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 空を見上げれば背の高い建物を突き抜けて雲一つない青が広がっている。真っ青な空をさんさんと照らす太陽。その目を焼く眩しさに数度瞬きをした。風がコートをはためかせて、ゾンビマンは、真昼のきらめくように清々しい空気を吸う。煙草の煙ばかりを吸い慣れた彼には、その澄みきった空気が、とても新鮮に感じられた。

 ゾンビマンはずっと、俗世間に蔓延る俗人と、自分は違うと思って生きていた。特別な能力を身に付けていることもそうだし、言い知れぬ孤独に関してもそうだ。誰も自分のような孤独は味わえないだろうと憂う気持ちと見下す気持ちが常に半分ずつ心にあって、しかし、あの夜、瓦礫の山を駆けていたあの時ばかりは、そのどちらもが霧散していた。

 B級ヒーロー、ハゲマント。
 実の名は、サイタマ。


 サイタマ。あの限りない力の前では、お前こそがひとりだ。
 お前の世界から俺を見たら、きっとそこらの奴と見分けもつかないんだろう。俺の孤独も、俺自身も、お前の前じゃそれくらいちっぽけだ。
 お前はあんまりにも強すぎて、たった一人、誰も届かないところにいる。それでも誇るヒーローとしての心情を、理解さえされない。俺は、そんな孤高のお前に、触れてみたいよ。


 ゾンビマンは「誰かに触れてみたい」という、今まで感じたことのなかった欲を、サイタマに抱いた。それは、彼が絶望の眼差しで眺めていた俗人が、春夏秋冬問わず抱く、色めいていて、とても花やいだものだった。
 あの夜、誰よりもヒーローだったサイタマに、ゾンビマンは恋をした。
 好意的なヒーローとしての在り方。きっかけは、それだった。
 ゾンビマンの正義活動の根元にあった「進化の家を壊滅させる」という野望は、達成することが出来ずに、彼の心にぽっかりと空しい穴をあけた。そうして「進化の家の壊滅」を基盤に築いていた正義さえも「世界を救えても、たった一人を守れない」と暴挙を伴い訴えたガロウによって揺さぶられ、ゾンビマンは自分が抱く正義というものが、わからなくなった。そこへ、決して揺るがない、確固たる正義を掲げて現れたのが、サイタマである。その存在は、ゾンビマンの心にあいた穴を溢れるほどに埋め尽くした。
 ゾンビマンの中に芽生えた衝撃や、驚愕や、疑問や憧憬は、サイタマのことを考えれば考えるほど、紐解かれ、理解に及び、その度に正しく思えて、その想いは、次第に好意へと形を変た。
 悪を挫き、悪を正すヒーロー。
 世界を守り、世界から疎まれる存在も救ってしまうヒーロー。
 進化の家を壊滅させ、ジーナスを殺すことは、恐らく、ゾンビマンにも出来ただろう。しかし、ジーナスを改心させることは、とても出来なかった。そして、ゾンビマンは思考の末、殺すことより、変えることの方がよっぽど難しく、ヒーローらしいと、思い至った。
 人を好きになったことがないゾンビマンは、芽生えた好意の大きさ、真新しさに、こんなに長いこと生きていて、まだ知らない感情があったのかと震撼した。そうしてあの夜から、驚きや、未知の感情ばかりを与えてくるサイタマに抱いていた好意は、今や恋へと姿を変えて、彼の左胸に鎮座している。
 恋という欲を抱いた時、ゾンビマンは身を以て知った。
 人は、種の保存や繁栄を除いたとしても恋をするのだ。
 彼らは短い一生の中で恋をして、そこでは命を継ぎ足していく生物としての義務なんかはまるでおまけでしかなく、彼等は、ただ恋しいから、一緒にいたいから、寄り添っている。
 恋のために、一瞬で終わってしまう一生を燃やし、駆け抜ける星のように、尊くきらめく。ゾンビマンが俗人と呼ぶ彼らが時より眩しく見えるのには、そうした理由があった。


 あの男の前では、俺だって、俗世間に蔓延る、俗人と違いない。そういう欲を抱いているのだから、違いなどない。だが、それは、思っていたより絶望的なものではなかった。サイタマの世界で、俺が、その他大勢の人間という役割であっても、全然、嫌じゃないんだ。サイタマの前で人とは、常に守るべき対象なのだ。それをどうして、居心地悪く思える?


 サイタマという男を意識に入れてからのゾンビマンの世界は鮮やかに姿を変え、まるで太陽に照らされるように、きらきらと輝き出した。
 例えば、この季節に咲く、名前も知らない花を初めてきれいだと思ったり、14時の陽射しを心地よく感じたり、それから、生きていて良かったと思ったり。
 ジーナスも、ガロウも、こんな風に救われたのだろうか、と、整備されたばかりの道を歩きながら考える。
 持ち合わせていた意識に、がんじがらめになって動けなくなり、他の生き方が出来ない。そのしがらみを打ち砕き、違う景色を見せてくれる。ゾンビマンにもたらされた救済は、そういうものだった。
 あの夜を越えて、サイタマを忘れられず、何度も通った道をゾンビマンは毎日のように歩いている。歩き慣れたその道は、サイタマの家へと続いていた。
 来訪の大半は、また来たのかといううんざりした眼差しを向けられるとこから始まる。留守で会えない日もあったし、手土産を喜び、迎え入れられることもあった。
 初めてサイタマの家を訪ねた時、ゾンビマンはあの夜の謝罪と礼を口にした。「謝られる覚えがない」と言うサイタマに「俺が間違っていたんだ」と言い、次に、救ってもらったこと、正しさを教えてくれたことの礼を口にすると「そんなこと言われる覚えもない」と全く予想していなかった言葉を返された。その素っ気なくて、拘りのない言葉に、ゾンビマンの意識はますますサイタマという男に興味を示した。
 二度目に訪ねた時は「お前は一体なんなんだ」と問うた。それに対して「サイタマだけど」と答えたあと「てゆーかお前がなんなんだよ」と言葉を向けられ、ゾンビマンはサイタマを真似て「ゾンビマンだ」と答えた。「また来る」という言葉に返されたのは嫌そうな返事で、それが少し可笑しかった。
 三度目、手土産を持って訪ねた時に向けられた喜色のとぼしい笑顔に、ああ、こいつはこんな風に笑うのか、と思い、それをもっと見たくなった。
「え? これくれるの?」と差し出した手土産を両手で持って、薄い唇に笑みを乗せたその表情を思い出し、記憶の中のサイタマに微笑み返す。サイタマ、と心の中で呟けば、そのすぐあとに躊躇いもなく、好きだ、と続いた。
 初めて名前を尋ねてからまだ数日しか経っていないのに、ゾンビマンは「サイタマ」という名前を、その人生で、他に呼んだ誰の名前よりも多く口にしていた。
 目の前にしても、記憶の中でも、ゾンビマンは焦がれるサイタマに、休むことなく心を惹かれていった。
 あの夜以来、サイタマには沢山のことを伝えてきた。詫びる気持ちも、感謝も、ジーナスのことも、自分が抱くヒーロー像も、サイタマを前にすると言葉がとめどなく溢れて止まなかった。サイタマは大概を聞き流していたが、時より、気まぐれのように相槌を溢した。


 サイタマ。お前がいると、世界がとてもきれいに見える。


 ゾンビマンは今日、それを伝えたかった。
 それを一ばん伝えたかった。


 また笑ってくれるだろうか。お前が笑った、あの日と同じ土産も用意したんだ。


 くるくると巡らす思考に、孤独に染まった青は存在しない。
 誰かの為に何かを選び、美しいと思ったものを、想う人に伝えたいという、当たり前の感情さえもが、ゾンビマンには初めてのものだった。
 そしてそれは、彼が俗人と見なしていた人々が抱く、最も人らしくて、なによりも尊い感情なのである。


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