ゾンビマンにとってこの世と自分は結び付かず、彼はただ、自分のいる場所を「世界」として、それ以外を「俗世」と呼んだ。
俗世間に暮らす俗人たちはすべてが等しく絶望的で、ごうごうと蠢き、ぞわぞわと犇めく姿は、列を乱した蟻の群とよく似ていて、ちっぽけで、健気で、あまりに弱い。
死ねない体を持つ者。不死身の男、ゾンビマン。
ひとつの生物として種の保存・繁栄のしがらみから逃れた彼には、集団で命を継ぎ足していかなくては生きていけない弱さが、そして集団であってもろくろく生きていけない脆さが、ただただ、絶望的だった。
変態を遂げた怪人のように、人間を忌み嫌うのとは違い、ゾンビマンは世間を、人を、守りながらも、絶望の眼差しで眺めている。一枚隔てた薄い膜を壁にして、人と自分の違いを、そこで明確にしていた。
弱いものから死んでいくことを知っているゾンビマンにとって、殺せば死ぬ、死ねば二度と戻らない、その事実は「常識」より先に「絶望」として彼の意識に雪崩れ込む。
その絶望的な弱さは時にいたいけにも見え、夜空を瞬刻駆け抜ける、一瞬のきらめきのように尊く映ることもあったが、それも束の間、やわらかく細めた目はたちまち鋭さを取り戻し、それからむっと不機嫌そうに眉間にシワを寄せるのが、ゾンビマンの常である。
長年追い続けてきた進化の家、ゾンビマンの製造者であるジーナスは突きつけられた敵意や殺意や憎悪、刃、それらを「それもいいだろう」という言葉を以て、受け入れるかのように閉じ込めた。
進化の家が壊滅したと聞いても、無抵抗に首から血を滲ませるジーナスを見ても、ゾンビマンはまだ、気を緩めない。用心深く、じっとジーナスの挙動を見張った。
だが、次から次へと語られる言葉に、ゾンビマンが知る狂気の科学者ジーナスの面影はない。
睨み付ける視線はそのままに、向けた刃の切っ先を首筋から離す。
進化の家を再建しない理由。ゾンビマンはそれを問うた。
「……。種の人工的な進化よりもっとすごチカラを目の当たりにしたんだ。私の研究は負けた。そう思ったね」
そう語るジーナスの表情は些か切迫していて、未だ、その敗北を鮮明に思い出し、強大な力に畏れを成しているようにも見えた。吐き出された言葉は、プライドの高かったその男らしからぬものであり、ジーナスは、その言葉を以て、自らが力を持たないただの人であることをゾンビマンに証明する。
「彼はリミッターが外れていた」
続けざまに語られる、神によって設計された個体に対する成長制限。自らを追い込むことでそれを取り払った一人の男。そして、その強さの代償。
ジーナスが言わんとする肉体のリミッター制限は、ゾンビマンにも理解することが出来た。その人生の殆どをジーナスと共に過ごしたゾンビマンは、常人であれば理解に苦しむジーナスの言葉を、事も無げに噛み砕き「くだらんな」と一蹴し、打ち返す。
「能力制限なんて度外視したバケモンは俺も何人か知ってるぜ。怪人にならずに怪人以上の力を持った人間を、俗世じゃヒーローと呼ぶんだ」
そう言っても、ジーナスは、自分が見た男とゾンビマンの言うそれらが全くの別物であることを、こんこんと語るばかりだった。
その果てに、種の人工的な進化に夢想し、人生を賭けてきたジーナスが、個人の努力のみで取り外されたリミッターを前にして、自身の抱いていた崇高なる野望を「滑稽」だと自嘲する。
長い年月を費やしてきた自分の思想を打ち砕いた相手に、憎しみの一つも込めず、もたらされた敗北を受け入れるジーナスに絶望の色は見えない。己の思想を打ち砕いた相手を、遠く及ばないものと認めて、足掻くこともなく、狂科学者は、狂気を捨てていた。
「キミも一度会ってみるといい。彼もヒーローをやっているようだ」
自分が出会った圧倒的な強さを持つ男を、ゾンビマンに紹介するかのように紡がれた言葉。
その世間話のように軽々しい言葉を聞いた瞬間、ゾンビマンが「こいつを葬り去るその時に吐き捨ててやろう」とひそかに決めていた台詞は、決定的に行き場を無くしてしまった。自分の中の揺るがぬものとして抱いていた「進化の家を壊滅させる」という野望をぷつりと断たれた彼は、赤い目にぐっと力を込めて、ぐらぐらと揺れて止まない感情を、深く、深く、沈めようとする。
殺意は、正義執行という大義名分のもとであれば許されることを知っていたのに、向ける対象が「悪」からただの「人」になってしまえば、振り翳す正義は、剥き出しの暴力でしかない。
人以上の力を持った者の暴力は、人ならざる者がもたらす脅威として認められるのが世の常である。
ゾンビマンは、怪人になりたくはなかった。かといって俗世間に蔓延る人と同じになることも出来なかった。彼には少なからず、自分を特別と思う意識があったのだ。それは時に卑下するように、また別の時にはその自尊心を恍惚と満たした。
自分は人間とは違う。
その意識だけが彼をヒーローにさせたのだ。
ゾンビマンにとってヒーローとは、人ではない自分が怪人にならない為の、手段の一つである。それでも、元来の性分から執行するべき正義は責任を持って遂行した。ヒーローとして過ごすうちに、担う正義の在り方も形を定め、それは一層、ゾンビマンの真面目さに拍車を掛けた。それから彼は、義務としてばかりではなく、ヒーローという職業を気に入ってもいた。不死身という特異すぎる体質のゾンビマンに、命を懸ける職業というものは打ってつけであったし、なにより、産み出された本来の目的に反した生き方をすることで「進化の家を壊滅させる」という本懐を遂げる前に、一矢報いた気にもなれたのだ。
戦えば強くなれる、ヒーローでいればそれもジーナスへのささやかな反抗になる。正義という味方を傍らに、彼はいつも、ジーナスに、然るべき報いをくれてやろうと思っていた。
……それなのに、こいつは。
息をつき、腑抜けとなった討つべき相手をじっと見つめる。
穏やかさもなく交わす言葉が途切れ、これからどうするべきかと頭の中で組み立てていく道筋に、もはやジーナスを殺すという項目はない。
人を一人殺すことにより、死ねない身を持つ一生を、殺人者として生きることになるのは避けたかった。人じゃないゾンビマンが、ヒーローでなくなったときにつけられる新たな肩書きは「怪人」「化け物」「人類の敵」
少なくとも、今は殺すべきではない。そう考えて立ち去れば、からっぽの心にへばりついたやるせない気持ちが、苛立ちとして、次第に彼をくすぶらせた。
燃え尽きることなんかは出来ず、けれど焼け爛れるような熱はそのまま、勢いだけを奪われた炎は、ぶすぶすと煤けた音を立てる。
どうにかこの虚無と憂さを晴らせないかと苛立ちを持て余していれば、今のゾンビマンにとって、吉報と呼ぶべき要請があった。
――怪人組織のアジトへの突入。
それを自分が壊滅させるはずだった進化の家と重ねれば、幾らか気持ちも落ち着くだろうと高を括って赴いた先、彼はほんとうの絶望を知る。
傷を癒やす為、肌の上に乗った熱が、夜風と相まって皮膚の上にざわりと鳥肌を立てた。しかし風が止んでも、壊れた体の再生が終わっても、鳥肌は収まらない。ゾンビマンは、自分達の置かれた戦況に、そしてそこにある張り詰めた空気に、皮膚を粟立たせていた。
その夜立ち向かったなによりも、そしてそこにいる誰よりも、怪人ガロウは強かった。あまりにも強すぎた。
怪人組織に対して、ヒーロー側に残された勝機は多くなかった。それがたった一人の怪人と名乗る人間、ガロウが現れたことによって、限りなくゼロに近付き、怪人の勝機も、もはや無い。あるのはガロウただ一人の勝利のみで、それを食い止めるために何人ものヒーローが立ち向かったが、その度、虫の四肢をもぎ取るようなあっけなさと残虐性をもって、返り討ちにあった。
瓦礫の山に、点々と血が飛び散っている。
ゾンビマンも、他のヒーローも、太刀打ち出来る術がなく、ガロウを前に、惨めに地面に転がっていた。
俺はこの夜で、何度死に、何度立ち上がったか。死ぬことのない便利な体をしているくせに、これじゃあ、泥仕合にすら持ち込めない。
それでも、立ち上がらなくては。あと数分もすれば、また立ち上がれる。俺は立ち上がらなくてはいけない。立ち上がらなくては。
閃光のフラッシュと共に現れたB級ヒーロー、サイタマの元へ這いずり「少し肩を貸してくれ」と頼み、再生しきっていない足を引きずりながら立ち上がる。それは、サイタマの強さを知らないゾンビマンが、自分がそばにいることによって、今にもガロウの元へ飛び出していってしまいそうなサイタマを留めておくためであった。
これからどうするか。どうやって、ガロウを倒すか。ゾンビマンは落ち着きを失ってしまいそうな頭で考えた。しかし、必死にかき集め、手繰りよせた冷静さも、ガロウの発言によって容易く揺れ動く。
「今からあのガキを殺す。あの不細工な一般のガキをだ」
ガロウの声が、いやに大きく響いた。
「俺は今から、ガキを殺す」
再び放たれた言葉は、さっきよりも大きく、静寂の中にシンと響く。
ゾンビマンの額に、じわりと汗が滲んだ。
――ガロウ、どこまで腐った性根をしてやがるんだ。
ゾンビマンにとって、ガロウの一連の行動も、その言葉も、ヒーローに対する最も悪質な嫌がらせとしか思えなかった。
悪を挫くこと。そして、弱きを助けること。その二つに、ヒーローの存在価値がある。
ガロウはヒーローが担うその二つを奪い取って、ヒーローが無意味で、無価値であることを証明しようとしているのだ。ただ、ヒーローを憎む一心に。そう考え至ったゾンビマンは、ガロウの思惑を阻止するため、サイタマのそばを離れ、一歩を踏み出した。
お前のやっていることはなんの信条にも準拠していない。嫌がらせが趣味のクズヤロー。そうガロウに投げる言葉にはゾンビマンの内情がそのまま表れていた。
「どこまでやればお前は納得するっていうんだ?」
しかし、ガロウをなじる沢山の言葉も、最後の問いも、その動きを止めることは出来なかった。
「ヒーローは…凄惨な現場を作り出そうとする怪人を前に口を動かすだけの簡単なお仕事です」
まるで演説でも披露するかのように、ガロウはゾンビマンの言葉をそう言い表し嗤笑した。
「ゾンビマンさんの回答は分かり易くて良いな〜!!」
続けざまに放たれる、嘲りを乗せた「臆病者」という言葉の前に、ゾンビマンは、いよいよ返す言葉を失う。
怪人ではないと訴えるためヒーローになったゾンビマンは、ヒーローの存在価値を否定されることに、確かに、怖れを抱いていた。
人ではない自分の存在価値とは。
ゾンビマンが、俗世間の俗人たちの中で生きていくには、ヒーローという肩書きが必要だった。どれだけ世間を絶望的に眺めていても、そこから弾き出されてしまえば、自分は一体、何者になる? 彼にとって、ヒーローと怪人は、表裏一体である。彼自身の存在が、いつもそれを物語っていた。
俺は進化の家を壊滅させるためあそこから逃げ出した。俺は怪人ではない証明のためヒーローになった。俺はヒーローであるが故に人であるジーナスを殺せなかった。
一連の流れが輪になってゾンビマンを締めつける。
じゃあ、俺が存在する意味はどこに、俺がやってきたことは一体……。
追い続けていた進化の家が自分のあずかり知らぬところで壊滅していたこと。狂気に染まったジーナスが人のようになっていたこと。それらはゾンビマンのアイデンティティーを揺るがした。彼はそれを敢えて見ないよう目を逸らしていたが、この絶望的な状況下、ガロウの言葉がゾンビマンを揺さぶる。
ああ。畜生。俗世の、あいつらのようになれたなら、どれだけ楽だったろうか。どうしたって俺は、こんな生き物になっちまったんだ。
俺はヒーローとして戦い続けていないと、自分の生き方さえ確立できない。
それなのに……。
俺達の目の前で子供の殺害を予告されて、その通りに子供が死んでみろ。その時は、もう。
進化の家を壊滅させるという本懐を遂げられずとも、ゾンビマンは、ヒーローであろうと努めていた。悪を挫き、正義を貫く。彼は、そうでなければいけなかった。
――しかし。
どれだけ頭を回転させても見いだせない好転に、ゾンビマンはいよいよ死を覚悟する。自分の死ではない。自分以外の者の死。
それと同時に、ガツリと硬い拳がふるわれる。視界がぶれ、歯が砕けた。口の中に血が溢れ、吐き出す前に、打撃が飛ぶ。
あア。こいつも、あいつも、きっと死ぬ。ガロウに殺されていなくなる。たった一人俺だけ残って、それからいったい、どうすればいい。
頭の切れる彼にもこの状況を打破する道がまるで見えず、ただわかることといえば、これはまさしく絶望と呼ぶに相応しい、一片の救いもない地獄だということ。
ガロウに嘲笑われ、叩き潰されながら、ゾンビマンは考えた。
――最初に死ぬのは誰か。助け出せなかったあの子供か。それともあのB級ヒーローか。
それから否定を繰り返す。
――否、誰も死なせない。死なせない。死ぬもんか。
しかし、彼は聡明だ。
――でもきっとみんな死ぬ。
ヒーローである夢を見る自分と、絶望を知っている、現実の自分が、己の無力さを呪う。
再生したばかりの腕が飛ぶ。脚をもがれる。首を落とされる。ケトケトと、ガロウが、笑う。
そこで一度、彼の意識は途切れた。
次に目を覚ましたとき、状況を飲み込むのにしばしば時間が掛かった。自分に肩を貸していたB級ヒーローが、ガロウと対峙していたからである。
回復しきっていない聴覚では言葉こそうまく聞き取れなかったが、目に見える二人には温度差があった。動き出せばそれは、あまりにもわかりやすく、繰り広げられる戦いは異様で、ゾンビマンの視線を拐う。
瓦礫屑がけたたましく飛び散る。強烈なガロウの攻撃をものともしないその姿に、釘付けとなった目を更に見開いた。
なにがどうなっている。ガロウはなぜ、弱くなっているんだ? ガロウは、どうした?
……いや、違う、あれは、あのB級ヒーローが、どうかしているんだ。あいつは、何者なんだ。
ぶつかり合っているのに、勢いは一方にしかなく、さっきまで必死に足掻くヒーローを嘲り、いたぶっていたガロウが、今はぱっと現れたヒーローに、足掻くように立ち向かい、そして、いなされていた。
対峙する二人には、同じだけの熱量がなく、ガロウばかりが急いている。ガロウに立ちはだかるサイタマは、ゾンビマンに肩を貸した時のように淡々としていて、しかしこの切迫した場面では、サイタマのその平静さが、ひどく異様なのだ。
地面を抉り返して、ガロウを宙に放り投げる一撃が、ゾンビマンの視界を黒で満たす。なにが起きたのか理解する前に、ガロウは崩れた地面に叩きつけられ、それを無表情に見ているサイタマは、黒を映していたゾンビマンの目に閃光を走らせ、暫し呼吸を忘れさせた。
異様だと思いながら、おかしいと思いながら、けれどゾンビマンは、その光景を笑うことはおろか口を開くことさえできず、ただ忙しなく、再生したばかりの両目で二人の動きを捉えていた。
ガロウの何発もの打撃をその身に浴びて膝をつくこともなく、その攻撃を遮るように放った、たった一度の驚異的な力で、ガロウはまた大量の瓦礫と共に宙に舞う。
サイタマを倒す野望を糧に、更なる変態を遂げたガロウにも、サイタマは臆さず、勇み立ちもせず、変わらずそこにいるだけだった。
そうして、化け物じみた力を存分に披露した後、ガロウを力なく地面にへたりと落とした一撃は、驚愕ばかりを与えられたゾンビマンに、ようやく安堵をもたらした。
勝った。勝ったのか。
もう、助かったんだ。
助かった、とそう思ってから、ゾンビマンは、自分が何かに助けを求めていたことに気がつき、張りつめていた息を、ふっと吐き出した。心に広がる安堵に、助けられるとは、こういう心地なのかと知る。強張っていた体から、ゆるりと力が抜けていった。
再生を終えた体を持ち上げ、額に滲んでいた汗を拭う。
ゾンビマンは顛末を見届けようと、ガロウと、ガロウを叩きのめしたサイタマのいる方へと向かい、ザクザクと瓦礫の上を歩いていく。その途中、敗北を認められず喚くガロウとサイタマを引き裂くように「殺せ!」と一つの声が上がった。とても鋭い声だった。ゾンビマンが視線を向けると、顔を押さえたアマイマスクが、その隙間から鬼の形相を覗かせている。そこから吐き出された言葉も、表情と同じくヒーローらしかぬものだったが、ゾンビマンはその言葉を拾って同意を示した。
「アマイマスクの意見に賛成だ。生かしておく理由がない」
それでもサイタマは動かない。
自分がジーナスに対してそうであったように、ヒーローという肩書きに縛られ人の形をしたものを殺せないのか、或いは、殺生を好まない主義であるが故に、殺すことができないのかと推測したゾンビマンが「代わるか?」と聞いても、そもそもその発想が間違っているとでも言うように、サイタマはガロウを人間だと言い表した。
この期に及んで、ガロウが人間だと?
これは、俺がジーナスを殺せなかったのとは、訳が違う。
ジーナスは、あいつは腑抜けと化し、人に成り果てていた。しかしガロウはそうじゃない。怪人として変態を遂げ、人以上の力を身に付けた、人類の敵だ。挫くべき悪の形をしている。なのになぜ、こいつはガロウを人と呼ぶ。
ヒーローとは、絶対的な正義である。悪を徹底的に挫くための力を奮うものを、人は「ヒーロー」と、そう呼んだ。サイタマは、その条件を満たしていながら、世間がヒーローに望むものなど知ったこっちゃないという風に、ガロウを殺すことに決して頷かず、それどころか、ガロウの暴挙を、悪事を、ささいな誰でもする間違と見なした。
戦いが終わってもなお、サイタマはゾンビマンの持つ常識を打ち破り続ける。
一時は、確かに人ではなくなったガロウを、サイタマは一人で「人」と呼び続けた。起こした惨状に対し相応の罰も与えず、それどころか、成すべき道を塞がれて、途方に暮れるように「どうしたらいいんだ」と呟くガロウに、サイタマは更正を望みすらしない。あらゆる言葉の代わりに「好きにすれば」と放たれたそれは、ヒーローが口にするものにしては、あまりに無責任だった。
そこまででも、ゾンビマンには充分な衝撃を与えたが、サイタマは終いに、殺されかけ、生きる気を無くしたガロウを、たった一人の、小さな子供の為のヒーローとして存在させたのだ。
その瞬間のガロウの瞳に宿った輝きは、ゾンビマンの目に強く焼き付き、それにほんの一瞬気を取られて、次に、ガロウの動向を読み取った彼が「押さえろッ!」と叫んだ時には、もう遅かった。
瞳に輝きを宿すのと同時に、ガロウは一瞬で姿を消した。
慌てふためく周囲を尻目に、サイタマは四肢を破壊されたジェノスに何やら言葉を掛けながら、その体を回収している。
それを視界に入れながら、きっとこいつならガロウを止めることも、追うことも出来ただろうと、ゾンビマンは考える。なぜ止めなかったのか、と考える。他のヒーロー達がガロウを探すため駆け出すのに混ざりながら、ずっと、サイタマのことを、考える。
あいつは一体何者なんだ。
暗い夜の、鋭い瓦礫の上を駆け抜け、足の裏を何度も傷つけながら、ほんの少し前の出来事すべてを、信じられないと思った。それから、ガロウに対するサイタマの行いを、とてもヒーローのものではないと思った。しかし、そう思う一方で、ゾンビマンは、サイタマの行動を、頭の片隅で、うつくしいかもしれない、とも思っていた。
人それぞれ、正義の形は異なっている。ヒーロー協会に属している以上、多くの者は階級や順位を気にしている。順位を上げるために、世間が望む正義を、自分が抱く正義のように振り翳すのだ。ヒーローとは自己犠牲である。ヒーローとは圧倒的な力である。ヒーローとは悪を裁く審判である。それらの根っこに、階級や順位や世間の目が張り付いていた。それを気にすることを間違いとは思わなかったが、そこに拘りすぎていては、いずれ自分が最初に志した正義と、ズレが生じてくるのではないかと、ゾンビマンは考えていた。当のゾンビマンは、そうした煩わしさを取り払ったところに、ヒーローとしての理念を抱えていて、ゾンビマンの持つ正義とは、世界の平和よりも、個人の救済よりも、悪を挫くことに重点を置いていた。その視点から見れば、ガロウにとどめを刺すことが、ゾンビマンにとって最も正しい正義だった。
しかし、正義の形は人それぞれ、異なっているのだ。
ゾンビマンは走り続ける。
裸の足の裏にガラス片が食い込み、血を溢れさせた。しかし、その痛みに気を向けることが出来ない。
彼は視点を変え、もう一度考える。
あの場で、きちんとガロウを見ていたのはサイタマだけだった。
ガロウが、怪人ではなく人だと見抜いた。
ガロウは、人を殺すつもりがなかったと見抜いた。
ガロウが、ヒーローになりたかったと見抜いた。
ガロウは、幼い頃からずっと、世界ではなく、自分を救ってくれるヒーローを求めていたことを、あいつは見抜いた。
自分の抱く正義から目を逸らし、ガロウを「人間」と呼び続けたサイタマの言葉を辿って、再びガロウを見れば、サイタマに対する「なぜ」という疑問はゆるやかに綻ぶ。
ゾンビマンは見た目にそぐわない年数を生きている。察しの良さは人一倍だった。だからこそ、打ちのめされた自分たちから見れば、生かしておけないと判断を下すガロウが、サイタマの視点から見れば、全くその対象ではないということに気がついた。サイタマからしてみれば、ガロウを生かすことこそが、己の正義に、そして常識に則った、正しい行いなのだ。
それを前にして、ゾンビマンは今一度、自身が持つ、ヒーローとしての在り方と見つめ合う。怪人に命を狙われたときの何倍も泣きわめきながらガロウに「逃げて!」と叫ぶ子供を思い返した。
あの目に、俺たちはヒーローとして映っていただろうか。ガロウを倒して、世界が俺達をヒーローと認めても、あの子供は、きっと……。
――いきなり現れる本物のヒーローなんだよ!
叫ぶように放たれたその言葉は、あの男にも当てはまるな、とゾンビマンの意識はどこへ向かってもサイタマへと辿り着いた。
――教えてくれたな。お前が何者なのか。
あの時、あの男にそう言葉を掛けられたガロウは、どれだけ救われたのだろう。それはガロウにとって、諦めた生に光を宿すだけの、希望に満ちたものだったのか。傷つき、疲れ果てた体を突き動かすだけの、熱があるものだったのだろうか。
サイタマにとって、終始ガロウは人であった。それはヒーローが守るべき、救うべき、対象である。
サイタマの正義とは、どんな形をしているのか。
自分の正義は趣味であると宣った姿は、とても堂々としていた。その姿同様、サイタマの抱く正義も、形式や義務に押し潰されることなく、堂々としているのだろうと、ゾンビマンは思う。たった一人、幾つもの正義を前にしても、それに飲み込まれず、自分の正義を曲げなかった男。その孤独を彷彿とさせる生きざまを思い、ゾンビマンは浮かび上がった思考に「否」と否定を落とした。
あの男が持つものは、そんなしみったれたものじゃない。孤独なんて、誰もが抱えられるものじゃないんだ。あいつのは。あいつは――孤高のヒーローだ。
駆けていた足が段々と速度を落としていく。食い込んだガラス片が、肉体の修復と共に体外へ排出される。
ゾンビマンの頭に、ジーナスの言葉が過った。
――彼はリミッターが外れていた。
――キミも会ってみるといい。彼もヒーローをやっているようだ。
ジーナスの言うヒーローは、あいつだったのかもしれない、とゾンビマンは一つの見当を付け、それから、それがほんとうであればいいと思った。キミも会ってみるといい、という言葉に、今は同意を返したかった。
ガロウはもう、見つけられないだろう。それならこんなに走り回るのは無駄だ。それより知りたいことがある。ジーナスの元へもう一度行かなくては。ああ、その前に、いい加減服がほしい。それから煙草も。
暗い空が夜明けを目指して青く、白く、移ろっていく。
ゾンビマンの意識も、絶望的な夜を引き裂いたヒーローの方へと、ゆるやかに移ろう。
ガロウを探す足は止まり、その足は今度、一軒のたこ焼き屋へと向かった。
ゾンビマンの長い夜は、今、明けようとしている。
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