(今日ももう起きてるな)
炊事場から聞こえて来る音を耳にしてそう思う。
首筋をカリカリ掻きながらくぁと秋山は欠伸を漏らした。
朝顔を洗うと、とりあえず炊事場に顔を出すのが秋山の最近の習慣だ。
ひょいと覗くと向こうの方で頭の高い位置で一纏めにした茶色い髪がゆらゆらと揺れている。それを見て馬の尻尾みたいだと思うのも毎度の事。
その様子をぼんやり見ている間に、
「おはようございまーす」
「ああ、おはよう」
軽く振り返って言葉を交わし、すぐに彼女が視線を正面に戻すのも毎度の事だ。
今も食事を作っている最中で、菜箸で何やらかき混ぜている。
「広瀬は?」
「外で体動かしてますよ。もうご飯できるから声掛けてもらえますか。っつーか皿運べって伝えて下さい。あ、ついでにお櫃持ってって下さい」
そこ、と示されたお櫃を秋山は黙って持ち上げた。
さつきが同じ家で生活するようになり暫く経つ。
三人ともそれなりに共同生活に慣れ、当初は横たわっていたぎこちなさが段々と薄れてきていた。
とはいえ、互いに慣れてきたといってもカルチャーギャップの溝が埋まるかはまた別の話で。
こちらの日本と彼女のいた日本。
似ているようで所々相当の違いがあるように秋山は思う。
例えばあれだ。
「っつーか皿運べって伝えて下さい。あ、ついでにお櫃持ってって下さい」だ。
さつきが炊事を始めた当初からこうで、もちろん初めは至極丁寧な言葉使いであったのだが言っている内容は全く同じ。
頼まれた方からすると、初めは驚いた。そんな事今まで言われた事がない。
男所帯ならまだしも家事をする女がいる家ならばこうだ。
「男の人にそんな事させられません。持って行きますので座っていて下さい」
こちらの日本ではこれが普通。
しかしさつきにとってはそういうものではないらしい。
驚いたこちらに驚いていた(こちらだって驚かれた事に驚くのだが)。
「え、と。手が空いていたらで、いいんですが……」
思わず黙ってしまった男ふたりに、さつきは控えめに言い直したのだった。撤回はされなかった。
何も言わずに櫃を抱えたのは広瀬。
動いた同僚に釣られて皿を運んだのは秋山で、居間に移動して思わず顔を見合わせてしまった。
ふたりが炊事場を出てからもさつきは何かやっているのか、「ああっ」とか「ぎゃっ」とか声が聞こえてくる。
「何時から始めていたんだ」
「結構早かったが」
広瀬は基本的に早起きだ。その彼が言うのなら本当だろう。
そうして話している内にも、「うわわっ」、かしゃーんと何かの倒れる音が。
こんな様子、炊事に慣れていないとしか思えない。
「メシ……美味いと思う?」
「……どうだろう」
互いに苦笑いするしか無かったのだが、出されたのは普通の食事だった。
(あれ、)
(これは意外と……)
普通と言うか、あの様子から期待していなかっただけに美味く感じる。
黙々と箸を動かすふたりを見てどう思ったのか、さつきは頻りに様子を伺ってきた。
「ね、ね、大丈夫ですか?まずくない?食べられます?」
「いや、美味いよ?」
「ああ」
「ホント?あー良かった。勝手が違うからどうなる事かと思った」
お代りと広瀬が差し出した汁椀に味噌汁を注ぎながら安堵したさつきを後に、その日ふたりは出勤した。
その時から朝イチで炊事場を覗き、(なぜか)そこに用意されている朝食の用意を居間まで持って行くのが秋山の日課になっているのだった。
(これが男の朝イチの仕事……慣れは怖い……)
広瀬を呼びながら秋山は苦笑いするのも毎日で、こうして今日も一日が始まる。
「あれ、おかえり……?」
帰って居間に上がってすぐ、さつきと鉢合わせした。
「どしたの。早いですね。ひとり?」
なんて首を傾げてはいるが、そう聞かれるのも無理はない。今は昼少し前だ。
視線を移すとさつきの手には皿。今から食事なのだろう。
外に出る用があり、方向が同じであったから秋山は家に寄ったのだった。時間も時間だしさつきを誘って外で昼飯でも食ってから出掛けるのもいいかと思って。
しかし彼女の手許を見て考えが変った。
「俺もそれ食いたい」
「え?オムライス?」
「オム……?」
「(オムライス知らんのか)……白いご飯ありますよ?そっちの方がよくないですか」
さつきが少々眉を寄せながら言っていた事に気がついてはいたのだが。
「いや、それがいい」
「……ひとり分しか無いから半分こになるけど」
半分に割ったオムライスの断面からは赤い飯が覗いている。
それを巻いている黄色い卵とで、鮮やかなコントラストになっていた。職業柄洋食には慣れている秋山だが、オムライスという料理は聞いた事がない。
(すごい色だな)
「ケチャップライスだよ」
見た事のない飯の色を悟られない程度に凝視したつもりだったのだが、オムライスを知らない時点で秋山が感じた物珍しさというのはばればれだ。
「ケチャップ……知らないか。ここにないんだよね。えーとトマトソースでご飯炒めたものです」
そんな事を言いながらさつきは様子を窺うようにしてこちらを見ている。
ひとくち。
「ん、美味い」
秋山の漏らした感想に気をよくしたのか、隣からは笑声が上がった。
「ここにはないって、じゃあどうやって」
「ケチャップ?……作ったの!すごくないですか?」
すごいも何も秋山はケチャップそのものを知らないのだが、さつきはにんまりと口角を上げながら、
「じゃーん」
ちゃぶ台の下に置いていた手帳を取り出した。
朝の残りの味噌汁を啜りながら秋山が手帳を覗く。
ケチャップ、マヨネーズ、胡麻ドレ、ポン酢、中華ドレッシングといった単語といくつかの材料が並んでいるが、当然の事ながらよく分からない。
「今はケチャップだけだけど、これだけあればレパートリーが広がるでしょ!」
(でしょ!と言われても)
秋山としては苦笑いするしかない。
それにしても、この家で暮らすようになってから炊事に手こずるさつきの姿ばかりを見てきた秋山としては、存外に美味いものが食えたり、こうして食事の工夫を重ねているさつきの様子がいまだにどうにもぴたりと重ならない。
(妙にちぐはぐなんだよな)
家事ができない訳ではない。道具の使い方を知らないだけだ。
それは彼女がこの家に来た当初から分かっていたが、生活上の常識がほぼ皆無なさつきの様子にはやはり驚いてしまう。
しかし彼女に生活感がない訳でもないのだ。
炊事洗濯は元いた所でもしていたようであるから。
(不思議だ。訳が分からん)
出会った時には怪しさ満載だったこことは違う日本≠ニいう言葉も「ああ、あるだろうな」と今なら違和感なく頷ける。
(この子がいた世界は一体どんな所なんだ)
生活様式というか、生活上で使う道具がこことは随分違うらしい事は分かる。
そして物理的な事以外でも、精神的な部分、例えば考え方が随分異なる点があるという事も分かっている。
しかし今まで何かと取紛れていて、改めてそういった話をした事がなかったと思い至る。
(同じ言葉を話して、ある程度同じ文化を共有しているようではあるんだがなぁ)
足りないだろうからと別に作られたおにぎりを食べながら考え込むと、視界の端でふわんと茶髪が揺れた。
「だ、大丈夫ですか?お茶入れますか」
急に黙り込んだ秋山に不安を覚えたのか、さつきが覗き込んでいた。
「あー……ハイ」
湯飲みを差し出すと「と言っても出涸らしですけどね」と笑いながら注いでくれる。
こういう所はその辺りにいる普通の女と変らないのだ。
「はぁ……一体何がどう違うんだ、ここと」
考えながら立ち上る湯気を見ていて、思わず声にして言ってしまった。
え、ときょとんとした表情でこちらを見るさつきとぱちりと目が合う。
秋山はバツ悪げに視線を浮かせた。
「さつきさんはその、家事は得意なのか?料理とか……」
今更そんな事を聞かれると思っていなかったのだろう。
秋山の言葉に目の前の彼女は更に目を丸くした。
「得意というか普通かなあ。人並みだとは思いますけど。なんでまたそんな……あ、そっか。秋山さん、手際悪いのに案外普通のものが出てくるって思ってる」
びしっと言われて、秋山は思わずごふっと噎せた。
「図星ですか」
「いや、そんな事は思って」
「思って?」
「……る……」
「ですよねー」
(怒らないのか……)
さつきは気を悪くした様子もなくころころ笑った。なんとはなく新鮮な反応だ。
「こっちは生活インフラが違い過ぎてちょっと大変で。でも大分慣れてきたし」
初めと比べればまし、などとひとりでぶつぶつ言っている。
生活インフラ?英語か。
普通にそうした言葉を使うのだなと秋山が軽く首を傾げると、それをさつきは違う意味で捉えたらしい。
「えっと、向こうではスイッチ押せば水も出るし火も使えるし、お風呂も勝手に焚いててくれるし」
(火も水もスイッチで?どういう事だ)
「洗濯物も洗濯機に放り込めばあらかた済むし、食事だってレンジがあれば……あ」
予期せぬ方向へと流れた話の内容に秋山は目を見開いた。
ただ驚きと共に耳を傾けている秋山に気付くと、さつきは急に話を切ってしまった。
「…………」
「そう言えば、前から思ってたんですけどお午餐ってどうしてるんですか」
かくんと秋山の肩が落ちる。
なんという分かりやすい話題転換。
秋山としてはもう少し続きを聞いてみたいところであったのだが、不都合でもあるのか、それともあまり話したくない事なのか。
(……今無理に聞く必要もないか)
そう思い直してさつきの話に乗った。
「役所の弁当」
「どんなおかず?おいしい?幕の内?」
随分矢継ぎ早な問い掛けにさつきの焦りが透けて見え、秋山は声を上げて笑ってしまった。
目の前の顔があからさまにホッとしたのを見て、突っ込まなくて正解だったと思う。
「そんないいものでは……第一まずい」
「職場のご飯ってそんなもんですよね」
安くてまずいのが相場のようなものだ。
「さつきさんこそ昼は?」
「いつもは朝の残りです。秋山さん出張が今日でラッキーでしたね」
そう言いながら彼女はにししと笑ったのだが、
「あーそりゃ……悪い事したな。俺がご馳走の上前はねたか」
「ご馳走?いやいやいやいや」
オムライスごときでと手をぶんぶん左右するさつきを見てまた笑い、空になった皿に視線を落とした。
「家が近かったら食いに帰るのにな」
それは隣に届かないほど小さな声だったのだ。それなのに。
「作りましょうか?」
至極自然な流れで耳に入った言葉にさつきを見ると目が合った。
「お弁当」
何をと問う前にそうきた。
「いや、それは」
ありがたいがそこまでさせるのは流石にどうだろう。秋山は思わず口籠る。
「大したものはできませんよ。ワンパターンになるし、前の日のおかずと朝ご飯が入る事請け合い」
「……」
返事のない秋山にさつきは更に付け加える。
「朝多めに作れば私は自分のお昼作らなくていいから楽だし。秋山さんと広瀬さんはランチ代浮くし、一石二鳥じゃないですか?あ?三鳥?」
「それで、嫌じゃなければ」
20100611
明治30年にオムライスはない(調べた)。ケチャップも日本には無かったそうで