征韓派の参議の下野を聞いて職を捨てた薩派将校と同様に辺見と別府も直ちに官を辞した。
必然的に薩摩に帰る事になったが、政争云々とは別に辺見の頭を掠めたのは桐野邸にいる女の事だった。
人を遣って簡単な状況を知らせはしたが、これからどうするのか。
さつきが元の世界ではなくここに残る事になったのはつい先日の事だ。
それから大して時間が経っていないのに、再び大きな環境の変化を迫られるのは流石に気の毒な気がした。
知らず眉が寄るのを見咎められ、どうしたかと声をかけてきた友人連中に辺見は頭を左右したが、
「さつきの事が気になるな」
内情を知る別府とはその懸念を共有できた。
それは近くにいた友人に拾われた本当に小さな呟きであったのだけれど、
「さつき?」
「あー……桐野さぁの側女か」
桐野邸に遊びに行く薩摩人は大半がさつきの事を知っていたけれど、さすがに彼女が桐野の何なのか、その詳細を知っている人間は殆どいない。屋敷に住む者と彼らの本当に近しい関係者くらいだろう。
桐野とさつきの関係が進んだのがここ最近だった事もある。
それに若い女が屋敷にいる現実を見て妾だと思わない方が変わっているのかもしれないが。
否定しようとした辺見に先駆け、話の輪にいた河野主一郎がばこんと発言者の頭を叩いた。
河野は幼馴染であり親友である辺見を偶に桐野邸に訪ねていてさつきと面識があったし、辺見自身からも彼女の話を聞いている。
それに初対面時に辺見を「この子どうすればいい?」と言い放ったさつきの様子を、河野はまだ愉快に覚えていた。
痛いと頭をさする友人にちらりと視線をやると、
「知らんのに失礼な事ば言うもんでなか」
釘を刺した河野に被せて別府が口を開いた。
「アレは兄の思い人じゃ」
「しかもありゃ桐野さぁの方が惚れちょる」
うっそお、という沈黙が流れたけれど、従弟の別府と桐野邸に住み込んでいる辺見が言うのならそうなのだろう。
それなら桐野が薩摩に連れて帰るだろうと誰かが口にしたけれど、こればかりはふたりと言えどもなんとも言えなかった。
あれは自分たちが思う男女関係とは少し違う気がする。
「……一旦上野に帰る」
短く口にすると辺見は腰を上げた。
征韓の議が敗れた事を知り同志でそぞろに集まり朝を迎えた為、まだ桐野邸に戻っていない。
桐野がいるかもしれないし、いくばくかの私物も置きっぱなしになっている。
何よりさつきの進退を把握しておきたかった。
同行すると連れ立った別府と辺見が桐野邸の門をくぐると、幸吉と志麻が歓迎してくれた。
特に志麻はもう会えないのではと思っていたようで、殊の外喜んでくれたのだった。
桐野は早暁さつきと共に屋敷を出ており、今残っているのはこのふたりと女中、書生だけだという。
預かってますと渡された桐野の書簡にさっと目を通すと、辺見は別府と顔を見合わせて笑った。
「連れて行ったか」
「ついて行ったんじゃろう」
受動ではなく能動だと辺見は別府を否定した。
「昨日、すごかったんですよ」
草紙か何かのお話みたいだったんです、と茶を出してくれた志麻が言う。
興奮気味に話す彼女の様子に大袈裟なと思ったが、何があったか、話を聞くほどに何だかいたたまれない気持ちになっていく。
志麻はともかく同席していたという肝付の居辛さは察して余りある。
苦笑いしかなかったが……
「兄は幸せじゃな」
別府の呟きに辺見も同意した。
桐野がさつきを気にかけ始めたのは夏の雪緒の騒動からだ。
それから数ヶ月、手に入れようと思えばどうとでもできたのに桐野は辛抱強く待っていた。
多少強引な所はあれど、最終的に相惚れとなり彼女に桐野自身を選ばせたのは紛れもない事実だ。
「確かに先生、随分前からさつきさん欲しい言うてましたしね。それが先生と一緒にいるって、薩摩に付いて来てくれるって、今日も昨日も滅茶苦茶機嫌良かったんでっせ」
ね、志麻さん、とどうやら手放しで喜んでいるらしい年少のふたりに男ふたりも笑ってしまう。
聞けば桐野とさつきの関係は屋敷の女中にも書生にもごく自然に受け容れられているようで、少なからぬ関わりを持つ者としてはやはり嬉しいものがあった。
「あ、それでもうひとつ伝えて欲しいと言われてるんですが……」
新宿への道のり、幸吉の言葉を思い返してはふたりは苦笑した。
桐野が早暁に屋敷を出たのは屋敷にいると薩摩人が集まってややこしい事になるのが目に見えていたからであった。
ただ諸事の後始末もあるのですぐに東京を発つことはせず一旦新宿に宿を取ったが。
「できれば来るな、宿の名前は他には洩らすなっちゅう事です」
そらそうなのだけれど。
ピンときたのだ。寧ろ重点は……
(さつきとふたりになりたいんじゃな)
(邪魔するなちゅう事か)
連絡の為とはいえ幸吉まで屋敷に置いて行った辺りに意図を感じる。
向かった旅籠では桐野は出払っていたけれどさつきが満面の笑顔で出迎えてくれ、薩摩について行く事を自分の口から伝えたかったと、そう言ってくれた。
「幸吉と志麻からも聞いた。ついて行くか」
「きぃさんが一緒にいてって言うからね」
クスクス笑うさつきにつられてふたりは口の端を上げたのだけれど。
「……なーんてね。本当は私がきぃさんと一緒にいたいの。ついて行きたいって言ったらいいよって言ってくれたから」
だからついてっちゃう。
笑うさつきに隣に座る別府が暫し黙り込み、ありがとう、そう薩音で口にした。
唐突であったから、さつきが「え?」と目を丸くしていたが……
近い親族である別府の立場なら、尚更そう言いたくもなるだろうと辺見は思った。
さつきの中ではさつきの言葉の通りなのかもしれない。
が、別府も辺見もそうではない事を知っている。
桐野がさつきを見つめ始めた時期もその理由も知っていたし、桐野の方がさつきに執心しているのも知っている。
それに志麻から昨日あった事の一部始終をつい先ほど聞いたばかりだ。
実際には桐野の方がさつきの同行をより望んでいたに違いない。
惚れた相手に置いて行く気かと詰られ、ついて行くと躊躇いなく告げられた時の桐野の喜びはどれほどのものだっただろう。
それに桐野を選んだ事でさつきがかけがえのないものを捨てた事も知っている。
別府が礼を言いたくなる気持ちは、辺見にはよく分かる。
「何かあったら言うて来い。力になる」
そう言いたくなる気持ちも。
「辺見さんと同じ事言うのね」
別府にまで言われると思っていなかったのか、さつきはきょとんとしたけれど、
「ありがとう……そう思ってくれてるのが凄く嬉しい」
一転、穏やかに笑った。
「きぃさんと喧嘩したら辺見さんか別府さんの所に転がり込もう……」
「いや、喧嘩にならんじゃろう」
「ああ」
「えええ?」
即座に突っ込めば別府が相槌を打つ。
今見ている限りではふたりの性格と相性から見て喧嘩になりそうな種が落ちているとは思えなかったし、まず桐野が女と喧嘩というのが考えられない。
それに恐らく、というか確実に、さつきは桐野から深く情を注がれる事になるだろうし。
喧嘩ねえ……というのが正直な所だ。
「懐に入れば大事にする人ぞ」
「…………あ、そ、そうだね……」
何だその間。
……と思ったのも束の間、さつきの頬に軽く朱が差したのを見て、別府と共ににや〜っと笑うと、
「!」
さつきも気付いたようで。
「今何思い出した」
「”進展は?”」
「さすがにもう話だけでんなかろう」
「ぎゃあああもう嫌!何で聞いてこようとするの!?」
何かありましたと言っているようなもので、思わず笑ってしまう。
この様子なら幸せな朝を迎えたのだろう事は想像に難くなかった。
幸吉も桐野が機嫌がいいと言っていたし。
「…………きぃさん、めちゃくちゃ優しい……」
(そりゃあまあ)
(そうじゃろうな)
「前から優しかったけどあんなの聞いてないよ……もっと淡白な人だと思ってたのに。今までお屋敷にいた女の人たちどうして出て行けたの?」
触れ方からも、掛けられる言葉からも愛情が零れ落ちていて、
「愛されてるって……凄く感じる。あんな優しさで触れられたら離れるの無理だよ……」
他の人間から聞かされても半眼になるだけの話だが。
辺見はさつきの様子に内心小さく息を吐いた。
桐野の接し方を見ていても感じていたが、大切にされている。
その事に酷く安堵した。
一時はあの屋敷にさつきを連れてきた事を後悔したのだ。
半年ほどの間にまさかこうなるとは思わなかったけれど、さつきが幸せであるならそれでいい。
「あん屋敷で兄が抱いた女はおらん」
「え?でも……」
「呼ばれもせんのに居座って、そん上志麻や幸吉を折檻する女に手を出すと?そんなん抱かんでも女は他にもおる。そいに屋敷で手付けると後がややこしか」
「あ、あー……そうですね……」
それに別府が即座におかしな誤解をするなと口にしていて、思わず笑ってしまう。
さつきに初め何が目的だとかどうやって取り入ったとか、そんな事を言っていた男だと思えない。
「さつき、汝は兄に選ばれたのではなか、汝が兄に汝を選ばせたんじゃ」
「………………」
「わっぜ優しか?当たり前じゃ。好いた女やっと手に入れて漸く抱けるんに、優しゅうせんでどうする」
「間違うな。兄がそんだけ優しいんは汝だからじゃ」
「ん……」
さつきは顔を赤くして完全に俯いてしまった。
「気をつけて帰って。またすぐに会えるよね」
掛けられた言葉に手を振って宿を出たのだけれど。
「ふふ」
「は、ははっ」
どちらともなく笑い出してしまった。
「あいつとおると気が抜けるな」
「ああ」
「桐野さぁが傍に置きたがる理由が分かる」
「……気が休まるんじゃろう」
優しさに裏が無いから、と続けた別府に同意する。
それは志麻と幸吉への接し方を見ているだけでもよく分かった。
あれは見ていて気持ちよく好感を持てたし、三人が寄り集まって笑う様子は微笑ましかった。
「じゃっどん兄があそこまで入れ込むとは」
「ありゃ甘えられるからじゃ」
は!?と声を上げた別府に辺見は笑った。
短期間とはいえ同じ屋敷で暮らしていた辺見の方が見えている事もある。
「桐野さぁはさつきに随分甘えちょったぞ」
さつきの人間性を見て雪緒の滞在で生じた皺寄せを全て受け止めさせていた事、風呂での事、雪緒を追い払う為に恋人の様な触れ方をした事。
私室に寝かせている事。
辺見と別府が問い詰めた時、さつきは何もないと言っていたが、今思えばあれは単に性的な接触はないという意味だったのではないか。
それに新宿行きの前夜、さつきはまだ抱かれていないと言っていたが、事に及んでいないだけでそれ以前の事は恐らくあったのだろう。
「あいつはそれを許すでな」
「あー……確かに」
別府が苦笑する。
桐野の立場では誰かに甘えることはもう難しい。むしろ周囲から甘えられ頼られる方だ。
「そいがさつきは甘えても我儘言うても受け容れる。笑って許してくれるじゃろう」
「ああ」
「立場も肩書きも関係なか、大の男がとかそんなんも恐らくない。私室で甘えられても『かわいい』としか思うちょらんぞ、あれ」
「兄がむぜか。そりゃわっぜ貴重じゃな」
爆笑する友人に辺見も釣られて笑った。
「そげん貴重な女が好きじゃち言うてくれる。そりゃあ桐野さぁから見たら、なあ……」
「……ないごて前の男はさつきを捨てたんじゃったか」
二股だったか?という別府の呟きに肯定を返した後、少し考えて、
「男が甘え過ぎたんじゃろう」
そう辺見は簡潔に口にした。
甘えて、何をしてもさつきは許してくれると勘違いして羽目を外し過ぎた。
破局の大本の原因は大方そんな所だろう。
さつきは男が他の女を孕ませた挙句捨てられたと言っていたが……そんな事態にならずとも、いずれ男が許される線を見誤りさつきが見限る事になっていたのではないだろうか。
「……兄も気をつけねばならんな。捨てられんように気張らんと」
吹き出しながらの別府の冗談に辺見はゲラゲラ笑ったけれど、お互いにそんな非常事態にはならないだろうと思っている。
桐野がさつきの許容範囲を見誤るとは思えないし、逆に彼女を上手く甘えさせる事もできる筈だ。
さっきの様子を見ていれば大体分かる。
今何を聞いても惚気にしか聞こえないだろう。
「今兄に会うたら笑う」
確かに。
「まあ鹿児島でも会えるんは嬉しかな」
「会えるどころか別府は親戚になるじゃろ。さつきは櫛の意味ば理解しちょったぞ」
「……あー……そうか。そうじゃな……祝言か……」
まさかこんな時に、こんなにどこかふわふわした気持ちで帰国の準備につくとは思いもしなかった。
「帰ってん何だかんだありそうじゃなあ」
別府の言にくっと笑う。
(草紙か何かの話、か)
志麻ではないが確かに何かの物語を見ているようで、
(全く……退屈せんなあ)
辺見は行く末の多幸を願わずにはいられなかった。
落花流水:他人から見たロマンス 201911032019723