ジェノスは少し前から「いつか」の話をするようになった。
「いつか俺がいまよりもっと強くなったら」
「いつか俺が狂サイボーグを倒したら」
「いつか災害レベル神が現れたら」
不確定で曖昧な未来の話など、出会った当初のジェノスは口にしなかった。
今日は、明日は、明日こそは、と目の前のことに精一杯でいまを生きることしか考えていないような、そんな様子で、今日明日に強くなれるなんてことないのに、ジェノスもそれをわかっているのに、仇を打つ強さを求めて止まない姿はたまに、感情が薄れた俺の目にも痛ましく見えた。
かわいそうなジェノス。
そのジェノスがいつからか「いつか」と曖昧な未来を指すようになったのだ。俺は秘かに、それを快く思っている。
プロのヒーローになったり、隕石ぶっ壊したり、なんか色々倒したり、そうやってまぁジェノスが来てから「なんか色々」はあったけど、改めて振り返るとそれらはどれも取り留めない。少なくとも俺にとっては「日常」だとか「そんなこともあったか」程度の言葉で片付くことだった。ジェノスにとってその日々がどんなものであったかはわからないけど、俺があんまりやる気なく、のんべんだらりと構えてるから、もしかしたらジェノスの急く気持ちもそこで幾らか和らいだのかもしれない。
そんなふうな、取り留めのない日々の暮らしの中で、きっかけなんて無くなだらかに訪れたであろうジェノスの変化は、それだけ先を見据えることができる余裕が生まれた、ということなのだろう。多分。
俺の方も、取り留めのない日々の中でなだらかに何かを変化させていて、先生、先生、と俺の後をついて回るジェノスの姿を、かわいそうと思うよりも、いつからだか、かわいいと思うようになっていた。
かわいいジェノス。
午後、17時頃。いつものスーパーの帰り。いつもの川沿いの土手道。二人、買い物袋をぶら下げて歩くところもまるでいつも通り。
夕日が照らす金髪はきれいな橙に染まるから、俺はこの時間帯にスーパーに行くのが好きだった。
盗み見た横顔は遠くを見るような、定まらない眼差しをしていて、ジェノスは今日も未来を作る「いつか」の話を口にする。
「先生。いつか、民衆が先生の強さと自らの愚かさに気づいたとき、世界はまるで姿を変えるでしょう。先生はきっと、この世界のよすがになり、奇跡になり、宝になり、そうして全人類の認識の元、この世のヒーローになるんです。それでも先生のことだから、多くを望まないのでしょうね。その驕らない誠心、清らかな心、ヒーローとしてのあるべき姿に胸を打たれた若者たちがいつか先生の元を訪れて弟子としてお傍へ身を置くことになったとしても」
「長い話だな」
「俺が、先生の一番弟子ですから。ずっと」
ずっと。一番弟子。
いつからか「いつか」を口にするようになったジェノスは、その「いつか」に俺を混ぜるようにもなった。
ビールのCMのバックに映る海を見てなんとなく「あんなきれいな海見たことねーな」と言えば「ではいつかもっと綺麗な海を見に行きましょう。すでに何個かオススメはあるのですが、自信を持って一番を見せられるようリサーチしておきます」と、頬杖を付きながら半目で発した言葉に返すには熱がこもりすぎた提案をして、俺はそれをおざなりに受け入れた。
フブキの置き土産のケーキが美味しかったから「これうまいな」と言えば「いつか必ず俺がこれよりうまいケーキを持って帰ります。今はこれで我慢してください」と忌々しげに眉を寄せまだ一口も食べていない自分のケーキを差し出した。食べもせずにこれよりうまいケーキを探すのはむずかしいんじゃないかと思い一口分フォークに刺して「味見しとけよ」と差し出せば「地獄のフブキめっ」と言いながらも律儀に「いただきます」と発してから一口分のケーキを食べた。
格闘ゲームでキングを倒せなかった悔しさを家に持って帰り「あんなのズルだろ! はめ技とか卑怯だ!」と愚痴れば「なら複数対戦が可能なゲームで俺と徒党を組み共に闘いませんか? そしていつかあのキングを倒せた暁には赤飯を用意しましょう!」とゲームに対するものとは思えないほどの闘志を燃やし息巻いたり、だとか。
そういうふうに俺を織り混ぜながらジェノスが発した「いつか」には成し遂げられていないものもあれば実行されたものもあって、件のケーキは先週実行済みだったが、キングはまだまだてんでダメだ。
並べられた幾つもの「いつか」をぽつぽつと思い返して、夕暮れに染まるジェノスを見た。視線を向けた先の、黒に縁取られた瞳はいま俺を見ていて、目が合えばそれだけで引き結ばれたジェノスの唇は綻ぶ。
橙に照らされた髪はさっきより少し暗くなっていた。夕日は奥から紺に変わりそうして直に夜が来る。夜の中で光る金色の眼も好きだった。さっきのこいつの言葉を考える。
ーーじゃあ、いつか、ジェノスの言うようなたくさんの未来がお前と、俺を、待ち構えているとして。
「お前はさ、ずっと弟子のままでいいの?」
投げ掛けた問いに返ってきたのは言葉ではなく沈黙。ジェノスは一瞬だけ目を見開き、次の瞬間、緩んだ口許はたちまちぴたりと線を引く。唇の造形美が際立つ形だが俺はさっきの、笑顔と呼ぶにはささやかな、柔らかい口許がまた見たいのだ。その綻んだ唇と一緒に浮かぶ表情が、好きだから。
そう思うのは果たして愛とは別の話なのか。
ジェノスはなにも喋らない。
いつか。一番きれいな海を見るのに。
いつか、一番美味しいケーキを一緒に食べたのに。
いつか。一番目出度い赤飯を炊く予定があるのに。
沈黙は未だ破られない。
いろんな一番を取ったり与えたりしながら過ごす日々は俺達の関係をひどく曖昧にさせた。
それまで一人でいるのが当たり前だったのに、二人でいるのがいつも通りの当たり前に変わって、いまではお互いがお互いの、一番一緒にいる相手なのだ。普通の師弟関係がどういうものなのかよくわからないけど、俺たちは少し、近すぎる気がする。師弟としては。それでもジェノスが「一番弟子がいい」と言うのなら曖昧になった関係は元通りの師弟関係に修復される。そうじゃない、違う答えを出したのならこの曖昧になった関係は、全く新しいものに生まれ変わる。
なにも言わないジェノスからフと視線を外し、ガサガサとビニール袋を揺らしながら沈黙が生んだ静けさを打ち消し歩く。ジェノスは少し遅れながら俺の影の隣、斜め後ろを歩く。
「サイタマ先生」
やっと喋っても名前しか呼ばないし。
フウと小さく息を吐き出しちらりと視線だけを向ければ、ジェノスは俺の影を見つめていた。しかし唇は「弟子のままでいいの?」と投げた問いの答えをいま漸く吐き出そうとしているのか、薄く開かれている。
影を見つめた瞳が、一体なにを決意したのか、ジッと俺を捉える。
お前がなにを答えとしようがバツをつけたりはしないけど、ただ俺はこの人生で一度ももらったためしのない、たいへんよくできましたの花丸を、たいへん好ましいお前につけたく思っているんだ。
「なに? ジェノス」
早く、と先を促したのはその眼差しに期待したからだ。
キングに勝ったら、と取っておいた一番目出度い赤飯を、返事によっちゃ今夜にでも炊いてほしい。俺の答えはそれだった。
いま、ビニール袋が余計な音を立てないように立ち止まる。振り返ったとき、さらさらと流れる風がジェノスの髪を幽かに揺らした。「俺は、」と発する声はいつもより低い。その一瞬の躊躇を打ち破り、柔らかな風の音まで聞こえるほど澄ました耳を、凪いでばかりの心を、お前が揺らすのを待ってるんだ。
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