秘密ルート赤色




 どうやらジェノスは俺のことが好きらしい。
 交わす会話の端々、不意に触れる指の先端に、俺ですら勘づく好意を含んで「もしかしてジェノスは俺を好きなのかもしれない」と思い続ける日々の中、いよいよ先日、いつも通りの畏まった正座姿で、けれどいつにない手つきで右手を握られた。
「失礼します」と断りを入れてくる辺りが、ジェノスらしくて少し可笑しい。
 ちょこんと向かい合い手を握られた数秒後「サイタマ先生をお慕い申し上げております」といやに固く聞き慣れない言葉を渡され、俺は、なんだそれ? と首をかしげる。
「えっと、つまり?」と返したところで、なんにも伝わっていないことを理解したジェノスが改めて「大好きです」と一番わかりやすい音で想いを告げ直した。
 それはジェノスにしては上出来の簡潔さだった。
 ジェノスは俺を好きなのかもしれない、という思考に関して俺が間違っていた点は、ジェノスは俺を好きなんじゃなく「大好き」だった、という一点のみで、それは「大」が付くか付かないか、程度の違いでしかなく、もっと言えば、間違ってたんじゃなくて、上回っていただけだ。
 まごつくことなく伝えられた言葉を、厄介と呼ぶべきなのか判断は付かなかったけど、別に嫌ではなかったから、特に気にすることもなくジェノスの告白を出来事のひとつとして受け入れてみた。
 ジッと見つめてくる目から視線を逸らし、告白なんてはじめてされたな、と思いながら機械の両手に握り込まれた右手を見る。その拘束の優しさに「大好き」と言うジェノスの想いを感じていた。
 こんなゴツい手に握り込まれてるのに痛くない。まぁ俺ならどれだけ力を込められても平気だろうけど。どこもかしこも硬いパーツばっかりなのに、柔らかいとすら感じるほどだ。
 そう考える傍ら、俺はジェノスの告白に「そうなんだ」と返した。続けて「風呂入るから」と言うと、ジェノスは張り詰めたような瞳の鋭さをたちまち弱々しいものに変え、おずおずといったふうに手を離す。その頼りない動作を「大好きです」と放った言葉の思いきりのよさとはまるで反対だ、とあの日の俺は密かに笑った。



 あれから今日で、5日か6日経っただろうか。
 19時に流れるニュースは深刻さに欠けていて、花見客で賑わう公園のぽい捨て問題に湧いている。インタビューを受けた若者の能天気な笑い声がケラケラと響く画面の側、この時間の能天気さには不釣り合いな空気、というか物体が、俺の目の前にあった。
 そいつはぴしりと姿勢を正し、いつもと同じく正座をきめている。
 壊れ物でも扱うような動作で「失礼します」と俺の両手を握り込み、ジェノスは言う。

「先生、好きです」

 吐き出された声は、あの日のものより幾分低く、綺麗に伸ばされた背筋と同じように凛としていた。向けられる眼差しは真剣さを表すようにキッと鋭く、声は真夜中のように深い。色をつけるなら濃紺だろう、と考えてみる。なら、その濃紺の声を彩る金色の瞳は月か、星か。どっちにしたって綺麗だ。
 綺麗だけど、緩みきった19時の部屋にはやっぱり不釣り合いでもある。
 テレビから聞こえる雑音と、ジェノスが吐き出す声音で、ちくはぐになった空間の中、俺の思考はどうにも真面目なれずに、告げられた言葉の端をつまんで無表情に笑った。

「大好き、じゃなかったっけ?」
「愛しています」
「お、強くなった」

 今度は顔に乗せてちょっとだけ笑う。
 手の拘束がきゅ、と僅かにきつくなったが、それはまだまだ優しい力だった。

「先生、一週間が経ちました。俺が告白してから、今日で7日です。覚えていらっしゃいましたか?」

 ああ、5日でも6日でもなかったのか。
 ヒーロー業なんてものを生業にしていると、生活の不規則さから、時間の感覚が少しおかしくなるみたいだ。いや、これはアルバイトで生計を立てているときからかだったか。しかし、俺のアルバイト時代の不規則さとそう変わらないであろう、根無し草のような生活を続けていたはずのジェノスは、ずいぶんしっかり覚えている。
 このぶんじゃ、仕事のせいで、という言い訳は、ジェノスの前では通用しなさそうだな。

「一週間って年取るごとにはやく感じない?」

 だからそんなに経ってたなんて思わなかったよ、と続きを語らず歳にかこつけた言い訳をしてみる。
 けれどジェノスは、時間の経過の話はまるでどうでもいいというように、俺の言葉を拾うことなく質問を重ねた。

「先生は俺を好いていますか?」

 先生は俺を好いていますか?
 ジェノスから発された隙間のない言葉は、俺の問いかけをすぱっと綺麗に無視していて、従順な弟子の滅多にないその様子に、まるで焦っているようだと思った。
 いままで俺のどんなにつまらない独り言にさえ律儀に言葉を返していたジェノスが、いま自分の問いを優先した。
 先生は俺を好いていますか?
 この問いかけに焦りを含ませているというのなら、それは俺がジェノスに告白された、という事実ひとつでいつもと同じように過ごした7日間が、ジェノスにとっては、先生に告白した、という事実ひとつだけでは過ごせるものじゃなかったということ、だろうか。
 ついつい自分の感情をベースに物事を考えてしまうが、人と比べて俺はいろいろと鈍いらしい。そんな俺が、ジェノスは焦っていると思うなら、それは世間から見て完全に焦っている、と呼べるものなんじゃないか? 実際に、ジェノスは俺のことを好きなのかもしれない、と思ったときだって殆ど予想通りだったわけだし。
 だとしたら、なんでもなく過ごした7日間、俺は知らず知らずジェノスに悪いことをしていたことになるのか。

――ジェノスを好きか、否か。

 いま真っ直ぐな目に射抜かれてようやく、どうだろう? と考えてみる。
 ここで言う好きってのは、つまり愛とか恋とかそういう意味のやつだ。嫌っていないのは確かだが、ジェノスと同じように躊躇いなく「愛している」と言うにはぜんぜん熱が足りない。しかし自分は元々なんに関しても熱が足りないし、もしかしたらこの「嫌いじゃないし一緒に暮らせる」という気持ちが、俺にとっては愛と呼べるものなのかもしれない。
 ジェノスはいったい、どんな気持ちで俺を愛しているんだろう。それがわかれば、俺の気持ちと照らし合わせて確かめられるのに。
 問いに答えず生まれ落ちた沈黙を放置して、黒に囲まれたきらめく瞳を見つめれば、金色の真ん中にある小さな黒がきゅう、と僅かに狭まる。
 人で言えばあれは瞳孔だ。
 ジェノスの真剣さを裏切るように、それってどういう感情のときの動きなんだろう、と集中できない俺の頭は、もう愛とは違うことを考えていた。
 育つばかりの沈黙に痺れをきらしたのか、またもやジェノスが口を開く。

「先生。俺は家事の一切を請け負える器用さ、要領のよさがあります。加えて財力もあります。顔は現段階で、一般的な美醜の判断からすると多分に美に傾いています。が、これは先生の好みに変更することが出来ます」
「なんだよ、急に自慢か?」
「自慢ではなく、事実を述べているんです」
「まぁ確かにお前が来てからいろいろ助かってるよ、イケメンサイボーグ」

 互いに一言喋る度、ジェノスの張り詰めた表情は緩み、移ろい、優れなくなっていく。
 握られたままの手の拘束が、少し弱くなった。
 隙を見せれば生まれる沈黙が、またも俺たちの間にぽつんと転がる。その合間、ニュースのコメンテーターが「個人が意識することで世界は変えられる」とぽい捨て問題には大袈裟なほどの言葉を使ってマナーを説く。
 ジェノスはふと瞼を伏せ、金色の目を隠し一拍、空気を多分に混じらせた声で「サイタマせんせい」と俺を呼んだ。吐き出す声は空気にまみれたせいで掠れ、いつになく頼りなく聞こえる。
 その様子に、あの日、おずおずと俺の手を離したジェノスを思い出していた。
 あのときジェノスが声を上げたのなら、たぶんいまと同じ、すがるような音をしていたんだろう。
 こんなとき、優しい声のひとつでも出せればよかったけど、俺はそんなに器用な声帯を持っておらず、なんの慰めにもならない普段通りの声で「なに?」とだけ問う。
 ジェノスは伏せた瞼を緩やかに持ち上げ、揺れる瞳を露にした。
 その表情に、声音同様、助けを求められているようだと思った。
 ぎゅ、と寄せられた眉はなにやら悲痛で、金色の瞳は気弱に見える。凛としていた声だっていまは萎れているのに、正しさを貫くように、背筋だけはまだぴんと伸びていた。
 弱々しい声を上げる唇が開かれる。
 テレビの雑音に邪魔されないよう、少し耳を澄ました。

「強さでは、先生の足元にも及びませんが、俺は優秀です」
「知ってるよ」
「将来有望だと、そう思いませんか?」
「思うけど」
「俺を好きですか?」
「……まぁ、普通に好き。愛かどうかはわかんないけど」

 ごめんな。と謝ると「いやです」と声が上がる。
 一度は緩んだ手の拘束が、再びきつくなった。少し動かしてみるが離す気はないようで、従順なはずの弟子は、俺の動きに逆らうように更に力を強める。
 いやだと言われても、愛かどうか得体の知れない感情に、パッと名前を付けられるほど俺の語彙力は高くない。ジェノスの駄々を受け入れる術を俺は持っていないのだ。

「サイタマ先生、俺ではダメですか? 俺を嫌がらない癖に、どうして俺を選ばないんですか? 俺が、弱いからですか? でも、絶対幸せになれるんです。この手を取ってくれさえすれば、俺を選べば、幸せになれるのに……」

 悲痛と呼ぶに相応しい面持ちで、嘆くように言われた言葉は、それでも俺の心を撃ち抜かない。
 話に聞くところの愛とは、とても熱いものだと思っていた。ジェノスの持つそれも、きっと熱い。でもいまの俺はぬるくて、それはそれで、浸っていると心地いい。
 こいつは確かに、家事全般を要領よくこなしてくれるし、俺が欲しいものを見抜いてあとからなに食わぬ顔でくれたりする。しかもイケメン。非の打ちどころを探すのなら話が長いことと、節度なく金を遣おうとするところか。しかしそこも俺が一言「やめろ」と言えば行儀よく従ってみせるのだから、結局のところこいつに非の打ちどころなんてないんじゃないだろうか。
 ジェノスが家に来た当初だって、家が狭くなったな、と考えたがそれはもうほんとうにそれだけだった。……いや、たまにうざいしめんどくさいと思うこともあったが、それよりもなんだか、前より家が居心地よかった。楽しかった。ジェノスは優しい。その優しさを一心に受けられるのがうれしかった。ヒーローとしての、誰にでも平等に振り撒かれる優しさではない、ジェノス個人の優しさ。それを与えられるのは好きだった。ジェノスと一緒にいて楽しいとか、うれしいとか、そう思う感情が愛かどうかはわからないけど、これを幸せと呼ぶんだということは、俺にだってわかる。
 だからこそ、ジェノスの言葉には疑問があった。
「あのさ」と声を掛けると、ジェノスの手が軋むように動く。
 ジェノスは俺をどうしたいのか、この話の向かうところはどこなのか、ふつふつと湧いていた疑問を追いやり、たったひとつだけ問う。

「いま以上の幸せなんてあるの?」

 1秒後、揺れる瞳とぶつかった。
 見つめる金色の中に、ぱちりと星が散る。

「俺、お前と一緒にいるだけでかなり幸せなんだけど」

 重ねて言うと、ジェノスはそれまで浮かべていた、頭を撫でて慰めてやりたくなるような表情をかき消し、機械仕掛けとは思えない人間らしさで、ぱちぱちと目をしばたたかせた。
 新しく浮かんだまっさらな表情は、普段鋭い目付きをしているぶん、いくらかジェノスを幼く見せる。
 そのまま数秒間、幼い顔を晒したままたっぷり黙りこくったと思うと、今度はゆるりと顔を俯けてしまい、仕舞いには小さく「ぁァ……」と呻き声のようなものまで上げた。
 綺麗に伸びていた背中さえもが、遂には折れて丸くなる。
 その予想だにしない反応に、急に具合が悪くなったのか、欲しい言葉ではないから落胆してるのか、それともなにか別の事情があるのか、いったいどうしたものかと困惑の眼差しを向けていると、ジェノスはハァと短く息を吐き、それから沈めた顔をゆっくりと持ち上げた。
 幼い顔は鋭さを取り戻し、普段通りに近づいていたが、再び見る表情もまた俺が見たことのないものだった。よく表情を変えるジェノスに、困惑したのも束の間、まったく俺より器用なやつだと感心してしまう。
 睨んでいるように目元に力を入れた眼差しはきつく、しかし怒っていると一口に言うには、それはなにかを圧し殺すような、押さえ込むような、得てして言葉にしがたい表情をしていた。

「先生。それは、告白より究極です」

 ようやっとというふうに、難しい顔のジェノスから放たれた言葉。
 それに、はてと思考を巡らせる。
 告白よりも究極って、つまり、なんだ? あんなにまっすぐな瞳を持って伝えられた「大好きです」より「愛しています」より、究極だなんて。だって俺いま半目だぞ?
 誠実を絵に描いたようなジェノスと、不誠実とまではいかないまでも、弛んで締まりのない俺を比べて、愛とか恋とかを語らせたときの重みを量れば、俺は軽すぎて浮いてしまう。
 だけど、それくらいのことならとっくにわかっていそうなジェノスが「究極」と言うわけだし、曲がりなりにも俺は師匠なのだ。うっかりでも、知らず知らずのうちでも、なんでも、弟子のひとつやふたつ上をいくこともあるんだろう。
 ジェノスが口にした「究極」という言葉に、なんとなく得意な気分になって
「そりゃあ俺はお前の先生だからな」
 と言った俺はいつもより少し笑っていた。
 ジェノスは一言も発さず、その代わり、ほんの幽かに唇を震わせ、長らく捕らえていた俺の手をようやく解放した。……が、それもたったの一瞬。今度は常人ならば病院行きを免れない力でがばっと抱き締められる。
「わっ」と弾んだ声は驚きに揺れ、あまりに突然な行動に、痛くもないのにちょっとだけ息が止まった。
 暴挙のような抱擁のなか、思いがけずといったように漏れた「好きだ」という、低く掠れた小さな声。掠れ声はさっきだって聞いていたのに、耳に触れる音はまるでさっきと違う。じんと鼓膜を震わすその熱さに、どうにもならないジェノスの本心を見た気がした。
 触れ合った頬がじんわりとあたたかい。
 サイボーグでもこんなふうに熱を持つのか。
 ようやく花見から話題を変えたニュースが「昨今の怪人増加」に焦点を合わせた。さっきと比べるとまぁ深刻な話題で「この国は一体どうなってしまうんでしょう」という深々とした声は確かに耳に届いているのに、その言葉は上滑りして、まるで俺たちには関係ない。
 ジェノスは俺を抱き締めたときから「思いがけず」の行為だったのか、抱き締めてから5秒経ったかどうかというところで、バッと飛び退くように身体を離してしまった。
 すみません、と詫びる声はすっかりいつもの弟子のもの。
 俺はといえば、どこかぼんやりした頭で「なるほど幸せってこれか」とジェノスが来てから再三味わっていた幸せの、新しい形やぬくもりに、小さく驚きを示していた。
 それはもう、怪人に嘆く世間の声にも反応を示せないほど。
 それってヒーローとしてどうなの? と思う一方で、いま一度、愛について考える。
 たぶん、もう一度抱き締められたら。
 あの熱に焼かれた声を聞いたら。
 その声で好きと言われたら。
 どれを与えられても、俺はたちまち欲を芽生えさせ、いまよりもっとたくさん幸せになりたいと思うのだろう。
 いろんな欲が水を混ぜたように薄れていくなか、ジェノスに対して色づく欲を抱くなら、その欲こそが愛ってやつなのかもしれない。それなら、俺がジェノスに「愛してる」と言うのも、そう遠くはないんじゃないか? いまだって、その片鱗の赤が左胸の辺りにちょこんと座って、抱き締められた瞬間の感触とか、温もりとかを思いだそうとしている。
 想像する近い未来は、全く違和感も、ましてや嫌悪感もなく、すとんと頭の中に収まってしまった。
 俺の意識はさっきより少し変わっている。その変化を以てして、ジェノスの世界も直に変わる。
 目の前で萎縮して「先走った行為を……お許しください……」と意味のない謝罪を口にするジェノスは、そんなこと知るよしもないんだろうけど、たぶんお前、いま笑ったっていいくらいだよ。





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