1.崩壊する





開いた双眸に映ったのは、見慣れた自分の部屋では無かった。
肩から胸元は隠されることなく剥き出しでひんやりとした空気とじかに接しており、それが昨日、自分の身の上に起った出来事をまざまざと思い出させた。

背後にはいつもは無い筈のぬくもりがある。
さつきを捕まえるように抱きこんでいる男はいまだ起きる様子もなく、腰に巻き付いた腕をそっと緩めると静かにその拘束から抜け出した。
部屋に脱ぎ散らかされたままの着物を拾い纏う。 
畳まれる事無く放置されていたそれには若干皴が寄っていた。
溜息がひとつ落ちる。

鏡も見ず櫛も使わずにひと纏めにした髪は確かめるまでもなくぼさぼさで、自分は今きっと酷い格好で酷い顔をしているに違いない。
幾ら慣れたとはいえこの状態で仲良くしてくれているこの屋敷の人たちには会いたくない。
それに今顔を合わせた所でちゃんと笑えるか分からなかった。






 
さつきは歴史上の人物として桐野利秋という男を知っていた。
春風の吹くような爽やかで男らしい男というイメージで、さつきが辺見十郎太に拾われ桐野の屋敷に住むようになってからもそれは変わらなかった。
見ると聞くとでは大違いというが、実際に会うと桐野は持っていたイメージより好感を持てる男で、思えばそれが始まりだったのかもしれない。

ほのかに憧れを含んだ好感から小さな恋情が生まれるまでに大した時間はかからなかった。
しかし桐野はさつきにとって歴史上の人物であり、そういう感情で触れるのは許されないと思ったのだ。
だから結ばれたいとかそういうことは思わず、ただ見ているだけ。
それだけで満足だった。

「…好きなんか」

だから、桐野の従兄弟――別府晋介にそう聞かれた時は驚いたのだ。
別府はさつきがどう言い繕っても誤魔化されてはくれず、

「赤うなって言われてもな」

妙に温かいまなざしでそう言われてしまうと、さつきはそのまま目を逸らすしかなかった。
しかし さつきには桐野とどうこうなろうという気はない。
別府もその辺りは さつきの雰囲気から察して彼女の心を汲んでいて、協力しようとか、そうした事は一切せずに、ただ一緒に話をするだけ。
さつきにしてもそれで十分で、気持ちを理解した上で話を聞いてくれる別府の存在は酷くありがたかった。
男女間の友情が成り立つというのなら、さつきにとっての別府は紛れもなく友人だった。

その別府が桐野邸に泊まりに来たのが昨日の事。
皆でわいわい騒いで遅くに散会になり、その時には桐野の姿は見えず、聞けば途中で退席したのだという。
時間も時間だしもう寝てしまっただろうと自室に帰ろうとした時、

「…っ!……!」

奥の部屋から洩れ聞こえたのは酷く魘された桐野の声だった。
幸吉を呼ぶべきかもしれない。
そう思ったがしかし、尋常ではない様子にさつきは躊躇いなくその部屋の襖を開けた。

「きぃさん、きぃさん、大丈夫?」

仰臥する桐野を軽く揺すると、うっすらと瞳がのぞく。
それにホッとして枕元に置いてあった水差しに手を伸ばした時、いきなり後ろから抱きすくめられた。

驚いて振り向こうとすると襟足に唇を落とされ、腰に回された手は器用にも帯を解こうとしていた。
(なんで?なんで?!)
酷く混乱した頭でも今から何が起ころうとしているのか位の判断はできる。
さーっと血の気が引く音が聞こえた。

「い、いやッ!」

腕を振り解こうとすると比例して拘束する力が強くなり、そのまま布団に引き倒される。
覆いかぶさって来る男を押しのけようとするも、さつきの力では桐野に敵う訳もなかった。

「…っ、やだ!止めて、止めてきぃさん!」

その声に緩んだ衿元を更に開き唇を寄せようとしていた桐野がすっと顔を上げる。 

「!」

見えた桐野の瞳の昏さに、さつきはひゅっと息を飲み込んだ。
途端に体が震えだし、喉を締めつけられるように拒絶の声が出なくなった。

さつきの知っている桐野は、厳しくても柔らかな光りを瞳に湛えた男だった。
知らない。
こんな男は知らない。
こんな、底の見えないような暗さしかない瞳の男は。

怖い。
そう思うと震えで逃げを打つ事も出来なくなった。
恐怖に支配された体は容易に暴かれ抵抗もできないまま揺さぶられ、さつきはそのまま気を失った。


(11/05/18)(11/04/11)