わけあり物件

(前編)
***


夏の夜は陰惨だった。
深い藍色の闇の中、わたしは布団に仰向けになりながら、天井の木目から視線を逸らせずにいた。ぬるり、濡れた薄布のようなすきま風が首の上を伝う。喉の裏から、怯えた息が上がりそうになる。張したように震える胸を押さえながら、意識を集中させる。
自分の真上の天井の、尖った木目。たまにぎしりと鳴るそこだけが、夜の空気と違う、何か……湿り気のような、気配がする。

……気温が上がる季節になってからというものの、毎晩がこの繰り返しだった。
わたしは一人部屋だから、同室の生徒はいない。けれどこの部屋も、噂では長年使っていなかった開かずの間だっただとか、けれど残り物には福があるからだとか、そんなことを聞かされながら荷物を置いた記憶はある。……

ひゅうひゅう、かたかた。
風に障子が震える。

「……いるわけない」

わたしは瞼を閉じて、ゆっくりと深呼吸をした。
人の噂話、視認できない存在。そんなものを恐れていては、忍者になんてなれやしない。
それに、たまに一年ろ組の後輩たちがこの部屋にやってきて、「名前先輩の部屋って、なんだか居心地いいね」と青くこけた頬を緩めて微笑み合う愛らしい姿を見ることができるのだ。一人きりで、同室の人間に気遣う必要も無い。考えれば考えるほど、むしろ羨まれるべき環境のはずだと思える。

かたかた。
……かた、ととととと。

気配の音がする。

「いるわけがない……」

きっと鼠の親子にでも気に入られてるのだろう。
深い闇の中、わたしは肩の力が抜けないまま、体を丸めて固く瞳を閉じるのだった。





教室を照りつける太陽。蝉の群生による、もしも彼らに喉などあれば、とうに潰れていそうなほどにけたたましい鳴き声。明瞭としない頭に、もはや先生の言葉が頭に入ってくるわけが無かった。
前触れもなく響いた放課の鐘に、思わずびくりと肩が弾む。
号令をしなくちゃ。ありがとうございました、と頭を前のめりにすると、そのまま文机にぶつけてしまった。

……結局、わたしは昨晩、夜が明けるまで浅い眠りを繰り返し、寝汗まみれのまま起床時刻を迎えてしまった。おばちゃんの監視下で朝食を残さず食べあげるのに時間がかかり、遅刻もした。
夏が来てからというものの、毎日のように、じわじわと生活が蝕まれていく。


この体の気だるさとは打って変わって、からりとした空気や、蝉の叫び声が白々しい。
ひとまずわたしは教室を出るなり、不安定な足取りで食堂へ向かい、空いている席を探して夕餉をとることにした。
夏バテかもしれないから、できるだけスタミナのつきそうなメニューを選んで、席に着く。栄養を摂るこの時間にだけ、望みをかけて縋っていたい。

「いただきまぁす」

しかし、おかずに箸をつけたその時、背後から甲高い声に名前を呼ばれる。

「名前!」

どきりと胸が高鳴った。
声で分かる。滝夜叉丸だ。
ただ、今は彼の有り難い長話を聞ける具合ではないことも事実で……。
わたしはぐっと身構えて、その顔を見やった。が、そんな予想とは打って変わって、滝夜叉丸は神妙そうな表情でこちらを眺めていた。

「……名前、夕べもよく眠れなかったのか」
「ああ、うん、まあね」

そう気遣ってくれる言葉に、拍子抜けした。
滝夜叉丸は、机を挟んでわたしの向かい側に腰を下ろす。覗き込んでくる視線がもどかしくて、なんとなくあくびを作ってかわしてしまった。

「……なあ、名前」
「なあに滝夜叉丸」


「今夜は私の部屋で寝ないか?」


そのたった一言に、唾が吹き出そうになった。
一斉に生徒の視線が集まる。

「ち、違う! 妙な勘違いをするな、まずは話を聞け!」
「分かった、わ、分かったから……!」

聞いて欲しいのなら、まずは適切な言葉を選んでほしい。わたしは頭に上った血に咽ながら、滝夜叉丸を目一杯に睨み付ける。
真剣な顔で、いきなりあんなこと……。
……こっちの気持ちなんか、知らないくせに。

「私は……ただ、憔悴しきっていくお前を見ているのが、その……痛ましくてたまらないのだ」
「そ、そう……。わたし、そんなに疲れた顔してるのかな」
「している! だからせめて今日だけは、私の部屋で寝ないかと――」
「だからそれは大きな声で言わないで……!」

わたしの制止する声に、滝夜叉丸も口を噤んでしまい、それきり言葉が途絶えてしまった。
どう取り繕うべきか分からず、お互いに目を逸らしていると、やがてわたしの背後から、また別の救いの声が届く。

「――あ、名前ちゃんと滝夜叉丸だ。何してるの?」
「ああ。タカ丸さん」

定食を持ったタカ丸さんが、わたしの隣に座る。
そのにこにこと朗らかな表情を見てか、滝夜叉丸は一度大きく深呼吸をして、事のあらましを語り始めた。

「――タカ丸さん、名前の部屋が、ついこの間まで開かずの間であったわけあり物件という噂はご存じですか?」
「え、ええっ、そうなの?」
「……そんなの、ただの噂だよ。今まで使われてなかったことと、そのわけを誰も教えてくれないっていうだけ」

「それで、名前がこの季節になってからどうも寝不足みたいで……。この私が心配してやって、一度別の部屋で寝てみてはどうかという提案をしていたのです。……全く、忍を目指す者が不審な物音に怯えるなど呆れた話だが、名前がどうしてもと言うものだから……」
「いやいや、言ってない!」
「おばけたちも名前ちゃんのことが大好きなんだねえ」
「だあ――!」

思わず腰からずっこける。
よろける腕を伸ばして椅子に座り直すと、タカ丸さんは顎に指を乗せ、ふーむと背筋を伸ばしてから、再び口を開いた。

「……そういうことなら名前ちゃん、今夜ぼくの部屋に来ていいよ」

今度はわたしだけではなく、滝夜叉丸も声をそろえて吹き出した。

「――っあああ、あのですね、タカ丸さん! 名前を預かるのは、この私、滝夜叉丸が! 私の部屋で、担います! ……少々お言葉ですが、タカ丸さんはまだ忍者のたまごとしても初心者の身。しかし、この学年一成績優秀な私ならば、万が一名前に悪霊の手が伸びようとも、華麗に守り抜いてみせましょう!」

机に乗り出さんばかりの勢いで、熱弁をふるう滝夜叉丸。タカ丸さんが、ぱちぱちと乾いた拍手を鳴らす。
わたしはもはや頭を突っ伏していた。

「わあー。頼もしいねえ」
「……あ、あの、さ……気持ちは嬉しいけど、わたしだって、まさかおばけだなんて信じたくないし、喜八郎にも悪いし、変な物音のことなら、気にしなければいいだけだから、その……」

そう苦笑して顔をあげると、わたしの視界に、ずい、と滝夜叉丸の顔が押し迫る。

「だがそれを気にしているから、今だって、こーんな潮江先輩ばりの隈が出来ているのだろう!」

両手の人差し指で自らの目元を差す滝夜叉丸に、わたしは言葉が詰まる。

「う……」
「それに、あの喜八郎には気を遣うだけ無駄だ」
「はは、いやでも……」

信頼のある人間の部屋で一晩過ごすくらい、心配するほどの問題はないのかもしれないけど、……異性の部屋で眠ることは……。少なくとも、今すぐに「じゃあそうしましょう」と快諾する気にはなれない。

……それが、密かに好意を寄せている相手ならば尚更。
わたしはちらりと滝夜叉丸を盗み見た。

すると、突然タカ丸が「はーい」と手を挙げた。
「はい、タカ丸さん」と、滝夜叉丸が指す。

「だったらさ。逆に名前ちゃんの部屋に滝夜叉丸が行けばいいんだよ。それでおばけの正体が分かれば、名前ちゃんも安心して眠れるんじゃないかなあ」

――ほんとうはおれが行きたいけど、用事があるから……。

そう付け加えられたタカ丸さんの声は、もはや滝夜叉丸の耳には届いていないようだった。

「……そうだなそうだなそうだな。タカ丸さんの言うとおりだ。そんなに名前が怖がるのなら、仕方ない。今夜は特別に、この私が名前の部屋へ出向いて差しあげようではないか」

わたしの手から箸が滑り落ちた。
この話だと、相手は……滝夜叉丸は、今晩こちらの同意など聞かずとも、天井裏か床下から侵入してしまえばいいだけの話になってしまうのだ。
わたしは、この一瞬だけ初めてタカ丸さんの天然さを恨んだ。
しかしそんな悲憤めいた視線を知ってか知らずか、タカ丸さんは滝夜叉丸に向き直り、話を変え始める。

「そうだ、滝夜叉丸。おれ、この間の術がまだうまくできないんだけど、これから時間があったら教えてくれないかな?」
「もちろん構いませんよ! そうですね、あれにはまず、私と忍術の出会いからお教えしなければ……」

ぐだぐだぐだぐだ……。

ああ、始まった。
寝不足で頭が重い気分の今、これだけは避けたかったのに。わたしはがくりと頭を垂れた。
うるさくてとめどなくて、まるで蝉の声みたいに話が鳴り止まない。

彼の話に何の嫌悪感も示さずにメモをとるタカ丸さんも、本当に熱心なのか、やはりただの天然なのか。たまに滝夜叉丸の後ろ髪を梳く指先に倣って、タカ丸さんの眼差しも同じ方向へ傾く。
さっきの話はどうなったのか。この珍妙な光景を前に、とうとうわたしはそう尋ねる気力さえ失ってしまった。
無意識に深いため息がもれる。

ぐだぐだぐだぐだ。
ふむふむメモメモ。

……やってられない。
わたしは残りの夕餉を喉に押し込むと、さっさと食堂を抜け出すことにした。



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