「あんた誰だい」
台所でぼんやりとしていた時にいきなり掛けられた一声。
さつきは飛び上がるほどに驚いた。
だがそれは向こうも同様で、そもそも人がいると思っていなかったのだろう、体全体が強張っている。
見知らぬ人間だ。
そこへきて洋服は着ているし、この時代先天的なものでなければ茶髪の人間などいないだろう。状況から考えると自分がかなり不審である事はさつき自身にも分かるのだが。
(でも大声出されたら困るよー!)
「あ、あー、私、ひ、広瀬の遠い遠い遠い親戚です……」
もっとマシな嘘はつけんのか。
「へえ、広瀬さんの、ね」
向こうの言葉は棒読みだ。分かっているが嘘とばればれだ。
じろじろと上から下まで珍種を見るように値踏みされ、それはそれで気持ちのいいものではなかったがこの場合は仕方がない。
ただこの家の玄関には広瀬とも秋山とも表札は付いておらず、それで「広瀬」という名前が出てきたのなら、知り合いは知り合いなのだろうと婆さんは思ったらしい。
かなり怪しまれたものの適当に自己紹介し自己紹介され暫く話をしていると、この婆さんは随分と気の置けないフランクな人だという事が分かってきた。
千代と名乗った婆さんは、秋山と広瀬が雇っている飯炊き婆さんだった。
週に何度かこの麻布の家に通っていて、今日は偶々その日だったらしい。
(飯炊き?へえ、そういう職業もあったんだ)
さつきは素直に感心した。現代で言う家政婦に近いものだろうか。
(あ、という事は……)
「千代さん、大変言い難いんですけどちょっとお願いがありまして」
ぱんっと顔の前で両手を合わせて、この時代の一般人女性としては、恐らくとても恥ずかしいだろう頼み事を口にした。
「サラっとでいいんで、家事を一通り教えて下さい」
ぱかんと口の開いた婆さんの様子はとても印象的だった。
「さつきちゃん、本当に何にも知らないんだねえ」
甕に汲み置きされている水を指しては「飲んでいい分ですか」、洗濯板を見ては「実物は初めて見た」。
千代婆さんが火を起こそうとすると「マッチあるんだ……火打石じゃなくて良かった」。
買い物していても金銭感覚がよく掴めていない。ついでに土地勘も全くない。
「今まで一体どこでどうやって暮らしてたんだい。あんたまるで外国人だよ」
いちいちメモを取るさつきを見て、千代婆さんは呆れるのも通り越してとうとう笑い出した
「ホントですね……」
外国人か。
はははと乾いた笑いしか返せなかったがあながち間違ってはいない。
さつきにはこちらの日常生活に関する基本的な知識が完全に欠落していた。そう思われたって仕方ない。
千代婆さんと話している中で一番大きな情報は昨日からの同居人の事だった。
「え、海軍さん?」
「……知らないのかい」
「いや〜知ってます、知ってますよ!」
知ってる知ってるとごまかしながら脂汗が流れた。
(海軍の秋山と広瀬って。明治だし、そうだよね。な、何で気が付かなかったんだろう)
とは言え仕方ないと言えば仕方ないのだ。
彼らの軍服姿でも見ていれば流石に「あれ?」位は思ったかもしれないが、昨夜ふたりは着物であったし、今日起きた時には既に家にはいなかったのだから。
(確か日露戦争の初めで死んだ人と、何だっけ、浪高シの人だ。日本海海戦だ)
この場にふたりがいなくて本当に良かった。
本人を目の前にその話を聞いていたら、少なからぬ動揺を大っぴらに見せる事になっただろう。
「将来の海軍の偉い人か……」
「ま、そうなれたらいいけどねェ」
将来の提督様だよ、と自分で言っておきながら千代婆さんはさつきの独り言を軽く笑い、流し場で夕飯用の野菜を洗い始める。
あ、私もしますなんて言って千代婆さんを手伝いながら、さつきはどうしようと困惑せざるを得なかった。
あのふたりはきっと海軍の枢要な人物と付き合いがあったり、遠くない将来本当に海軍の中枢に入っていくであろう人たちだ。
それだけに恐ろしかった。
スマホに興味を持たれたり、さつきが持っている近現代史の知識を彼らの前でうっかり口走ったりしたらどうなるのだろう。
これからの歴史に影響が出るのではないだろうか。
ぞっとした。
本当にここにいていいのだろうか。怖すぎる。
かといって他に行く所がある訳でもないのだから本当に困ってしまう。
それなのに夕飯を作る間に帰って来たふたりが台所に現れると、どうしようと思うよりも見知った顔が帰ってきたとホッとする気持ちの方が大きくて、余計に始末に負えなかった。
「あの、それですごく今更なんですけど……私本当にここにいていいのかなあ」
夕飯後お茶を飲みながら、そんな事を言い出したさつきにふたりは一瞬黙り込んだ。
「本当に今更だ……」
広瀬の呟きに「うん」と頷くと秋山が言葉を継いだ。
「いいも何も、行く所がないんだろう。ここに住めばいいと言ったのは俺たちだし」
「やっぱり男だけの所にいるのは嫌か」
「い、いや!違う。そうじゃなくて」
「そうじゃなくて?」
「あー……」
「そうじゃなくて、何」
引き下がる様子のない秋山に、む、とさつきは軽く口をとがらせた。
「おふたりともとってもいいお年っぽいですが、お国元に待ってらっしゃるイイ方がいたりするんじゃないですか?私みたいなのがいたら具合が悪いのでは?ご家族とか職場とか……体面的にも、色々と」
確かふたりとも独身主義者だったと物の本で読んだ覚えがある。
が、(ちょっと嫌味を込めて)そう言ってみる。
理由としては不自然ではない筈だ。
最も本当の理由は言えたものではないが、後半の部分、体面云々について大丈夫かと思った事は事実だ。
「あのね、俺も秋山も独身主義だからそんな心配はいらないし」
「はぁ」
「俺たちの体面とかはあんたが気にする事でもないだろう。それに現実問題として行く所は無いのだし」
「まあ、そうですけど」
広瀬と秋山は浴びせ掛けるようにして言い聞かせてくる。
「帰りに秋山と話していたのだが、さつきさん、家事手伝いで働くという形にしないか?それなら小遣い程度で悪いが給金も出せるし、ここでする事があれば気兼ねしなくてすむだろう」
「そうしてくれたらありがたいんだ。食事がな、パンとかパンとかパンとかになるんだよ、こいつとふたりだと」
「そりゃこっちの台詞だ。それに千代さんのメシはまあ、ああだし……」
遠慮なのかまずいという部分を広瀬は濁した。
「……あは、あはは、は」
「ん?」
「おい?」
(ここにいていいんだ)
笑い声を無理に絞り出したのは、そうでもしないとちょっと涙が出そうだったから。
話をこちらから切り出して、じゃあ出ていけと言われたらどうしようという不安もあったのだ。だが今、それは消えた。
そしてそれ以上に昨日会ったばかりで見るからに不審そのものの自分を改めて受け入れてくれた事が、こんなにも嬉しい事だとは思わなかった。
いずれ歴史の主人公になるだろうふたりと暮らすのに怖気付く気持ちは依然としてあるけれど、自分さえ気を付けていればきっと大丈夫だ。
家事をしてくれと言うのならできるところまでやろうじゃない。
おいしいご飯が食べたいと言うのなら精一杯作る。
頑張ろう。
さつきはそう心に誓った。
「だ、大丈夫か」
「うん。大丈夫です。……ありがとう。本当にここに置いてくれてありがとうございます。拾ってくれたのがふたりで、本当に良かった」
そうしてそのまま俯いたさつきの肩を起こそうと秋山が少し距離を詰めた時。
「ねえ、でも何で独身主義者が一緒に住んでるんです?もしかして……だ、男色……?」
「……」
「……」
何この子。
秋山と広瀬はこれからが色々な意味で前途多難だと思わざるを得なかった。
090629/090725
relief:ホッとしました…
スイマセンスイマセンスイマセンスイマセン