一緒に帰ってきたお姉ちゃんをきーさんと呼ばれていた男の人が抱きすくめていた。

「お姉ちゃん」
「おなつ、お前あの人に助けられたんだよ」

母はそのまますぐに医者を呼んでと往来に顔を出していた丁稚に叫ぶと、きーさんには旅籠(うち)に上がるように促した。
顔を上げた彼は軽く頭を下げるとすぐにお姉ちゃんを抱き上げ、案内されるままに奥に入っていったのだった。

「歩ける?」
「うん」

玄関の上り框に座れば腕をさすられ足をさすられ、
「本当に傷ひとつない……」
またぽろぽろ涙を零し始める母の様子に大事だったんだと驚いていたら、
「おなつ!」
ばたばたと騒々しく近づく足音。

振り向いた途端、奥で騒ぎを知らされたのだろう、真っ青な顔をして駆けつけた父に抱き上げられた。
おなつに頬擦りするようにしながら母から詳しい話を聞いている。
その間にもきーさんを部屋へ案内した女中が、あちら様も怪我などないようですと報告に来てくれて、その場の雰囲気が一気に軽いものへと変わった。

「おとっつぁん降ろして」
「大丈夫かい?」
「うん」
床に降ろされ、手が緩んだ所をするっと抜けて奥へと走る。
「これ、おなつ」

父と母はこの後きっとお礼に行くだろう。その前に、
(自分でありがとうって言いたい)
廊下ですれ違った女中に聞けば上の間に案内していますよと教えてくれ、そちらへと向かった。
部屋の前に立てば密やかな話し声が聞こえて、
「お姉ちゃん……」
ここで合ってる、と障子を開ければ、くっついていたふたりの体が音がしそうな勢いで離れていった。

入り口でたどたどしいながらもお礼を口にしたらそれはそれは褒められて、こっちにおいでと言われるまま近くに座れば、
「怪我がなくて良かった。びっくりしたね」
怖かったねえときゅっと手を握り締めてくれる。

その手がきれいで、
(ふわふわしてる)
母の手とも女中のそれとも随分違う。それに、
(すごくいい匂い)

そう思いながら空いている手で白い手の甲をさすさすしていると、
「どうしたの?」
くすぐったそうに笑われてしまった。
さつきと名乗ってくれたお姉ちゃんの顔を改めて見上げれば目元が少し赤くなっていて、

「意地悪されたの?」
「え?」
「お姉ちゃんは大好きって言ってるのに、意地悪しちゃダメよ」

「………」
「………」

近くに座るきーさんに怒れば、ふたりが顔を見合わせ……たと思いきや、
「ほぉー……大好き、な」
「………」
お姉ちゃんの方が顔を逸らしてしまった。

「きーさんはお姉ちゃんの事大好きじゃないの?櫛あげたんでしょ?」
「お、おなつちゃあん」
「ああ……わっぜ好いちょっど」
「?わっぜ?」

訛のある言葉が分からなくて首を傾げたけれど、きーさんはただ笑って、お姉ちゃんは「やめて……」とか何とか言いながら顔を赤くしていた。

両親がやってきたのはそのすぐ後の事。
おなつもその場で大人達の輪に交じっていたけれど、桐野と名乗ったきーさんの少し後ろに座るお姉ちゃんは目が合うたびに笑いかけてくれ、おなつもにこにこと笑い返した。

かわいい。
そう目の前に座る人の唇が小さく動く。
傍のきーさんには声が届いたのか、軽く視線を後ろに流すとまたこちらを見てふっと表情が緩んだので、恥ずかしくなって母の後ろに隠れると更に笑われてしまった。

人力車でふたりが帰邸する様子を見送った後、
「お姉ちゃん、きーさんから櫛もらったんだよ」
「”桐野様”でしょうが」と窘められながらも母の手を引っ張って言うと、
「櫛?ああ、そうなの……好い仲なのは分かったけど」
うふふと母は笑ったのだけれど、
「さっき部屋でちゅうしてた」
「………」
「……覗いたのかい……」
父に怒られた。





「暫くお世話になります。おなつちゃんもよろしくね」

前のふたりが来ていると知らされて玄関へ駆けつけた時には、お姉ちゃんがきーさんの隣で両親に挨拶していた。
部屋に案内されるふたりの後をついて行き、

「泊まるの?」
「うん、泊まるよー」

廊下を一緒に歩きながら目の前の手を繋ぐと握り返される。

「これ、お客様ですよ」
「女将さん、いいんですいいんです。お友達なんです、私たち」
ね?と首を傾げて聞いてくれたので、
「ねー」
と返すと前を歩いていたきーさんが小さく笑っていた。

きーさんは昼間はあまり旅籠にいなかったけれど、お姉ちゃんは日に一度か二度ほど上野からやって来る「幸吉くん」や「志麻ちゃん」の相手をしていた。
お姉ちゃんは彼等から話を聞いて書付けをしたり、何かを預かっていたり、逆に何かを渡していたり。

ふたりは従僕と女中なのに信じられないほど親しげで、お姉ちゃんはふたりの為に毎日おやつを用意していた。
空いている時間にそのおやつを買いに出かけるお姉ちゃんについて行って、ついでに部屋で一緒にお相伴に与って。

両親や女中、幸吉くんと志麻ちゃんが苦笑する程、おなつはお姉ちゃんにべったりだった。
手はふかふかだし、傍に寄ればいい匂いがするし、お風呂に入った時触った肌はすべすべしてたし、一緒に遊んでくれて、それに優しい。

「さつきさんが許して下さっているからいいものの……」
これ以上ご迷惑をかけないようにと母は口喧しかった。
「あと、桐野様がおられる時はダメですよ」
「えーっ」
「えーっじゃありません。お前がいたら邪魔です」
はっきり言われて、む、と口をへの字にする。

「あのねおなつ、桐野様がお供も連れずに来られたのは、さつきさんとふたりになりたいからよ」
「……」
「櫛をお渡しなら遠からず夫婦(めおと)になるんだろうけど、今はとても楽しい良い時なの」
「そうなの?」
「そうなの。なのに一緒にいる時に邪魔されたら嫌でしょう」
それは分かる。
「分かった?お邪魔虫おなつちゃん」
「分かった……」
ほっぺたをぎゅーっと挟んでタコみたいねと笑った母の両手を叩いて抗議したけれど、結局はおなつもつられて笑ってしまった。




「お姉ちゃん……あ」

部屋を訪ねると日中なのに珍しくきーさんがいた。
母の言いつけを思い出して障子を閉じようとしたら、
「良いよ、おいで」
「でも……お邪魔……」
お姉ちゃんの膝の上にはきーさんの頭が乗っていて、子供心にもこれは確かにお邪魔というか、あまり見てはいけないものを見ているような気がするというか。

「きぃさん、おなつちゃん」
「ああ、おなつ、こっちば来い。さつき取ってくれんか」

恐る恐る足を踏み入れてちょこんと座れば、きーさんも座り直したのだけれど、
「きぃさん、ちょっと、ムリ……」
足が痺れて、と続いた言葉に、
「おなつ、つついてやれ」
「酷い!」
「あはは」

おなつちゃんまで!と言っている姿を笑いながら、きーさんが鏡台に置いていた包みを渡してきた。
何だろうと思いながら両手で受け取って、きーさんの顔を見れば開けてみろと。

「つまみかんざし」
出てきたのは淡い紫色の竜胆をかたどった簪。
「きぃさんがおなつちゃんにって」
「え?」

お姉ちゃんを振り向いている間に簪を再び手にしたきーさんがおなつの唐人髷にすっと挿してくれて、

「かわいい」
「うん、よう似合うな」

お姉ちゃんは絵に描いたようにニコニコと、きーさんは目を細めて微笑っていた。
本当はおなつよりも年上の女の子が差すような意匠だったけれど、手放しで褒めてくれることがとても嬉しい。

「いつもさつきの相手ばしてもろうてあいがとな」
「きぃさん今日私への当たりキツくない?」
「ふふ」
「あ……あの、ありがとう……」

俯いて小さい声になってしまったけれど、どういたしましてというきーさんの声音の柔らかさにおなつは顏を上げた。

(今はとても楽しい良い時……)

邪魔しちゃいけない。
何だか本当にそんな気がして出て行こうとしたら、
「おなつちゃん、ちょっときぃさんとお話しててくれる?」
お姉ちゃんが行ってしまった。

「………」
「そう畏るな。さつきは母御に礼ば言い行った」
「お礼?」
「志麻と幸吉にもようしてもろうたしな」

桐野の家の者だからと母は彼らにも何かと気を遣っていた。
そう言えば母はふたりの帰り間際にこっそり手土産なんかを渡していた事をおなつは思い出す。
それを見ていたおなつに母は口元に人差し指をもっていって桐野様には内緒よと言っていたけれど、ふたりは主人にきちんと報告していたようだった。

「それに明日ここを出発すっでな」
「えっ!明日!?」

聞けば肯首されておなつは海に沈む様な気持ちになってしまった。
目に見えてしょんぼりするおなつの頭をきーさんが撫でてくる。

「おなつはさつきを随分気に入ったなあ」
「だっていい匂いするし」
「ああ」
「髪もふわふわで手もお胸もふかふかで」
「胸?」

お風呂に一緒に入った時、すごく気になったのだ。
お姉ちゃんはお母さんと変わらないでしょと笑っていたけれど、

「おっかさんより大きかったし柔らかかった」
きーさんが笑い出した。

「触ったんか」
「うん」
何も言わないでいきなり触ったからびっくりしてたけど。

「お姉ちゃん怒らなかったよ。いつも優しくて大好き。きーさんにも優しい?」
「ああ」
「大好き?」
「ああ」
「あのね、お姉ちゃんにくし見せてもらったの。おっかさんに言ったら夫婦になるんだろうねって」
そうでしょ?と聞くときーさんは苦笑いする。

おなつは首を傾げてしまった。
そう言えばお姉ちゃんと初めて一緒に玉川上水に行った時、あの時、櫛の事について聞いてもお姉ちゃんも何も答えてはくれなかった。
ただきーさんを大好きと言うだけで。

大好きで櫛を貰って一緒にいて、邪魔しちゃいけないって思うほど仲良しなのに。
お姉ちゃんときーさんは違う気持ちなのかな。


「きーさんは、もう一回お姉ちゃんにくしを上げないといけないと思う」

おなつはきーさんの膝元ににじり寄ると、

「だって大好きなんでしょ?それに"男は多少ゴーインな方がいい"ってお玉とお芳が言ってた」

いつか聞いた女中の無駄話を口にした。
「はは!ソーカ。強引に迫ってみるか」
感心された様な気がしておなつもえへへと笑う。

「ただいま……何の話してるの?」
「えっとねえ、えっと……内緒」
ちらときーさんを見上げれば笑いながら「内緒じゃな」と頷いてくれて、おなつはまた破顔した。



午後を幾らか回ってからきーさんが出掛けてしまったので、おなつはお姉ちゃんを引っ張るようにして外に遊びに行った。近所の子たちも一緒になって玉川上水の方へ。

「ここにいるから、おなつちゃんも行っておいで」
そう背中を押されて離れたのだけれど。
遊びながら時々振り返れば、土手に座るお姉ちゃんは遠くの方を見て何かを考えているようだった。

(あの時と似たお顔してる)

そう見て取ると、

きーさんもお姉ちゃんの事大好きって言ってたよ。
夫婦になりたいみたいだったよ。

草むらに何かを投げたお姉ちゃんに無性にそう教えてあげたくなって近くに行こうとしたら、

「おねえちゃーん!お迎えが来たよー!」

きーさんが来てしまった。
後ろには幸吉くんと志麻ちゃんもいる。
どうしよう、帰ったらもう部屋には行けないし、明日にはお別れになってしまう。
どうしよう。

帰ろうとまだ向こうの方にいる子達にみんなで声を掛けて、来た道を戻っていく。
おなつは隣家の子と手を繋ぎ、ちらちらと振り返りながらきーさんとお姉ちゃんの前を歩いた。
後ろでふたりは何かを話していて、

「これからもきぃさんと一緒にいたいって言ってるの」

急にはっきりと声が聞こえて、振り向いたらお姉ちゃんがきーさんの両手を握っていた。
周りのみんながきゃあきゃあと騒ぐ中、

「きぃさんの事、私が幸せにしてあげる」

大きく笑っての言葉。
きーさんは少し驚いて、でもすぐに笑うとお姉ちゃんの手を引いて体を抱きとめるような格好になった。
わあっと思っていたら、お姉ちゃんの胸元から何かが落ちて、
「あ、落ちた」
「お姉ちゃん落ちたよ」
前見せてもらった透かしの入った櫛だった。

拾った子を囲んでみんなできれいを連呼して、はいとお姉ちゃんに渡そうとすると、横から伸びてきたきーさんの手がそれを攫っていく。
(あ……)
櫛の行方を目で追えば、視線が重なったきーさんが片目を軽くぱちりと瞑った。
(あ!)

「さつき」
「は、はい」
「受け取ってくれるか」

お姉ちゃんが答える前に周囲から歓声が上がって、声は聞こえなかったけれど、
(喜んで)
そう唇が動いたのは分かった。

「きーさんきーさん良かったね!」

嬉しくなって飛びつくようにして言えば、きーさんが抱き上げてくれる。

「さつきさん……」

お姉ちゃんに駆け寄ってきた志麻ちゃんが何だかとても泣いていて、

「私すごく嬉しい。御前の事よろしくお願いします」
「俺がよろしくされるんか」
「これでもやきもきしてたんですから、これぐらい言わせて下さい」
「志麻には敵わんな。俺の回りはしっかりした女ばかいじゃなあ」

おかしそうに吐かれた台詞に幸吉くんが吹き出していた。



その日は志麻ちゃんと幸吉くんもきーさんたちの部屋で夕食を共にする事になった。
おなつも一緒がいいと駄々をこねて、母は本当に渋っていたけれど、きーさんもお姉ちゃんもいいよと言ってくれたからそのまま席に加わった。
食事の膳が下がると母が甘味を差し入れてくれて、それを囲んでみんなでわいわい騒ぐ。

おなつから見てもここの主従はとても仲が良く、その輪の中にいると酷く悲しくなって、
「う……」
終いには泣き出してしまったのだった。
どうしたのと驚いて聞いてきた母にぎゅーっと正面から抱きつくと、
「さびしい、明日みんないなくなっちゃう」
余計にぽろぽろと涙が零れた。

「大丈夫、また会えるよ」
そう言ってくれたお姉ちゃんを見上げる。
「ほんと?」
「きっとね。その時にはおなつちゃん誰かのお嫁さんになってるかもね」
「きーさんみたいな人がいい……」

「先生こんな年端のいかん子ォにまで……」

幸吉君の呆れ口調に、
「仕方ないよね、きぃさんだし」
「ですよね……」
「味方はおなつだけか」
「やだ、きぃさんモテるねって言ってるのに」

そんな感じではなかっただろうというきーさんの抗議にお姉ちゃんも幸吉君と志麻ちゃんも笑っていて、母が目を丸くしている。

「おなつ、おいで」
きーさんに手招きされて近付けば膝に座らされ、
「暫く味方してくれるか」
「いいよ!」
「お、泣いた鴉が笑うたな」
周りが笑って、おなつも声を上げて笑ってしまった。



次の日きーさん達は旅籠を出発した。
出発間際、きーさんはただ元気でと、お姉ちゃんはステキな女の子になってねと言って。

「恩人ってだけでなくて気持ちのいいお客さんだったね」
両親が客への愛想笑いではない笑顔で彼らを見送って、その上また来て欲しいねと続けた言葉におなつはうふふと笑った。
大好きな人たちを客商売の両親が褒めているのがとても嬉しい。

「おなつはあのおふたりを随分と好きになったな」
「うん!」
「次お会いした時にいい子になったねって言ってもらえるようにしないとね」
母が髪に挿した竜胆の簪をちょんとつつく。

「早く大きくなりたい」
「ん?」
「このかんざしが似合う”すてきな女の子”になってお姉ちゃんときーさん驚かせるの。手習い頑張って文も出したい」
「あら」
父と母が顔を見合わせて笑う。

「昨日ご挨拶に来てくれた時、さつきさんおなつの事をとても褒めていたよ。素直で思い遣りのあるいい子ですねって」
「ほんと!?」
「ええ、本当。おっかさん嬉しかった」
ね、と話を振られた父も同じように頷いている。

「”すてきな女の子”になれるよう、おっかさんも手伝ってあげる」

頑張ろうねとかけてくれた言葉におなつは大きく返事をした。



Bond:@絆Aひっつき虫おなつちゃん
ちびっこに言われなくもきーさんははっきりさせていたと思いますが。さつきちゃんが上水で考えていた内容は少しずつ違いますが大人の心情は子供には中々分からないという話ですね。そして「ちゅう」は江戸時代からある言葉ですが、子供が口に出していいものではなかった筈w江戸時代の認識ではキスはどストレートの性行為でした…話の都合上という事で。笑
2019110120190731

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