「ごめんなさい、好古さん。今日は帰ります」
隣室で騒いだ事を謝って、折角誘ってくれたのに中座しようとしている非礼を謝って。
鏡を見なくても分かる。泣いてはなくても目の周りはきっと赤くなっている。
「ああ。またおいで」
それでも何も言わずに鷹揚に笑いながらそう言ってくれるから、さつきはこの人の事が好きだった。
真之を通じて知った人であったけれど、さつきが結構いける口だと知ってからは好古は時々飲みに誘ってくれていたのだった。
それは真之や広瀬が出張でいない等、さつきがひとりになる時に限られてはいたのだけれど。
つまり同居人は知らないが、ふたりは年の離れた飲み仲間、だったりする。
「如月さん、今日は楽しかった」
「また飲めるか?」
「うん、私もすごく楽しかった。ありがとう。…また一緒に飲みたいな」
「本当にな」
「お前らもまた来たらいいだろうが」
好古の一言で笑いが生まれる。
若い将校たちとは年も近いし酒が入った事で会ってから短時間であるのに、驚くほど急速に仲良くなれたのだった。
この場を去るのが残念な程、楽しい酒だったのに。
「如月、人力が来たぞ」
ひとりが呼びに行ってくれていたようで、玄関先まで出れば人力車が既にさつきを待っていた。
車夫に麻布までと告げると車が走り出す。振り向いて頭を下げると、何人かが手を振ってくれた。
「広瀬さん…わたし、真之さん、お、置き去りにして来ちゃった…」
「へ?」
広瀬は思わず間抜けな声を上げた。
「す、好きだって言ってくれたのに、あんな所で大声で怒って、私酷いこと沢山言った…ど、どうしよ」
帰るなり自分の顔を見て、泣き出しそうな雰囲気でそんな事を言いだした同居人だった。
(あンの馬鹿…)
上手くやれよと内心毒づきながら、
「ここ玄関先だから上にあがろう?ほら」
その背に手を添えて広瀬はさつきを居間に導き、座らせて茶瓶に残っていた茶を淹れてやる。
「だってあの人怒ってたの。だから私も思わず憎まれ口きいて、…なんで?なんで怒ってたの?…勝手に約束したのも誘われたからって好古さんのとこに行ったのもそんなにダメだった…?」
しかし湯呑には口も付けず、さつきはぼんやりと畳の目を見つめていた。
「好きだって、でも何もしてこなくて女としても見られてないみたいだし、私って…」
ぽとーっと畳に雫が落ちる。
「…一体何なのかな…」
「ああ!よしよし。ちょっとこっちおいで」
なんて寒々しい。
見ていられなくて、広瀬はこちらを見上げたさつきの両腕を自分の両手でさすってやった。
しかしこれはもう当人同士で解決すべき問題で、広瀬が間に入るような話ではなくなっている。
(だからちゃんと相手してやれとあれほど…)
溜息だって吐きたくなる。
「秋山もきっともうすぐ帰って来る。だからきちんと話しよう。な?」
そう言われてさつきは無言で頷いた。
帰って広瀬の顔を見たら少し落ちついたのだ。いつもいつも困らせるような話ばかりを持ちこんでいるという自覚はさつきにもあって、
「ん。…ごめん…私広瀬さんに甘えてばっかりで…」
「田舎に妹がいるんだ。君と同じくらいのね。さつきさんしっかりしてるけど、時々見てて危なっかしくて…なんて言うか、似ても似つかないんだけど」
「思い出す?」
肯首した広瀬に思わず笑ってしまったのだが、
「広瀬さんの妹かあ…それは光栄だなあ」
そこでふっと会話が途切れた。
「…どうしたの?」
「別に………妹じゃなくても」
「え?」
「妹じゃなくても、いいんだが」
突然変わった声音に、さつきは反射的に目の前の顔を見上げた。
(わ)
近い。
広瀬との思わぬ近さにどぎまぎする。おかしい。いつもなら平気な距離である筈なのに。
何故か頭の中で警鐘が鳴り、さつきは笑いながら、しかしさりげなく広瀬と距離を取ろうとしたのだが、それと同時にすっと伸ばされた手が頬を撫でたのだった。
「……(うわっ)」
あまりに予想の斜め上を行く広瀬の行動に体が固まる。声も出なかった。
「そんなに秋山がいいのか?」
「え」
「俺ならこんな風に泣かさない。もっと君を大事にする」
「…あは、広瀬さん、なに冗談言って」
わざと笑ったが、顔は自分でも分かる程盛大に引き攣っている。
誰だこれ。
「冗談?まさか。俺はこんな事で冗談なんか言わない」
いつもさつきには柔らかい話し方をしてくれるのに、いきなり男友達に話すような口調になっている。
「どう?俺に乗り換えない?」
いつもの通り、警戒心を欠片も抱かせない笑顔で、いつも励ましてくれていたその口でそんな事を言う。
そのまま拳ひとつ分くらい距離を詰めて来た広瀬に、さつきはのけぞる事もできなかった。
(12/5/18)
……あれ?
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