きみにとどくな



 たまに、自分が化け物になる夢を見て飛び起きる。
 そういう日は朝からシャワーを浴びて、頭のなかの不快感や、恐怖や、憂鬱を、煮詰めたり溶かしたりするのだ。
 ぬるいシャワーの温度は、いつか浴びた怪人の血とよく似ていて、目を瞑れば真っ赤なゴア。片隅では、朧気に浮かぶ群青の残像がちかちかとちらついた。まぶたの内側に広がる色彩。そこに両手を突っ込み、ビリビリと引き裂く想像をして、心のなかで何度も何度も同じ言葉を呟くのだ。
 俺は死なない。俺は死なない。俺は死なない。俺は死なない。
 それはもうずっと当たり前のことで、不死身とは、だいたいにして絶望だったが、稀によすがとして、丸くなった背中が折れる寸前、ぎりぎりのところで支えることもあった。
 俺は死なない。66号は死なない。ゾンビマンはずっと死なない。俺が俺として生きることだけが不変で、他のものにはならない。化け物にはならない。俺は死なない。
 湿った空気を深く吸って、吐き出して、シャワーが流れる音に耳を澄ました。

「俺は死なない」

 繰り返していると、ほんの少し気持ちが楽になる。けれど、いま、背中を押されたらきっと崩れてしまう、という焦燥感はまだ拭えず、なにかに掴まりたくて、次は想像のなかで怪人を何度も何度も殺した。
 閉じた瞼の内側は赤く、頭のなかは黒ずんだ色に染まっていく。
 人類に害をもたらす存在を消すことが俺の生きる道であり、同時に存在価値の証明で、それは俺が人でいられる手段だった。
 だが怪人を殺す俺の半分はもう人とは呼べないほどに煤けている。
 一昨日、瀕死の怪人に「お前は怪物だ」と言われた。「そうだよ」と返した言葉は半分がほんとうで、化け物になりたくないという思いはおそらく、永久に報われない。俺はどこかで間違えればいつでも人じゃなくなる、危うい生き物だった。
 ぐるぐると渦巻く思考と同じように、腹のなかにはぐるぐると渦巻く黒い物体があって、たぶん、それが俺のなかの化け物。



 風呂から出て、真っ黒な中身と同じ色の服を着た。
 煙草は最後の一本で、早々に吸い終わり口にくわえるものがなくなってからは、インスタントのコーヒーにできた小さな渦を見ていた。
 人として生きたい。
 俺はもう人じゃない。
 ふたつの思考がせめぎあって、苦しいと思うのに涙も出ない。
 何度死んでも蘇る身体は感覚を遠ざけて鈍いくせに、心はあらゆる痛みを拾って治らないのだ。
 真っ黒い中身に、真っ黒い服を重ねて、治ってばかりの身体に傷ついた心を閉じ込めた。
 デジタル時計が10時59分を示して、声に出さず60秒を数える。
「俺は死なない」と呪いのような言葉に救いを求めコーヒーを飲み干した。



 腰に銃を下げて家を出ると外は快晴で、しんと冷えた冬の空気が、腹のなかにあるぐるぐるとした淀みと混ざってどろりと病んだ。
 町を歩けば通りすぎる人々の視線が肌を撫で、時折「ゾンビマンだ」という声があがる。そのほとんどを気づかないふりでやり過ごし、気まぐれに微笑を返していた。
 駅前にある大きなからくり時計のそばに立って周囲をぼんやりと眺めていると、ウサギのぬいぐるみを抱えた女の子と目が合った。隣に立つ母親のコートを引っ張り俺を指差すその子に笑いかけてみると、女の子は気恥ずかしそうに母親の影に隠れて、ちらりと顔を覗かせながら小さく手を振ってくる。女の子に応えて手を振り返すと、近くにいた2人組の若い女が「かわいい」だの「優しい」だのと言う声が聞こえたが、俺は2人が期待するほど優しくはないし、小さな子供に手を振ったって、心は柔らかくならない。
 一線引いた内側で、俺はこの世を眺めていて、いまも周囲の人間すべて、見える世界のすべてが、遠く感じられる。
 共感できるものが少ないと感性はどんどんすり減って、思考は勝手に孤独に浸る。すると心はますます捻れて、健全とかけ離れた俺はすっかり普通じゃなくなった。
 普通じゃない、というのは人間社会のなかで生きていくには邪魔な要素だ。
 だから多少のボロが出ても誤魔化せるように、笑うことを覚えた。
 それからそうして、怒ってみたり、驚いてみたり、大衆の普通を真似て作った正常さを貼り付けた日々も、ずいぶんと板についた頃、戦慄のタツマキに「その薄ら笑いやめたら? 不愉快なんだけど」と言われたことがある。
 彼女は、俺の空っぽなのに真っ黒でいっぱいになった内面を見抜いて、あんなことを言ったのだろうか。それとも、単に虫の居所が悪かっただけなのか。
 どちらせよ、人間らしく、愛想よく振る舞ったところで、余裕が生まれるわけではなかった。タツマキの言葉に腹を立てることはなかったが、やめられるならそうしたい、と過った思考には、未だ追い詰めれている自分がいた。
 だって俺には、どうしても、俺が一番普通に思えるのだ。そしておかしいのは大衆の方だった。だけど、大衆が作り上げた普通が世界の見本になっている以上、それに倣う他ないだろう。
 やっぱり、普通じゃない、というのは人間社会のなかで生きていくには邪魔な要素だった。
 普通じゃないまま生きていれば、れっきとした人間だって「おかしな奴」というレッテルを貼られるのに、俺がそれをしてしまえば、異端分子として敵視されたっておかしくはない。
 中途半端に人の目を気にする自分を嫌悪しても、自分の存在を守るためそれをいつまでも無視できないでいる。
 死なない俺が人間から見放されたときどうやって生きていけるんだろう。死なないのに生き方がわからない。どうしたらいいのかわからない。
 人と化け物の境界線でずっとゆらゆらと生きているより、どちらかになれたほうがこんな状態より楽に違いないんだ。人なら躊躇わずに誰かの体温に触れられるし、助けを呼ぶことも許されるだろう。
 では、反対に化け物なら。
 季節を取り逃がした薄い服のなかを風が通り抜ける。感度の悪い身体は寒さを感じないのに、温度のない胸が冷えた気がした。
 時計が正午を指すと、ぼォんぼォんと鐘の音が鳴る。からくり時計の文字盤がぐるりと裏返り、なかから出てきた音楽隊が、オルゴォルの音色で彩られた、名前の知らない曲を流した。周囲には、わざわざ足を止めてからくり時計を見る人もいる。注目を集めるくらいなのだから、きっと耳触りのいいメロディなんだろう。けれど俺にはごうごうと大きく波打つように聴こえて、頭はぐらぐら揺さぶられ、気が狂いそうだった。
「ああ」と思う。嘆いた声と落胆と、あきれを含んだ諦めの音。
 もし、化け物になるのなら、すべてぶちまけてしまいたい。
 正常な面を裏返し、なかに秘めたでたらめな感情をさらけ出して喚くのだ。
 もう身体がぐちゃぐちゃになっても頑張れとしか言われないのは嫌だ。死に損なったすがたを写真にとられるのが嫌だ。ヒーローとしてしか生きられないじぶんがいやだ。こんな世界もういやだ。
 膨れた感情がぐにゃりと歪む。
 手当たりしだい、目につくものぜんぶめちゃくちゃにしてしまいたい。俺が俺でいる定義を他人に求めなくちゃいけない弱さはもういらないんだ。コートを羽織った化け物は、ずるずると身体を引き摺って、目にうつるものの半分くらいを壊したあたりできっと、たぶん、名前をよばれるから、そしたら俺はそれにふりかえって、人の声音で、さいごの声をあげるのだ。「サイタマ」と。

「ゾンビマン」

 正面を向いていたはずなのに、いつの間にか俺は、擦れた靴の先を睨むようにうつむいていた。下がっていた視線を持ち上げると、目の前にサイタマがいる。
 ごうごうと鳴っていた時計の音はいつの間にか止んでいて、からくり時計に目を向けるものはもう誰もいない。
 目の前のものすべてをめちゃくちゃにしたいという欲望は、目の前にサイタマが現れた瞬間鳴りを潜め、ざらついた思考に、束の間のやわらかさが生まれる。

「あぁ、サイタマ」

 俺の目はサイタマだけに惹かれて、それ以外をぼかした。
 サイタマの無表情に笑顔を返し、言葉を発しようと開かれた唇をそっと見つめる。

「悪い、待たせたよな」
「いや、俺もいま来たところなんだ」
「え、なんだ、よかった。てかお前大丈夫? ぼーっとしてたけど、具合悪いのか?」
「なんともない。もともと顔色が悪いだけだ」
「ほんとに?」
「ああ」
「そっか。ならいいけど」

 嘘をついた。
 ほんとはさっきから待っていたし、心はいつも具合が悪い。だけどそんなこと、知らせる必要はなかった。
 膨張しきった感情を世界中にぶちまけてしまいたい衝動が発作のように俺を襲うけど、サイタマの前にいるときは、そんな考えも消えてしまう。
 サイタマは俺にとって決して揺るがない真実なのだ。俺にはサイタマだけ。サイタマだけが真実で、サイタマだけが正義だった。
 サイタマがそばにいてくれるだけで救われる心がある。サイタマなら俺の腹のなかのぐるぐるした化け物だって、きっとどうにかしてくれる。
 助けて、と言ったら助けてくれるんだ。それは幸せかもしれない。幸せなんだろうけど。
 狂いそうな意識の、世界を呪う片隅で、いつも願っていることがある。
――どうかサイタマにだけは届くな。
 俺がしんから望む幸せはそれだけだった。

「ゾンビマン、今日どこ行くんだっけ?」
「鰻。サイタマが食べたいって言ったんじゃないか」
「あ、そうそう、そうだ。お前、ほんとうに奢ってくれんの?」
「嘘なんてつくわけないだろ」

 あまり動かない表情のぶん、わかりやすい言葉を使ってサイタマが「やった」とよろこぶ。飾り気のない男なのに、どこも足りない部分などないように思えた。
 サイタマの前では、俺もそういうふうでありたい。
 そっと腹に手を当てる。
 お前には知られたくない気持ちが俺のなかにはたくさんあるんだ。
 汚いものはぜんぶここに閉じ込める。行き場のない俺のなかの真っ黒はさらに濃くなり深くなるが、それでよかった。
 作らなくても口の端には笑みが生まれ、この男の尊さをそこに刻んだ。
 俺は死なない、人になりたい、化け物になりたくない、誰も彼もどうでもいい。矛盾した気持ちが幾重にも重なってできた心はいびつだけど、誰かを愛することはできた。
 たくさんの矛盾を抱えて生まれた化け物を世界中に見せつけて、すべて壊したい衝動も、いつかサイタマに殺して欲しい、なんてどろどろに煮詰まり血迷った気持ちもみんな、大好きな、お前に届くな。

大森靖子ちゃん『君に届くな』より。
タイトル、内容共に参考にさせていただきました。


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