fall in the hole:落っこちる



ふとした瞬間の様子が違うことに気がついたのはいつのことだったのか。
ずいぶん昔のような気がするし、昨日のことのようにも思える。
ふたりになった時にどうしたのかとその様子を指摘すると、彼女はひどくうろたえ狼狽した。
そうして全身で話すことを拒否するものだから興味と少しばかりの心配が重なって秋山は無理矢理口を割らせたのだった。
「…が好きなの」
長い長い沈黙の後、彼女は蚊の鳴くような音で広瀬が好きだと言った。

――なんだそんなことか。

そう思って笑った秋山は、今であればその時の己をデリカシーもなければ空気も読めない男だったと思う。
無言でがつがつ肩を殴られ、さすがにムッとして相手の手首を掴みうつむき加減の顔を覗き込んでぎょっとした。
「気付かれたくなかった…」
感情の高ぶりからかさつきの口はわななき、瞳は随分うるんでいて秋山は生まれて初めて女を泣かせたことを知った。
秋山が思う好きとさつきが思う好きは違っていた。

あの時羞恥と怒りで取り乱したさつきは、開き直ったのか秋山とふたりの時は感情を隠さなくなった。
ふたりきりになるといちいちあーだこーだ何があったどうした。
正直なところ疲れることも多く、邪険に扱うこともしばしばあったのだが、そのたびに「ちょっとちゃんと聞いてよね」と笑ったり泣きそうになったりと忙しかった。
同居し始めた時の態度はどこへいったのかと思う変貌ぶりだ。
女は強いが従順でおとなしいものだとばかり思っていたが、さつきは、おそらく今の男が普通に思い描く女とは随分掛け離れていて、感情豊かで自由だった。
それが共にいて飽きを感じさせない。

秋山はさつきの話には特に答えを与えない。聞くだけだ。
さつきも秋山になにかを求めている訳ではなく、ただ話をするだけ。
そんな関係だったが、いつのことだったか話を聞いている内に彼女は 「昔はなにかのタイミングで、一瞬で恋に落ちるものだと思ってた」とか、 「でも日常の積み重ねが恋に変わることもあるんだね。初めて知った」とか、そんなことを言い出して笑った。

息を飲んだ。
今まで共に暮らしてきたのはこんな女だっただろうか。
小説の登場人物たちが恋に落ちる様子はいとも簡単にわかるのに、同じ屋根の下に暮らす女の日常が知らぬ内にそんなものに変わっていたとは気がつかなかった。
恋に落ちた人間というものを初めて目の当たりにした。



こっぱずかしさフルスロットルの第1話秋山視点。すでにこの話で伏線が貼ってあって笑える。


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