此の岸はあなたで極り




 サイタマの私服は、言葉を選ばず言い表すならば「ダサイ」の一言に尽きる。それも時々、嘘だろと思うほどダサイTシャツを着ていることがあるが、サイタマと一緒にいるのを恥ずかしいと感じたことなんかはないし、いつだって隣にいて、そばを歩きたいと思う。
 それどころか、そのダサイTシャツを着ているのがサイタマなら、ダサイと思うよりもまず「かわいい」と言って笑いだしてしまうようなくすぐったい感情が、止めようもなく湧いて出てきてしまう始末だ。
 今日も笑ってしまうくらい「かわいい」出で立ちをしたサイタマは、54円の棒アイスをがりがりとかじりながら、夕暮れ時、湿って座り心地の悪い砂利に腰を下ろし、さらさらと涼やかに流れる川へちゃぷんと足を浸けていた。
 土手下にあるこの川は、日中だと涼を求めた地元の人間でわいわいと賑わっているが、やはり水辺なだけあって、陽が暮れてくると人気もなり、どこに潜んでいるのか、蝉の声ばかりがよく響く。今は俺たちしかいないけれど、もっと暗くなったら、花火なんかをやりにくる学生がいるのかもしれない。
 俺はサイタマの隣に座って、溶けたアイスの滴が指先を濡らしていくのをぼんやりと見ていた。
 手首に掛けたコンビニ袋の中はさっきまで入っていたアイスのせいで濡れている。その中から取り出したタバコのパッケージを一度手のひらで拭って、吸おうか少し迷ってからポケットにしまった。
 真上に広がる空は夜の気配を帯びて青く暮れているが、地平線に向かった奥の方は太陽に焼かれて橙。夕焼け空を映した川は、ところどころは暗く、残りはつやつやと輝きながら、夕陽と同じ色に染まっている。
 サイタマがソーダ色のアイスの最後の一口を食べて、ぺらりと木の棒を見た。

「なんだ、はずれか」

「あげる」と言って渡されたハズレの棒を、空になったコンビニ袋の中に入れた。
 アイスが垂れてベタつくのだろう、サイタマは指先を水にくぐらせている。2、3度手を振って水を切ると、今度は子供のように脚を揺らしてちゃぷちゃぷと水面を弾きだした。はしゃいだ子供のようなことをしているのに、サイタマの表情はつまらなそうで、けれどそのまっさらな眼差しは、時折、とても特別な意味をもって俺を見つめてくるのだ。
 死にもしないのに、生き急ぐようにジーナスを追っていたかつての俺は、夕陽が綺麗だということも、一人じゃない時間の過ごし方も、誰かから特別を宿して向けられる眼差しも、なんにも知らずにいた。
 サイタマの弾いた水が、ぴしゃりと膝を濡らしていく。

「サイタマ」

 名前を呼ぶと、こっちも見ないまま「ゾンビ」と返してくる。ヒーローネームを縮めた愛称はまるで蔑称のようだが、誰にそう呼ばれても別に気にならない。けれど、人の名前を覚えるのが滅法苦手なサイタマに「ゾンビ」と呼ばれると、気心が知れている証のようで、無性にうれしく思えてしまう。俺の頭はとことんサイタマに甘く出来上がっていて、ハズレの棒を渡されたって、文句のひとつも浮かばない。
 サイタマの隣にいると、いつも心があたたかいのだ。
 昔の自分が知らない温度。
 心地よく受け入れるあたたかさに反射して「実験室」と呼ばれていた部屋の冷たさが、少しだけ、フっと甦った。

「なぁサイタマ。思い出したことがあるんだ」
「なんだよ、急に」

 黒と橙と透明で彩られた水面、俺の影に潜むかつての日々が、じんわりと姿をあらわす。
 その端っこを捕まえて、手繰り寄せ、記憶の一部を、言葉にしてみた。

「昔、俺を作った奴にずっと言われてたことがあるんだ。お前は幸せにはなれないと、殺されながら何べんも何べんも言われた。どっかの宗教の話で、人は死んで、川を渡らなきゃ、幸せになれないらしい」

 太陽は大きく輝きながら、ゆっくりと沈んでいく。

「だから、死なない俺は幸せになれないんだと」

 いつか言われた言葉たちを甦らせ、きゅ、と目を細めた。
 思い出すのは、あの男の笑み。

――彼岸と此岸の間にある川を「三途の川」と云うのだよ。私たちがいる此岸では、人は真の幸せにありつけないそうだ。死後の世界、つまり彼岸では、あらゆる欲が取り払われていて、そこにいってようやく、我々は幸せになれるらしい。

 そう語るジーナスは常に微笑を浮かべていた。手に持った凶器が幻に思えるほど、その笑みは優しい。

――けれど、あア、そうすると……66号、君は生涯幸せになれないということになるね。だって君は不死身だから、その川を渡れない。

 哀れんだ声で、けれど楽しげに喋りながら、奴は俺を殺す。
 白い頬には赤い血の痕。
 霞んでいく視界の中、優しい笑みが崩れることはない。

――君は死ねない。幸せにはなれない。娑婆の醜さを瞳に焼き付け生きていくことは、なんて残酷なんだろうね。私にこんなことをさせるのは、全て俗世の人間の愚かさのせいなんだ。66号、君はとても利口だ。わかるだろう? 君は彼岸にいけない。けれど永遠の命がある。この世は醜く欲にまみれて残酷だ。だから、私と共に、此岸を、もっと住みよい世界にしよう。彼岸にいかずとも、真の幸せを手に入れられるように。

 殺されて、死んで、甦る、そのなかで言われ続けてきた言葉たちは、俺自身に刻まれて、きっと忘れることなんてできない。
 ジーナスの言葉は俺を洗脳するためにあった。けれどジーナスと出合った時点で、俺は疾うに神など信じてはいなかったし、ジーナスの言葉を信じることもできなかった。終わりが見えない絶望の日々に飲み込まれ、いっそジーナスの言葉を信じて生きるだけの人形になれたら楽なのに、と思ったのは一度や二度ではなかったが、それができなかったのも、この不死身の身体のせいなのだろう。生き返るたびに、鮮やかな憎しみが心を占めて、感情さえもがやり直される。
 俺はかならず、お前の野望を打ち砕いてやる。お前が変えようとしたこの醜い世界を俺は生涯かけて守り抜いて、お前を笑ってやるからな。そのとき俺は、お前の詭弁の外に出て、きっと、幸せになるのだ。
 殺されながら、目を覚ましながら、自分のなかに生まれた呪いだけを信じてずっと生きてきた。
 けれど心とは、いとも容易く姿を変える。

「おかしな話だな。死人がどうやって幸せを証明するんだ」

 それだけ言って、サイタマは揺らしていた脚を大人しくさせた。瞳は相変わらず俺を見ることなく、絶え間なく流れ続ける川だけを捉えている。
 サイタマの言葉に答えるべく、俺は少し重たくなった口を開いた。

「証明なんて出来ない。宗教ってのは、信じるためにあるんだ。だから、信じることさえ出来れば、証拠なんてなくていい」
「ふうん」

 短い相づちはそれきり会話を途絶えさせるかと思ったが、珍しいことに、サイタマのほうが「ゾンビ」と俺を呼んで、言葉を続けた。

「その昔ばなしさ、オチはないの?」

 沈んでいく夕陽に照らされた横顔。
 今は川の方へと向けられている瞳が、ジっと俺を見たときのことを思い出した。
 夜空を閉じ込めたような、黒々とした輝き、そこに含まれた感情。俺の心を随分とやわらかくした、一等特別な眼差し。
 記憶のなかのサイタマと眼が合い「あぁ」と、感嘆とした声が漏れた。

「そうだな。あいつは、死ねない俺は幸せになれないと散々言っていたが」

「君は幸せになれない」とそればかりを言う記憶のなかのジーナスを、真っ白に塗り潰した。そこにサイタマを描けば、川なんか渡らずとも――。
 区切った言葉の先を声にするとき、唇は機嫌のいい三日月を作る。

「俺は、今とても幸せだ」

 空はさっきよりも暗く、青から濃紺に変わり、遠くに見える橙も、青く滲んでいく。
 川が流れる静かな音と、どこからか聞こえる蝉の鳴き声に混じって「どれくらい?」と問う、小さな声が聞こえた。

「彼岸の亡者どもが嫉妬するくらいには」

 ちゃぷ、と川から脚を上げたサイタマは、長らく川を見つめていた瞳を今やっと俺に向けて、小さくきらめく黒を存分に見せつけてから、ほんの少し笑った。

「俺も一緒」

「いま幸せになった」と付け足すように呟かれた言葉。
 青ばかりを湛えた空とは裏腹に、俺の中身はサイタマのことだけでいっぱいになり、そこら一面が淡紅に染まる。
 ジーナスがどれだけ言葉を並べ立てても埋まらなかった俺の穴に、サイタマはちょうどよく収まり、足りない部分をいとも容易く埋めては、たちまち溢れさせた。
 いつも着ているダサイTシャツをかわいいと思いはじめた頃から、俺は、此岸にだけ、こんな幸せが存在するということを、サイタマに教わったのだ。







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