しんしんと、れいれいと



 どれだけ好きだと言われても、サイタマはその言葉に頷かない。「ああ」や「そう」などと、とりつく島もない返事ばかりをいくつも並べ、サイタマはゾンビマンから向けられる想いを受け流し続けた。対してゾンビマンは、何度となくつれない返事をもらっても、挫けることもなく、サイタマに想いを伝え続ける。
 その告白は、我の強いサイタマの弟子でも「諦めを知れ」と呆れるほどの回数が行われ、向けられた呆れはいつしか同情へと変わり、師以外には決してなつかない弟子が、ついに助言の言葉を掛けるほどの回数に及んでも、サイタマとゾンビマンの関係は変わることなく、時ばかりが過ぎていった。
 そうして四季は幾度巡ったか。
 ゾンビマンはいまも、サイタマに出会った頃と違わない姿で、サイタマのそばに立ち、サイタマはあの頃よりずっと衰えた姿でそっと目を閉じている。
 真っ白い部屋の、真っ白いベッドに横たわり、布団の下から伸びるコードは、傍らの心電図モニターへと繋がっていた。
 ゾンビマンは目を閉じたまま動かないサイタマを見つめ、彼と出会ってからの人生を振り返る。
 二人の間に特別なことはなにもなかったけれど、自分にとっては、それがとても尊いものであったと、わずかに心を痛めた。

「足からの点滴も困難になりましたので、サイタマさんは、もってもあと2、3日でしょう。以前からの希望により、これ以上の延命は行わずにいきます」

 病室に入るまえ、ゾンビマンはサイタマの主治医からそう告げられた。
「可能なら付き添ってあげていたほうがいいでしょう」と続けざまに言う声はとても事務的で、ゾンビマンはなぜこんなにも素晴らしいサイタマの死をそんなにもあっさり語れるのかと、主治医の神経を理解できなかった。けれど「もってあと2、3日」というその言葉までは、疑うことができなかった。
 人よりもずっと長い寿命を生きているゾンビマンにとって、己の死は常に遠くにあるが、人の死は、慣れ親しんだ隣人のようにそばにいる。
 だからひと月ほど前に、彼の主治医が「サイタマさんは長くてあと――」と口にするずっと前から、ゾンビマンは、愛する男が余命幾ばくもないことを悟っていたし、病室を訪れるたび濃くなる死の匂いも、敏感に感じ取っていた。
 体温、心拍数、呼吸数、意識、それらの、ゆるやかな低下。サイタマの身体がゆっくりと死に近づいていくのを、ゾンビマンはとても近くで、ずっと見ていた。それこそ、サイタマがこの真っ白い部屋に入る前から、ずっと。
 愛する者との別れは辛いものだと憂いながらも、それが避けられないものだと理解している不死身の彼は、いまさら泣いて喚いて嫌だと駄々をこねることはなかったし、最後に愛してほしいと望むこともなく、ただいつもと変わらず、サイタマに「好きだ」と伝える。
 白い床にそっと膝をつき、手を握るふりをしてサイタマの脈に触れた。なんて弱いのだろう、と思う。同時に、けれどまだ、あたたかいとも思った。

「好きだ」

 握った手に頬を寄せ、もう一度呟く。
 ここのところは意識がないことのほうが多く、いまも手が振りほどかれることはない。たまに起きているときも、むかしと違って、パッと手が払われることはなくなり、それをしないのは、もうそんな力も残っていないからなのか、気力がないのか、はたまた、ただ単に好きにさせているのか、ゾンビマンにはわからなかったけれど、理由なんかどうでもよかった。自分は今サイタマの手を握って好きだと伝えている、それがゾンビマンの真実である。
 心電図モニターの波形がわずかに乱れた。
 それを視界の隅に入れて、握った手に注いでいた視線をサイタマにやれば、閉じられていた目蓋はやわらかく開かれ、いつのときも同じ温度だけを宿していた黒の瞳が、ジっとゾンビマンを見つめていた。その目は年老いてもなお、淀みのひとつもない。
 寝ているのかと思った。それとも、目を瞑っていただけで、起きていたのか? ちらりと考えてから「おはよう、サイタマ」と声をかける。
 時刻は14時。朝は疾うに過ぎていた。
 病室に差し込む陽射しはきらきらとまばゆく澄んでいて、窓の外の若葉がさざめくたび、四角い病室に光がちらばり、ゾンビマンはその光景のなかにいるサイタマを、とても美しく思った。
 床に臥し、いまや起き上がることもままならないサイタマは、出会った頃とは比べ物にならないくらい弱々しいのに、ゾンビマンがサイタマの変化に心を移ろわせることはなかった。
 彼はただ、サイタマがサイタマという存在であれば、姿かたちはどうだってよかったのだ。
 世界をどうにでもできる力を持っていながら、それを無闇に使わない。いつもつまらなそうな顔をしているのに、サイタマの心の奥底にある真っ直ぐな性根に、ゾンビマンは気づいていた。気づいてから、気になりはじめ、だんだんと、知らぬ間に、恋に落ちていたのだ。特別なきっかけはなく、ふっくらとした蕾が、時がきて花開くのと同じように、そうあるべくして、好きになった。
 まるでそれが自然であるかのように訪れた恋は、しかしゾンビマン一方だけを盲目にして、サイタマがその想いに応えることは、今日、いまこのときまで、ついになかった。
 だから最期のときも、ゾンビマンはサイタマからの言葉なんて期待していなかったのだ。
 サイタマはゾンビマンの瞳を静かに見つめ、か細い息を吐き出す薄い唇を、ゆらりと幽かに開く。

「おまえ」

 とても小さな、掠れた声だった。
 ゾンビマンはサイタマの瞳をむかしと変わらず熱く見つめ、ふかく耳を澄まし続きを待った。
「もう聞き飽きた」
「それしか言わないんだな」
 そういうことを言われるんだろうか。
 ゾンビマンの思考は、瞬時に何通りもの言葉を組み立てた。
 ゆっくりと息を吸い込んだサイタマが、呼吸の混じった声を吐き出す。

「きれいだったんだな」

 死にゆく自分に対し、むかしから、なにひとつ変わらないゾンビマンを見たら、サイタマは、無性にそれを伝えたく思った。だから乾いて張りつく喉の痛みにも構わずに告げた。
 俺を見るおまえの瞳は、とてもきれいだ。宝石みたいにきらきらしてる。あめ玉のように美味しそうだ。おまえの瞳は、こんなに赤かったのか。こんなにも熱かったのか。
 サイタマの心は、ゾンビマンに伝えたいことで溢れていたが、すべてを言葉にできるだけの体力はもう残っていない。
 それでも、伝えたいことのはじっこだけでも言葉にできてよかった、と掠れた意識の片隅で思っていると、唖然とした表情を浮かべたゾンビマンの赤い瞳が、みるみる光彩に溢れ、その濡れた光は、眼に張り付いていられなくなるとすぐに、ぽろりぽろりと青白い頬を濡らしはじめた。
 一体どうしたんだ、とサイタマは数度まばたきをする。
 ゾンビマンは握っていたサイタマの手を祈るように両手で包み、愛してやまない男の名前を呼んだ。

「サイタマ」

 それはサイタマがはじめて聞く、震えた声だった。

「サイタマ」

 涙に濡れた瞳は、一流の細工職人に手を施された紅玉のように輝いていて、サイタマはやはりそれをきれいだと思った。
 自分の名前を呼ぶ男の声に、心の中で何度も返事をしてやる。

「サイタマ」

 ゾンビマン、と唇だけを動かす。

「ああ、サイタマ……ありがとう」

 ありがとう、と不意に言われたことの意味を探ろうとすると、サイタマが答えを見つけるより先に「俺を見てくれて」と言葉が続けられた。
 俺を見てくれてありがとう。
 ゾンビマンの言うことを理解し、それをじっくりと反芻する。それから、サイタマはとてもひそやかに笑った。

「その言葉のために、俺は今まで生きてきたんだ」

 鼻をすする、涙混じりの震え声は、いまなお現役ヒーローとして最前線で活躍している男のものとは思えず、サイタマはこの腕が自由に動くのなら頭を撫でてやったのに、と見た目だけは自分よりうんと年下のゾンビマンを、甘やかしたく思った。
 ゾンビマンの健気な反応も、大袈裟な言葉も、涙に濡れた瞳も、震える声も、いまは、とてもいとけなく感じてしまうのだ。

――おまえのこと、もっと早く見ておけばよかった。

 けれどそんなことを言ってしまえば、この男はいよいよ泣きじゃくって、きっと看護婦がすっ飛んでくるだろう、と危惧したサイタマは、やはりうっすらと、ともすれば、気づかれないほどの微笑を浮かべるに留めた。それに、たったそれだけを喋るのさえ、もう困難なのだ。

――目を閉じるのが惜しい。このまま死ぬのが、ようやく惜しいよ。

 自分の手を握り、涙を流すゾンビマンを見つめながら過った思いは、サイタマがこの世に残した、唯一の未練だった。



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