犬も食わない 7



すぐ目の前に広瀬の顔がある。
灯りの具合で影が落ち表情ははっきりとは分からなかったけれど、口元が緩く三日月を描いているから笑っているのだろう。

(乗り換える、か)

それもいいかもしれない。
話さえ聞いてもらえない。最近はまともに顔さえ見てもらっていない、気がする。
そう言うことは広瀬がしてくれていたのだ、全部。

今日あった事を話して、寂しくてたまらなくなると腕に触れて、今は抱きつく所までエスカレートしている。
男友達相手に非常識で度が過ぎているなんて指摘されなくても分かってる。
それでも甘えることを止められなかったのは広瀬が許してくれたからだし、広瀬が完全なる安全牌だったからだ。
抱き返してくれてもそこにセクシャルな意味が籠っていた事は一度もなかった。
でも今目の前にいる広瀬はどうだろう。
友達の部類じゃなくて、どう見ても”男”だった。

(………)

広瀬はいい人だし、そういう意味では大好きだ。しかし正直な所いい男として見た事はなかった。
でも。
普段の広瀬や、彼が今まで自分にしてくれた事を振り返れば、

(こんないい男どこにいるんだろう)

何となくそう、ストンと気持ちが落ちてしまったのだった。
ちくんとどこかに針が刺さる。
後ろめたくて、広瀬を避けるようにして視線をずらすとさつきは俯いた。
緩く空気が震え、そんな自分の様子を見て広瀬が笑ったのが分かる。


「迷う?」
俺か秋山か。

耳元に落とされた柔らかな声に、背中に電流が走った。

「……(ぎゃあっ!!)…ひっひひひひひろせさん…っ、わた、真之さんいるっ、付き合ってるし…っ」
「だが実体は伴っていない。それは君が一番よく分かっていることだろう?」
「そんな…」

そんな否定的な言い方。
他の誰かにされても、まさか広瀬に言われるなんて思わなかった。
ぼろっと一滴、瞳から雫が零れる。

「泣いても許してやらない。ちゃんと考えてごらん、このままでいいのかどうか」
「…え…?」
(それって…)
どういうこと?広瀬さん、と呼び掛けようとした時。
ばーん!と大きな物音で遮られてしまった。


襖を開けた秋山の髪はバサバサで、多分取るものも取り敢えず好古宅から出て人力車を掴まえたのだろう様子が丸分かりだった。肩で息をしている。

「さつき…泣いてるのか」
「え?」
「悪い。悪かった、本当にすまない。お前の事をどうでもいいなんて、そんな風には思っていない」
(…あれ?)
「お前の言う通りだ。一緒にいるのに話ぐらい…」

秋山は多分、さっきあんな風に別れたから、それで泣いているのだと思っている。

「あの、真之さん、」

つらつらと言い訳だが弁解だかを言われたが、正直耳に入らなかった。
というか今の状況に戸惑っている。
広瀬の口ぶりに疑問を覚え、肝心な事を尋ねようとして突然入ってきた秋山に思いきり腰を折られて。

…そうだ。
(広瀬さん)
見れば広瀬はバツ悪げにパリパリと頭を掻いていた。
「どいて」
「うおっ」
どんっと間にいる秋山を押しのけて広瀬の前に座る。


無言でじっと目の前にある瞳の奥を覗けば、根負けしたのか、広瀬の表情は苦笑いに変わった。

「あー…ごめんな」
「やっぱり!酷いよ、大事な友達が、い、いなくなるかと思った!」
「うん」
「ばかあ!あんな試し方もう二度としないで!」

八つ当たりだ。
泣きながら滅茶苦茶怒ってしまったのは、秋山に対して後ろめたかったからだ。

「…うん。ごめんな。でも、どう?やっぱりこいつがいいの?」
「は?それはどういう」

秋山の頓狂な声に振り返れば、(あ)、…忘れてた。
若干ぽかんとしてこちらを見ている秋山と、
「………」
「………」
視線が合ったが、すぐに広瀬に戻すとさつきは口を開いたのだった。


「広瀬さんいい男だなって思った。話聞いてくれて甘えさせてくれて、誰かといたい時にいてくれて」
「うん」
「この人話聞いてくれないし甘えさせてもくれない。修行僧だから私に触る気もないみたいで、本当にただいるだけだけど……急いで帰って来てくれた。必死に言い訳してる」
「だな」
「…なんか私の事好きみたい」
自分で言って思わず笑ってしまった。
「俺もそう思うよ」

そう言って笑い返してくれた広瀬にさつきは心底ほっとした。
広瀬は強引に迫る事で秋山が必要なのかどうか選択させようとしたのだとさつきは思ったのだ。
その答えを聞いた上でどうすればいいのか、どうしたいのか、広瀬はさつきに考えさせようとしたに違いない。きっと。


「私甘え過ぎてたね」
俺じゃなくて秋山にしてごらん、話してごらんと、やんわりとこのままじゃ駄目だろうと広瀬は言い続けてくれていたのに。
「…卒業します…」
意味は伝わったようで広瀬はくすくすと笑った。

「無理のない程度でいいよ」
「あー…でも最後に一回だけいい?」
「目の前にいるけど」
「いいもーん」

和やかに笑うや、さつきは両手を広げた。




(は?)
何これ。秋山は絶句した。さつきが広瀬を抱きしめている 両手で輪を作って広瀬を拘束している。
色々突っ込みたい所がある。
まず相手がおかしい。

「広瀬さんさっきのすごかったーかっこよくてドキドキしたー私が広瀬さん選んでたらどうするつもりだったの?」

ちょっと待て。何の話だ。

「それならそれでよかったよ」

広瀬がそう言えばさつきがきゃらきゃら笑う。

「あれ素?」
「まさか!昨日読んでた小説があんな感じだったんだ。…もうあんなのは勘弁してくれよ」

全くもってついていけない。

「はぁ……本当に…ありがとう」
「うん」
「広瀬さんほんと好き。大好き」
「はいはい。分かったから先に着替えてきなさい」
「はーい」

呆気に取られたままの秋山を完全にスルーして、さつきはパタパタと部屋を出て行ってしまった。


「今の」
なんだ。
秋山の口からポロッと零れた言葉を拾うや、広瀬はわざとらしく溜息を漏らした。

「言っておくが嫉妬は筋違いだぞ。お前がきちんとしていれば俺はあんなことしなくていいんだからな」
「………」
「わかる?俺お前の代わり。お前がしないこと全部俺がやってるの」
「………全部?」
「全部」
さつきの話を聞く事も一緒にいる事も、その他も全部。
「ちょっと待て。その他ってなんだ」
「気になるなら本人に聞けばいいだろう」

ああもう腹立つ。

そう思ったのが露骨に顔に出たのか、広瀬が声を上げて笑った。
「安心しろよ。何もない。誓って何もない」
「…悪い」
それはもう、色んな事に対して、だ。冷静に考えれば、そもそも文句など言えた義理ではないはずだ。
「俺は部屋に帰るから、戻ってきたらちゃんと話聞いてやれよ」


「あれ?広瀬さんもう戻っちゃうの?」
部屋の入口で行き会った広瀬にさつきは思わず引き止める風に声をかけた。今この場に置いていかれるのは正直辛いものがある。
「俺抜きで話せるだろう?」
そりゃそうだけど。

「あー、そうだ、さつきさんひとつ教えてやるよ。あのね、この家の壁は薄いんだ」
「は?壁?」
「だから察してやって。本当に修行中かもしれないけどさ」
「……あ?…あ…そっ、それは大変失礼を…」

道理で広瀬は泊ってきたらとか言っていた訳だ…
秋山を見て何となく謝ってしまった。


出て行った広瀬を見送り秋山の前に座ったものの、落ち着いてしまえば酷く居心地が悪くてさつきは結局黙りこくってしまう。
秋山も暫く無言を貫いていたが、突然名前を呼ばれ、さつきは思わずビクッとしてしまった。

「怖がらなくていい。怒ってる訳じゃない。…その、悪かった。ごめんな」
「あー…もういいよ。疲れたでしょ?準備するからお風呂入って、少し早いけどもう休もうか」

ちゃんと話せと広瀬は言ってくれたのに、ついいつもの逃げ癖が出て。
しかしそれを察した秋山がすっと目を細めたのだった。

「よくない。俺はお前にそんな風に我慢させていたんだな」
「え?や、だから別に」
いいよ、と言おうとして目の前の男に遮られる。

「お前、思う事をどれだけ俺に言えた?もういいで終わらせて…広瀬に全部言っていたんだろうが」
「…うん」
「俺はお前があんな風に怒るのも知らなかった。あまり縮こまるな。お前の普通でいいんだ」
「そんな、私そんなつもりは」
「さつき」
「悪かった」
「…はい…」
こくんと頷けば、秋山がホッとしたように小さく笑った。


「来週でいいか」
何の事かと思えば「今日の埋め合わせ」。そして「土曜から出て温泉にでも行くか」と。
お出かけのお誘いは嬉しい。でも、秋山は忙しいだろうに貴重な休みを潰すのはどうだろう。

「ありがとう。でも埋め合わせなんていらないよ」
今日だって結局自分のわがままだったのだし。
それに特別な事をしてほしいなんて思ってないし、第一秋山は今日が自分の誕生日だなんて知らない筈だし。

「お前な…(全然分かってない…)誕生日なんだろうが」
「え、何で知ってるの!?言ってないよね?」
「そういう事はこれから広瀬じゃなくて俺に言ってくれ。遅れて悪いが、来週なら俺も算段がつく」
「…じゃあ」

広瀬さんの予定確認するねと言った途端、秋山が盛大に苦笑した。

「広瀬誘ってどうする。二人でだよ。修行僧の方がいいならそれでもいいが…誘うか?」
「誘わない」

即答すれば笑い声が部屋にあふれた。

「おめでとう」
「ありがと。…あの、さっきはごめんなさい。私酷いこと沢山言って、ほんとに」
「いや、いいんだ」
「あの後大丈夫だった?」
「………」


さつきからすれば本当に悪いことしたという気持ちだったのだが。
ふと思った。
あれだけ大きな声を出したのだ。隣室にいた好古たちには丸聞こえだっただろう。
思わずといった風に黙り込んでしまった秋山を見て、あのあと何があったのかさつきは大体察してしまった。

「あの、ごめんね…」
「…………………ああ」

秋山は出て行ったさつきをすぐに追いかけようとしたものの、隣室の兄らに捕まって怒られ、「おじさん修行僧なの?海軍さんじゃないの?」 という意味の分かっていない姪の問いで笑い者にされ、つまり散々な目に遭って帰ってきたのだった。
自業自得といえばそうだろう。
そうだろうが。

「…さつき、悪いが暫く兄の誘いは断ってくれ…」

当分兄宅には行けないと思う秋山だった。



おしまい!

(12/5/25)
「広瀬さんほんと好き。大好き」言い換えると「お父さんほんと好き。大好き」


wavebox(wavebox)
prev | M&S |

top