「さつき」
桐野の部屋を出て静かに襖を閉めた時、背後から掛けられた声にさつきの肩が大きく跳ねた。
今一番会いたくなかった人物が廊下の向うに立っている筈だ。
さつきはぎゅうときつく目を瞑り深く息を吸うと笑顔を作って振り返る。
「おは、よ」
「ああ。
少し首を傾けながら別府は言葉を切るとさつきを見つめ驚いた顔をしたが、やがて思い当たる所があったか、「ああ」と微笑った。
「……良かったな」
別府はさつきの気持ちを知っていた。
桐野への慕情も、しかし桐野と結ばれたいとは思っていない事も。だから助力を言い出しそうな別府の心遣いをやんわりと拒んでいるという事も。
だから部屋から出てきたのを見られて、蔑まれるのではないかと身が竦んだのだ。
しかし与えられたのは温かな祝福で、だからこそさつきは余計に彼の顔を見る事ができなくなった。
違う。
違うの。
口元からは息だけが漏れ、知らず瞳から零れた雫がぽたり、ぽたりと廊下に小さな染みを作る。
「おっ、おい」
俯いたまま急に泣き出したさつきに別府は驚き、慌てて首にかけていた手拭いをその目元に押し付けてくる。
「違、ごめ、ごめん、だいじょぶ、大丈夫だから」
今までずっとさりげなく支えてくれた別府に、何が起きたかなんて話せるわけがない。
聞かれたくない。聞かせたくない。
しかも彼が敬愛する従兄の話だ。
「…本当か?」
その確認に軽く頷くと、納得したのか、やや訝しみを残しながらも別府も安心したように息を吐く。
そのまま何かを尋ねてこようとした別府を「ごめん」と遮って、自室へと戻る廊下を歩き始めるや、さつきの顔からは張り付いていた笑みが消えた。
部屋に戻ると着替えを引っ掴んで走る様に風呂場へと向かい、脱衣所で全てを乱暴に脱ぎ捨てる。
誰が入ったのかお誂え向きに風呂は立てられていて、桶で乱暴に湯を掬うとさつきはそれを何度も被った。
明るい所で見ると体には至る所に鬱血痕があり、夜の出来事が夢ではなかった事を再確認させる。
「――――……」
皮膚が破れそうな力で腕や首元を何度も手拭いで擦るが、それと分かる程の跡は消えはしなかった。
(どうしてこんなことになったんだろう…)
ぺたんと風呂場の床に座り込む。
人が違っていたと言われれば、昨夜の桐野はまさにそうだった。
そうした行為は初めてでは無かったが、あの変貌ぶりが怖くて体が動かず、同意もなく心を開く前に体を開かれて、結局為されるがままに翻弄された。
さつきにとって桐野は優しい男だった。
人の話を聞かない人では無かったし、決して乱暴するような人でも無かった。
接する人達を完全に理解できるだなんて思っていない。知っているのはその人の一部だろう。
それは桐野についてだって同じだろうと思いはしたけれども、頭のどこかで信じたくないと思う自分がいる。
それでも体に残る跡はまぎれもない本物で、見誤っていたのは自分だと嫌でも認識した。
「……好きだったのにな……」
言葉と一緒に涙が一粒転がり落ちる。
冷えた体と同様に心もまた冷えてしまった。
それでも時間はいつも通りに過ぎ去り、朝食はいつものメンバーでいつも通りの賑やかさだった。
桐野の顔は怖くて正面から見られず、簡単に、周りから見て不自然に思われない程度に簡単な挨拶をすますと、そそくさと席につく。
桐野の様子をこっそりと伺うと彼もまた全くのいつも通りで、なんとも形容しがたい感情が心に渦巻いた。
だがふと思う。
昨日の桐野の魘され方は普通ではなかった。
あんな様子、この屋敷に来てから見たことも聞いたこともない。何がしかの注意を促された事だってない。
…何かの弾みだったのだ。きっとそう。
あんなことはもうきっとない。
だから大丈夫。
(だから…忘れよう?)
止まっていた箸を動かし、顔を上げるといつからこちらを見ていたのか、対面に座る別府と視線が重なった。
先程変な別れ方をしたから心配してくれているようだった。
(大丈夫だよ)
口の端を綺麗に上げて見せる。
今度は自然に笑えたはず。
しかしそれも食後間もなく困惑に変わった。
「…え?何のこと?」
お部屋、すぐに移りますか?と尋ねてきた志麻に、覚えがないとさつきが返すと、
「御前の隣のお部屋にって聞いているんですけど…」
「……そ、う…」
思わず息が詰まった。
手伝いますね、と言う少女にかける言葉を失ったまま自室に入り、少ない荷物を纏める。
なんで。ねえどうして。どういうこと。何かの弾みじゃなかったの?
――またあんな目に遭うってこと?
そう思うと、小刻みに手が震えて鞄のファスナーが上手く閉まらなかった。
「さつきさん」
名を呼ばれるのと同時に、脇から手を添えられファスナーを引かれる。
嘘みたいに簡単に閉まるそれにぼんやりしていると、
「大丈夫ですよ。御前は優しい方ですから、心配いりませんよ?」
聡い子だ。
志麻は部屋を移ることの意味をよく分かっている。
でも違うのだ。
志麻は――別府も、桐野とさつきの関係の根本的な所を間違えている。
「うん、…ありがとう…」
それでも「さつきさんなら大歓迎。私も嬉しい」と心から喜んでいる志麻に、それ以外の何が言えたのだろう。
さつきにとってこの屋敷に集まる人々は恩人で、救いで、かけがえのない『家族』だった。
この時代に突然落とされた右も左も分からない不審者を疑う事もせず受け入れてくれた場所。
そんな自分の周りの人間が自分のせいで傷つく顔だけは見たくなかった。
ましてや彼らが慕う桐野のことで。
自己犠牲なんてそんな綺麗事を言うつもりはないけれど、自分が我慢することで八方丸く収まるならそれでいい。
それに…
部屋が桐野の隣になるだけ。
それだけで昨日のようなことが起きるかどうかなんて、まだ分からないのだから。
そう自分に言い聞かせながらさつきは何かを諦めた。
(11/05/18) (11/04/12)